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私を夜の眠りから呼び起こすのは、朝の光でもなく、小鳥のさえずりでもない。それは隣で寝ている夫の遠慮がちに起きる気配。
夫はいつも夜が明ける少し前に起きる。
彼は私が自分に合わせる必要がないと言ったけど、そういう訳にはいかないと一度だけ同じ時間に起きたことがあった。
だけど、その時酷く迷惑そうな顔をされて私の心は折れた。ただでさえ疎まれているのに、これ以上の不快感を彼に与えたくなかった。
だから、私は毎朝夫の起きる気配で一度は目が覚めても寝たふりを続けている。
もし熟睡していたら極僅かな夫の気配で目が覚めることもないのかもしれないけど、悩んだまま寝ている私の眠りは浅いらしい。
その後、二度寝をしても誰が咎める訳でもないけど、広いベッドの上に一人で取り残されると強い孤独感が押し寄せて眠りを妨げるので、私はただじりじりと起きる時間を待つ。
そうして私が起き出すふりをする時間に侍女が寝室の扉をノックして、やっと私は孤独感から解放される。
ノックに答えると美しい笑顔で侍女が『おはようございます』と言う。それに『おはよう』と返しながら、夫とはこんな朝の挨拶すら碌に交わした事がないと気がついて苦笑した。
夜が明ける前に寝室を後にする気配を感じた後、彼に次に会うのは眠る前だけ。
―――彼が発するのは『愛している』の一言だけ
そんな言葉、どうして信じられるというのだろう?いや、きっと夫はむしろ信じてほしくないに違いない。
彼が妻となった私に義務感だけで『愛している』と言っていると分かっていても、これでは却って寂しくて辛いだけ。だけど、私は決してそれをやめてとはいえない。
それを聞いて嬉しいと思う私が確かにいるから。そんな自分に私は強い嫌悪感をいつも抱いていた。
…というあまりに暗い出だしでごめんなさい。はじめまして、私の名前はアイルフィーダ・ヴァトル。今年で25歳になる。
他に自己紹介を…と思うけど、とりたてて紹介するほど私には特徴がない。強いて言うなら特徴がない事が特徴なのかもしれない。
身長は高くも低くもなく、体型は痩せてもいなければ太ってもいない。髪は一般的な栗色で目の色も黒に限りなく近い茶色。
顔は自分では特別不細工だと思ったことはないけど、一度見ても大抵の人はすぐに忘れてしまいそうな何処にでもある顔で、性格も別に普通だ。
そんな普通という名の皮しか被っていない私が、その皮を大々的に脱ぎ捨てることになるとは思わなかった。
―――そうなった理由は夫…世界王フィリー・ヴァトルとの結婚
彼との結婚で私は世界王の正式な妻…世界王妃という、あまりにも特別で、地下深くまで沈んでしまうほどに重すぎる肩書を背負うこととなったのだ。
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「ごちそうさま。」
広い部屋での一人の朝食を終えると、すぐに控えていた使用人が音一つ立てずに食器を片づける。
「食事はお口にあいませんか?」
食べ物が半分くらい残ったまま下げられていく食器を横目で見ながら、私の後ろに控えていた侍女ルッティがそう聞いた。
あくまで優しい物言いだけど、その言葉に私は彼女を見上げて苦笑した。
見上げたルッティは侍女だけあって質素な化粧だし地味な洋服を着ているけど、それでは隠しきれない彼女の凛とした美しさはいつも眩しい。
初めて彼女を自分付きの侍女だと紹介させられた時、私はとても申し訳ない気分になったものだ。
「まさか。食事はとても美味しいわ。」
「ですが、ここ最近ずっと食事を残されていますよね?」
美しいだけでなく、ルッティは侍女としても完璧だ。私のことを監視している訳じゃないけど、いつもさりげなくちゃんと見ていて気を遣ってくれる。
慣れない環境にいきなり一人で放り込まれた私がここまで何とかやってこれたのは、彼女の献身的ともいえるサポートがあってこそだと私は思っている。
だからこそ彼女の働きに報いるならば、食事くらいちゃんととらないといけないんだろう。だけど、この事に関して言えば私にも言い分はあった。
「出される食事をちゃんと食べられなくて申し訳なく思ってはいるの。だけど、ここにきて数カ月、私は後宮から一歩も外に出ていない。王妃として何の仕事だってしていない。ただ、日がな一日のんびりと過ごしているだけじゃお腹も空いてこないのよ。」
世界王妃となった私の住まいとなったのは、世界の中心にある神都アッパー・ヤードにそびえ立つ王城。更に詳しく言えばその最奥にある後宮だ。
広大な王城だけで私がかつて住んでいた都市と同じくらいの大きさがあり、私が出入りすることを許されたこの後宮ですら私がかつて住んでいた町くらいの大きさがあるという。
それを聞いただけでくらりと眩暈がしたものだけど、いくら後宮が広いと言われたって、ここから出るなと自由を禁じられる事は強いストレスでしかない。
さらに言わしてもらえば、自由に歩いていいと言っても常にこのルッティを始めとした誰かがいるという大前提があるのだ。
彼女たちにしてみれば監視しているという意図なんて微塵もないんだろうけど、誰かに傅かれたり誰かを連れて歩くという生活と無縁だった私にとって、それはあまりに居心地が悪かった。
「そのことに関しては私たちも色々手を尽くしております。しかし、現状ではアイルフィーダ様の安全を確保できるのはこの後宮のみです。窮屈を強いてしまっていることは本当に申し訳なく思っておりますが、もうしばしの御辛抱をお願いせざるを得ません。」
「…わかっているわ。」
この会話をここ数カ月で一体何回交わしたことだろう。
その度、私はそれ以上何も言えなくて、ただ聞き分けのいい返事をしている。
「何しろ私はオルロック・ファシズ<神を信仰しない陣営>の人間です。それを承知でこちらに嫁いできたのだから…我儘は言いません。」
まあ、こうやって嫌味の一つや二つは混ぜているけど。
「アイルフィーダ様にそう言っていただけるとありがたいです。」
だけど、ルッティの方が何枚も上手だ。
私が嫌味を返しているというのに、それを分かった上で笑顔でそう切り返す彼女に私はただ大きなため息をつくしかない。