17:再会は爆音と共に その5
白いもやが晴れた向こうには、随分と見慣れた、けれど懐かしい光景があった。
背景はアニメのCGのような異世界空間であっても、片方の性別が変わっていても、片方が半裸で土下座態勢に入っていても、近くに生きてるか死んでるかわからない獣がぐたりと倒れていても、全然違和感を感じない。
笑ってしまうほど懐かしい。地球にいた頃と同じような感覚に、漸くだ、と胸にツンと来る何かがせり上がった。
喧々囂々と小型犬の喧嘩のように騒がしい二人に目を細め、誘蛾灯に引き寄せられる蛾のようにふらふらと身体が勝手に動いた。
しかし立ち上がろうとしても、腰に回された腕が邪魔でつんのめっただけで終わる。
視界を遮る邪魔なもやを退けてくれたものの、ウィルは拗ねた顔で視線を逸らし、シャープなラインを描く頬を膨らませていた。
「───手を放してもらえないと、動けないんですけど」
「必要ないだろ。どうせあっちから来る」
不機嫌な声に勢い良く反応したのは、長い黒髪を靡かせる若武者のような凛々しい美青年だ。
濡れたような漆黒の瞳をこちらに向けると、ぱっと顔を輝かせた。
花が咲き綻ぶという表現は、彼女(彼)のために用意された言葉だろう。
男になっても相変わらず麗しいくも美しい幼馴染は、凪だけを瞳に映して一直線に駆け出した。
「気がついたんだな、凪!大丈夫か?いや、大丈夫じゃないのはこの目で見たが、もう痛みはないか?異界の神が治癒して傷跡も残らないと言っていたが、どうなんだ?」
「いや、まだ確認してないからわからないけど・・・」
「なら私が確認してもいいか?───わたしを庇って出来た傷だ、心配なんだ」
今にも泣きそうに顔を歪めた桜子は、凪の、多分穴が開いただろう部分にそっと掌を置いた。
見た目は完璧な美青年だが、女の子であった頃を知っているだけに警戒心が沸かない。
子供の頃、意地を張って涙を堪えてるときと同じ表情をする親友に、眉尻を下げて微笑した。
丁度鳩尾よりも僅かに上の辺りを摩る桜子は、未だに生々しい傷が残っているように恐る恐る触れてくる。
凪自身は完全に治癒されて痛みなどない。むしろ存在を忘れていたくらいだ。
泣きそうな顔で心配してくれるのは嬉しいと言うより、申し訳なさが先立った。
「俺が他人のつけた跡をこいつに残すわけねえだろうが。確認なんてしなくても、傷は完璧に消えてる。それこそ、存在すらなかったことにしてな」
「・・・男の嫉妬心もたまには役に立つな。貴様には色々と文句も言いたいが、その力は信じている。それに、私以外の相手に凪の肌を見せる必要もない。───本当に痛い思いをさせてすまなかった」
こつん、と額を当てた桜子は、長い睫毛を伏せ気味に謝罪した。
凪からすれば桜子が傷つくのを見たくなくて勝手にした行動に、彼女(彼?)が傷つく必要はないし、良心の呵責を感じる必要もない。
さらりと肩口から絹のように滑らかな艶やかさを持つ黒髪が流れて、それをひと房指先で掬った。
桜子の好きなところは沢山あるが、中でもこの癖が付かないほど真っ直ぐな黒髪は、特に好きなものの一つだ。
「ねえ、桜子。多分、私より桜子のほうがずっと痛い思いをしたよ」
「凪?」
「私は痛いっていうより、熱かった。でも桜子は、ここが痛かったでしょ?私が同じ立場で、目の前で桜子が重症を負ったら、多分耐え切れないくらいここが痛む。だから、私のほうこそ、ごめんね」
とんとん、と座っていても手が届く場所にある胸を、握った拳で軽く叩く。
叩いた掌を解いて心臓がある辺りに置けば、どくどくと通常より早い鼓動が伝わってきた。
くしゃりと顔を崩した桜子は、ウィルの存在を無視して凪の頭を胸に抱きこむ。
「あ、テメ、俺の凪に触るな!」
びしりと桜子の腕を叩いたウィルは、子供がお気に入りの玩具を取られまいとするように、ぎゅうぎゅうに腕に抱きこんで全身を使い凪を掴む。
痛みは感じないが、動いてももがいても外れない拘束は、うんざりとさせるには十分な力を持っていた。
しかし命を助けてもらった手前きつくも言えず、結局いつもどおりため息と共に許容した。
むっと苛立ちで柳眉を顰める桜子の美貌を眺めつつ、もぞもぞと背後で居心地悪そうに正座を続けるもう一人に視線を送った。
「秀介」
「!!?」
名前を呼ぶだけで、びびくんと大袈裟に身体を震わせたもう一人の幼馴染は、俯かせていた顔をゆっくりと持ち上げる。
辛うじて腰巻を巻いてるだけで、ほぼ全裸の彼は、覚えているよりも少し老け・・・否、少し成長していた。
顔や雰囲気は変わらないが、凪と同じで年齢をプラス五歳くらいされた見た目をしている。
短かった髪はもっさりと伸びて襟足まで掛かっているし、無精ひげも生えていた。
けど凪が彼を見間違うはずがない。
すぐ傍には先ほどまで桜子の相手をしていた黒い獣が白目を剥いて転がっている。
同じ相手が同時に二箇所に存在することだけが不思議だが、一月ちょっとぶりに会う大切な相手の前に、面倒な思考は霞んだ。
「相変わらず、桜子と喧嘩するとボロボロにされるんだね。顔面が腫れ上がってるし、唇は切れてるし、青痣だらけじゃない。どれだけ殴られたの」
「・・・・・・多分、今までで一番」
「いつもはもうちょっと軽症で収まるのに。わざと避けなかったの?馬鹿だね」
「ああ、馬鹿だよ。一等大事なもんに、傷つけちまうほどにな」
苦渋が滲んだ声は、久し振りに聞くものだ。
大抵のことはからりと忘れて切り替えが早い秀介なのに、凪の腹を貫いたのは、精神的にダメージが大きかったのだろう。
あちらの世界では凪が誰か認識出来てなかったみたいだが、今の彼はしっかりと誰だかわかっている。
だからこそ余計に苦しんで、女の前で泣くのは名作アニメを見たときだけと言っていた彼らしくない、泣きそうな顔を曝していた。
「私がわかるの?」
「今は、な。あっちにいる時は記憶を残すために沈めてたから、お前が誰だかわからなかった。けど、お前が特別なのには変わらなかった。1000年近い時間を一人で過ごしてきたのにお前だけは気になって仕方なくて、だから浚った。それでもやっぱり記憶を沈めたままだと理由が判らなくて、浚ったはいいがどうしたものかと混乱してる間に桜子が来て、取られたくないって本能であいつと戦った。結果としてお前を無茶苦茶傷つけて、俺、何やってるんだろうな」
自嘲を含んだ言葉は、やっぱり秀介らしくない。
腰を掴んでいた腕をぽんぽんと叩いて促すと、小さな舌打ちと共に拘束が解かれた。
嫌々、渋々というのがよくわかるゆっくりな仕草に苦笑して、『ありがとうございます』と礼を告げる。
凪限定でウィルはとても甘い。
その甘さを利用する自分は最低と罵られても仕方ないのに、彼は責めることすらせずに凪を甘やかす。
どうして、と思わなくもないが、理由を考えはしない。
きっと聞いても『神の愛し子』だからだとしか、答えてくれないだろう。
それがわかるくらいには理解できるようになった神の目を見て、ふわりと微笑む。
真正面から凪の笑顔を身た彼は、照れくさそうに頬を指先で掻きながら、眉間に皺を刻んで深々とため息を吐き出した。
ウィルの腕から開放されて、正座したままの秀介に近づく。
一歩一歩距離を詰めるたびに緊張感が高まるのが、ぴりぴりとした空気と共に伝わった。
目の前で足を止めてしゃがみ込むと、ぼさぼさになっている髪に手を伸ばす。
そして最近の自分がそうされるように、ぐしゃぐしゃと遠慮ない力で撫で回した。
「!?な、凪!?」
「シャッフル、シャッフルー」
「う、お、おお!?視界が回る、目も回る!ちょ、おい、凪!」
「思考の迷路に入り込んだってどうせ大した結論はでないよ。それならもうぐちゃぐちゃにシャッフルして忘れちゃえ」
「けど、俺はお前を、お前を傷つけて」
「って言うか、私の傷はウィルが直してくれたけど、秀介ぼこぼこのままじゃない。絶対に私よりダメージ大きいから。ウィルも桜子も秀介の傷は治してくれないよ?ちなみに私はそんな特殊能力持ってないから、期待しないでね」
拠り所がない子供のように瞳を揺らす秀介は、正座した太腿の上で震える拳を握り締めた。
最近の彼は何故か凪を子ども扱いすることが多かったから、立場が逆転したようで面白い。
ぱちりとウィンクすると、渋い顔で眉を寄せた彼は、苛立ちと共に叫び声を上げた。
「ちゃかすな、凪!」
「凪に怒鳴るな、ど阿呆」
「そうだ、ど阿呆」
立ち上がろうとした瞬間、両サイドからいつの間にか来ていた桜子とウィルにより足蹴にされ、ぐしゃりと顔から床に叩きつけられる。
蛙が潰れたような態勢でくぐもった声を上げる秀介は、尚且つ頭と背中から退かされない足にもがもがともがいた。
家で見つけたGが頭文字の虫を、彼の母親がスリッパで踏み潰した瞬間をなんとなく思い出す。
驚き凍り付いて動けなかった凪と秀介の目の前での笑顔の蛮行に、彼女には逆らってはいけないと二人で手を取り合って決めたのは、もう何年も前のことだ。
息の合ったコンビネーションで秀介が立とうと動くたびに、ぐりぐりと爪先、ないし踵を動かす二人にはまったく容赦ない。
互いに好んでいないようだが、ラルゴと違い意外と仲良くなれそうだと、唇に手を当てて小さく笑った。
「ぐ・・・お、お前ら、いい加減に、」
「秀介」
「っ」
「二人曰く秀介はど阿呆らしいし、もう考え込むのやめなよ。さっきも言ったけど、どうせ大した結論はでないんだから」
笑い混じりの声で告げれば、漸くもがくのを止めて大人しくなった秀介から、ウィルと桜子は足を退けた。
やっと自由になった身体を起こすと、前髪に手を通して緩やかに頭を振る。
そして覚えてるのと同じ桜子よりも少しだけ薄い黒い瞳をこちらに向けて、泣きそうに顔を歪めて笑った。
「お前って相変わらず見た目と違って辛口な」
ようやっと求めていた懐かしい笑顔を見せてくれた幼馴染に、凪はにこりと微笑み返した。