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ニーアに連れられて初めて入ることとなった塔の外観は白く、円柱状になっていて、頂上は王冠みたいに形作られている。
窓は上方にしかなく、下方にあるのは目の前にある鉄製の重々しい扉だけ。
ニーア改めフィリー(そう呼べと言われたので)がゆっくりとその扉の鍵を回し、音を立てて扉は開いた。
(まるで監獄)
たった一つしかない入口には厳重な鍵がかけられ、窓は逃げ出すことができない上の方にしなかない作りにふとそんな感想が漏れる。
ローズハウスの敷地内にあるというのに、塔の内部には全く違う空気が存在していた。
重く、静かで、痛い…塔の内部が薄暗いからそんな風に思うのかもしれないけれど、私は別の世界に迷い込んだような気すらした。
塔の内部は色々なものが溢れていたが、フィリーは迷うことなく上へと延びる螺旋階段を目指す。
「こっちだ。暗いから階段に気を付けて」
フィリーの後に続いて階段を上りながら、一階にキッチンらしきものがあることに気が付いた。ここで料理とかも全部しているようだ。
「ここにはこの間、失踪騒動を起こした俺の家族。母親がいる。」
表情は見えなくても、声の固さからフィリーの緊張が伝わってくる。
「この塔は母の揺り籠で棺桶。母を守る盾で、閉じ込める檻。……本当は俺がいちゃいけない場所なのかもしれない。だけど、俺は―――」
フィリーの母親がどんな人物で、どんな状況にある人なのかは全く分からない。
だけど、私がこの建物に抱いた感想は強ち間違ってもいなかった。
多分、ここはその人を外から守るための場所であるのだろうけど、それは同時にその人の自由を奪い、閉じ込めることとなったんだろう。真実、そういう意図がないとしても。
この場所は現実と隔離された場所なのだ。
そして、フィリーがそれ以上何も語らないまま、塔に唯一しかないと思われる部屋の前に到着する。
数秒扉の前で立ち止まり、意を決してフィリーは扉をノックする。
「はい。」
「フィリーだ。入るぞ。」
帰ってきた女性の声にフィリーは一声かけて、ドアノブを回した。
薄暗い塔内から、窓からの光が満ちた室内の明るさに目が眩む。
目が慣れて、フィリーの後に続いて部屋の中に入ると、鋭い声と何かがぶつかる音が聞こえた。
「いやぁあああ!来ないで!!!
悲鳴と変わらぬ女の声。
ばさりとフィリーの足元に本が落ちたのを見て、私は先程聞いた音がフィリーにぶつけられた本だと知る。
「だ、大丈夫?」
本とはいえ角が当たったりしたら、かなり痛い。
フィリーの背後から彼の覗き込める位置まで移動して、私は絶句する。
彼の表情があまりに悲しそうで、辛そうで…だけど、私が覗き込んでも彼は気が付いた様子がない。
フィリーはただ一点を見つめたまま、立ちすくみ、何も聞こえず、何も見えなくなっていた。
その視線の先にある存在に私は目を丸くする。
「おやめください!!!」
「イヤイヤイヤイヤイヤ!!!」
車椅子の上で狂ったように叫びをあげ、髪を振り回す痩せ細った女性と、彼女を押さえつけようと抱きしめるようにしている女性。
「クルナアアアア!!!!」
胸を抉るような、悲痛な叫び。
そこには狂気じみた憎悪と絶望があった。
なりふり構わない剥き出しの強い感情が、声となり私を貫く。
痩せ細り、眼球の形が浮き彫りになった瞼は限界まで開かれ、そこからまるで血を滴らせたように鮮やかで、燃える炎のように煌めく赤い瞳がぎらりと光った。
叫びと同じ感情しか有していない、その瞳が私を竦み上がらせる。
そして、その感情はすべて、フィリーへと向かっていた。
強張った彼の表情から、彼があれほど動揺していた原因が朧げながらに浮かび上がる。
この女性がフィリーの母親なのだ。そして、彼女は全身でフィリーを拒絶していた。
「か…母さん。僕だよ、貴方の息子のフィ―――」
「来るなぁああああああ」
震える声でフィリーが伸ばした手を強く振り払い叫んだ彼女は、その勢いのまま車椅子から転げ落ちる。
「母さん!!」
「アイルフィーダ様!」
フィリーの言葉ともう一人の女性が叫んだ声に、私はわずかに固まる。
(アイルフィーダ?)
フィリーの母親は私と同じ名前だった。
▼▼▼▼▼
そんな衝撃的な出会いを果たして、早数か月。
フィリーのお供をしてそれから何度も塔へとお邪魔することとなり、私もこの親子の複雑な事情という奴をぼんやりと知ることとなった。
フィリーの母親であるアイルフィーダさんは、昔、自我を失うほど深い心の傷を負った。
以来、時たま正気に戻ることもあるらしいけど、基本的には無感動・無表情・無気力。
彼女の眼は何も映さず、耳に言葉は届かず、口が意味のある音を発することは、ほとんどない状況だという。
息はしている。生きてはいる。
だけど、彼女は誰かが食事を食べさせ、服を着せ、風呂に入れなければ、何もできない人形と成り果ててしまったのだ。
その後、アイルフィーダさんがどういう経緯でこの塔に入ることとなったのかは定かではないが、彼女はこの塔で専属の使用人、あの時アイルフィーダさんに抱きついていた女性ガーネットさんと二人っきりでひっそりと生き続けている。
見舞いに来るのは、息子のであるフィリーと、そのお供の私だけ。
複雑な事情はフィリーの無言と、ガーネットさんの何も言わせない笑顔の前に、聞くことはできていないけれど、やはり計り知れない何かがあるんだろうと察しはついた。
さりとて何の力もない小娘にできることはなく、できることと言えば、フィリーに誘われてお供をするのと、その時に花の一つでも持参するくらいだ。(しかも買ったわけでもなく、ローズハウスの花を拝借しているし)
「ガーネットさん。こんにちは、これ今日の花です。」
「アイルさん。ありがとうございます。さっそく飾らせていただきます。」
アイルフィーダさんと区別するためか、ガーネットさんは私のことを一度も『アイルフィーダ』とは呼ばず、『アイル』と呼んだ。
多分、年ごろは40代半ばといった所なのだろうけど、きっちりと纏められた髪に化粧気のない顔で、常に笑顔なのにどうしてかいつも相手にNoと言わせない威圧感を漂わせる。
そして、まるで貴人の世話をするように、アイルフィーダさんのことを様付で呼び、何をするにも恭しく、ローズハウスで住人たちの世話をしているスタッフさんたちとは明らかに一線を画している。
アイルフィーダさん専属というのもあるかもしれないけれど、主人と使用人のような厳粛な関係を少なくともガーネットさんは築いているらしい。
塔の中で私がそんな彼女に花を渡している横で、車椅子に座った母親の前に膝をつきフィリーは取り留めのない話をしている。
「母さん。今日はいい天気だよ?」
「学校で面白いことがあったんだ。」
「アイルが子供たちに馬鹿にされて怒っていたんだよ?」
最後は少しばかり言わなくてもいいことのような気がするけど、返事がない母親に穏やかに言葉をかけ続けるフィリーははた目から見ればバカみたいかもしれないけど、フィリーの思いを知っている私はその光景を見るといつも心が痛んだ。
アイルフィーダさんはフィリーに視線すら向けないまま、茫然と前を見ているだけで、初めて会った時のような激しさは微塵も感じられない。
それは今の彼女に完璧な女装を施されたフィリーは『女』として認識されているから…
―――アイルフィーダさんは『男』に強い拒否反応を見せるらしい
負った心の傷に『男』が強く関わっている…のかもしれない(これはあくまで私の予想)、ともかく『男』という存在が近くにいるだけで、彼女は初めて会った時のように激しい拒否反応を示す。
それは血を分けた息子フィリーに対してもそれは同じ。
あの日、フィリーがとても動揺していた日。
フィリーは暑さのあまり服を一枚脱ごうとして、うっかり上半身裸になってしまい、母親に男と認識された。(顔が女でも、さすがにあの胸板の上に偽乳を乗せただけでは男とばれるだろう)
結果、アイルフィーダさんは発狂し、それを目の当たりにしたフィリーは塔から逃げ出した。
それまで完璧な女装で、彼は一度も男として母親と接したこともなかったらしい。
男を拒否すると話には聞いていたけど、想像と現実は違う。
あの存在すら認めない強い拒否。しかも、それが母親が初めて発した彼へのまともな言葉と感情だったとしたら、それはあまりに辛い経験だっただろう。
そこを私に八つ当たりするなと責められれば涙の一つもでるだろうと、それを聞いて少しばつが悪くなった。
だけど、その後、フィリーはまた母親の元に戻った。
発狂したまま、彼を拒絶したままの母親であろうとも、それから逃げ出さずに受け入れることにしたのだ。
そして、フィリーは自身を息子、すなわち男として受け入れて欲しいと思うようになった。
それまでは母親が心安らかなれば、女としてしか受けれられなくてもいいと思っていたらしいが、女装にも限界があるし、やはり本当の自分を受け入れて欲しいと考え直したらしい。
とはいうものの、フィリーは女装はやめていない。
いきなり男の姿でアイルフィーダさんを混乱させても仕方がないと、とりあえずは女装したまましゃべり方などから本当の男としてのフィリーを見せていくと彼は語った。
結果として、今のところアイルフィーダさんも目立った拒否を見せないまま今日に至っているけど、私にはそれまでの彼と今の彼の違いが全く分からない。
「そうですか?全然違いますよ…フィリー様は女性の演技が本当に上手でいらっしゃるから。」
首を傾げる私にガーネットさんはそういうけど、少なくとも私の前ではいつもあんな感じだし、それで問題がないから気にしないことにした。
(それよりも私、いつまで付いてくればいいのかな?)
付いてくるのが嫌な訳はないのだけど、来たところでいつも母子の語らいを見守ってお茶を啜っているだけの私は身の置き所に困ることもしばしばだったりする。
▼▼▼▼▼
「アイル。今日もありがとう。」
塔を出るころにはすでに夕方で、門限も近いので帰ろうとするとフィリーも一緒に帰ることとなった。
「ううん。別に私は何もしていないし。」
塔に行くようになって一緒にいられる時間は増えたけど、フィリーとアイルフィーダさんの時間を邪魔するわけにもいかず、私たちに取り立てて進展はない。
というか、私も進展させようと思っていない。
フィリーに恋していると思うし、もし、彼がそれに答えてくれたら最高にハッピーだと思う。
だけど、今はまだその時期じゃないとも思う。
何しろフィリーはアイルフィーダさんの事でいっぱいいっぱいだと思うし、何もできないけど彼が悩んでいるとき、せめて、相談くらいには乗ってあげたい…なんて、似合わない乙女なことを考えたりしている自分が嫌いじゃないのだ。
今はまだこうして夕日に伸びる二人の長い影が重なるくらいでいい。それを見るだけで嬉しい自分が楽しかった。
「あのさ、俺…じゃなかった私、アイルに何かお礼がしたいと思っているんだけど。」
「お礼なんていいよ。言ったでしょ?私は何もしていないし。」
だから、急にそんなことを言われても恐縮する。だって、言える訳ないけど私の行動には下心ありありだ。
「私だってお礼って言っても、大したことはできないよ。だから、考えたんだけど、この間子供たちに服装を馬鹿にされてたよな?」
「ばっ馬鹿になんてされてないし。」
そうはいっても、今の自分の服装を見下ろして段々と声が小さくなる。
フィリーはそんな私にこともなげに言った。
「だから、私がコーディネイトしてやるよ。」
「なっ!」
絶句。何を言い出すこの男。
「心配するな。私のいつもの服は自分で選んでいるんだ。子供たちも私の服装は褒めていただろう?洋服を買ってやるほど財力はないけど、見立ててやるには十分なセンスだと思うぞ。」
だから、任せろと言わんばかりの彼に『問題はそこじゃない!』と声を張り上げたかったけど、ぱくぱくと口を動かすしかできない。
「今は可愛くて安い服も多い。私も秋に向けていくつか服を見ようと思っていたから、ついでだ。ついで。来週の休み。ローズハウスに行く前、午前中とか時間はあるか?」
「あ…え?」
てきぱきと私の返事も聞いていないのに、彼の中で話が進む。
「だから、時間はあるのかと聞いている。」
「あります!」
ずいっと覗き込まれて、のけ反りつつも咄嗟に答えてしまう。
「そうか。じゃあ、来週10時にメルト・ファンドの時計台で待ち合わせにしよう。じゃあ、私は向こうで迎えを待つからお別れだな。アイル、気を付けて帰れよ。」
そして、颯爽と走りさっていくフィリーをボンヤリと見送って、硬直すること数分。
(これってもしかしてデート!?)
フィリーにそんな意図はないと分かっていても、私には突如持ち上がった重大事項に嬉しさよりも、混乱が先んじていた。