17:再会は爆音と共に その4
全身にじんわりと心地よい熱が広がる。
何か大きなものに抱えられるかのように、膝を丸めた状態で温もりを感じていた。
時折頭の天辺に、魚が餌と間違えて指先を突くのと同じくらいの感触の何かが触れては離れていく。
「・・・か!───だ、本当に・・・は、・・・・・・!!」
「・・・・・・い。すん・・・・・・」
普通、最初に戻るのは聴覚だというが、どうやら凪は先に触覚が覚醒していたらしい。
温もりを与えられることで徐々に浮上した意識に入り込む盛大な怒鳴り声に、ふっと笑う。
そして唐突に自分が呼吸をしていること、さらにはあの貫かれた痛みとも感じない鬱陶しい熱もなくなっていることに気づいた。
「・・・凪、起きたか」
聞き覚えのある滑らかな低音に、なけなしの根性を振り絞って瞼を持ち上げれば、吐息が触れ合う予想外の至近距離に宝珠より美しいピジョンブラッドがあった。
白と赤で全身が形成されているその人は、形良く整った眉を寄せて不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
しかし反してその手つきは優しく柔らかで、思わず心地よさに瞼を閉じた。
「おい、寝るな。この馬鹿娘。って言うか、この騒音の中良く寝ようと思えるな」
「・・・・・・」
折角の心地よいまどろみに再び沈み込もうとしたら、額に衝撃を受けて渋々もう一度瞼を開ける。
男性にしては節くれだっていない綺麗な人差し指が立っているのを見て、デコピンされたのだと気づくと、疼痛を訴える額を片手で押さえた。
「・・・痛い」
「そりゃそうだろ。痛いようにしたんだ」
「・・・怒ってますか?」
「当然だ」
形良く尖った顎をツンと逸らしたウィルは、それでも凪の腰に回した腕を解こうとはしない。
しかし現状でこれ以上話をする気もないらしく、一文字に閉じられた酷薄な唇が開くことはなかった。
なのでとりあえず現状把握しようと、くるりと視線を周囲に向ける。
開放的でありながら閉鎖的。どこまでも続きそうで腕を伸ばしたらすぐ壁についてしまうのではないかと思える不思議な空間は、真珠のような輝きを鈍く放っている。
見覚えのある空間だ。
異世界に移る前に落ちた泉から、こことそっくりな不思議空間に入り込んだ。
思えばあのときから『泉』と名の付くものとの相性の悪さが露呈していたのかもしれない。
異世界トリップの原因が『泉』なら、今回の騒動が始まる前に向かっていたのも『泉』だ。
今後は注意しよう、なんて割りとどうでもいいことを考えながら、更に視線を動かす。
するといきなり白いもやが視界にかかり、前方が見えなくなった。
大気がないと教えられた空間で霧が立つはずもないし、明らかに意思を持った行為に、はんなりと眉間に皺が寄る。
嘆息して小さな子供をそうするように、胡坐を掻いた足の上に凪を乗せ、背中を丸めてぴたりとくっつくお気に入りの態勢を維持する神へと手を伸ばした。
凪とウィルの身長は大体40センチ程度は離れている。
彼が姿勢を正していたら座っていても手は届かなかったかもしれないが、視線は逸らしたものの肩に顎を乗せるようにしていたので、身体だけは柔らかい凪は大した苦もなくウィルの頭に手が届いた。
「ウィル」
「・・・なんだ」
名前を呼びかければ、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
凪の意識が他所に逸れたと察した瞬間に周囲を見えなくした大人気ない神様の顔を見るために、横を向いた。
黙って澄ましていれば怜悧にも見える美貌だが、凪の前では喜怒哀楽を出してくれるため冷たく感じない。
『神の愛し子』の名のとおり、どうしてか無条件で慈しんでくれる相手の横顔は、怒っているというより拗ねていた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
本当なら深々と頭を下げて礼を言いたいところだが、立ち上がることも出来なければ、肩に顎が乗せられたままで身動きも取れない。
ならばせめてと真摯な想いを言葉に篭めて伝えると、一層不機嫌そうに眉間の皺が深まった。
予備動作なしにこちらを向いた端整な顔は、苛立ちと良く判らない感情を瞳に乗せてこちらを睨んでいる。
思わず小首を傾げれば、彼に伸ばされた髪がさらさらと開いてる肩の上を滑って流れた。
「もし俺が来なければどうなっていたと思う」
「そうですね。桜子の『羅刹』としての力を知らないので確実とは言えないですけど、あの取り乱しようからすればまず無事じゃなかったと思います」
「その通りだ。この世界での医術はお前のところと発展の仕方が違う。もしまだお前が『カラコの泉』に居た状態で同じ目にあっても、あの狼の医者では助けられなかっただろう。あれはここら一体では一番の腕を持つ、つまりあいつが駄目なら誰でも駄目だ。魔法も万能ではない。一発で完全に傷を全て治す魔法など、この世界には存在しないんだぞ」
低く呻るような声は、苛立ちに塗れている。
それなのに、どうしてだろう。
神であるウィルを前に、申し訳ないと心は痛めど、毛が逆立つような恐怖は感じなかった。
凪の腰に回されていた腕に力が篭められ、一層強く身体が引っ付く。
ウィルの身体は体温が低くて冷たいので、さっきのじんわりとした温もりは彼の力に寄るものだろう。
神様の名前は伊達じゃない。つい先日も一端を見せ付けられたばかりだ。
鋭すぎる眼差しでこちらを射抜く瞳を真っ直ぐと見返して、凪は小さく微笑んだ。
「でも私にはウィルが居ますから」
「・・・っ、俺がお前の呼び出しに応じないとか、考えなかったのかよ!大体俺はまだ怒ってんだぞ!お前は俺のもんなのに、余所見ばかりしやがって俺を全然構わねぇし、挙句俺じゃない相手を優先したんだぞ!」
「それでも来てくれるって知ってました」
信じる、信じないの話ではなく、『知っていた』。
ウィルが凪を絶対に見捨てないことを。
にこりとわざとらしくも微笑んだ凪を見て、苦虫を百万匹は噛み潰したような渋い表情をした彼は、凪を抱いていた片手を離すと、短い髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「あー、そうだったな。俺のお気に入りの『愛し子』は、そういう奴だった」
「はい」
「砂糖菓子みたいな見た目に反して強かで甘さが足りなくて性格が悪い。大事なものとそうじゃないものは心の中で明確に区別しているし、だからこそいざというときに何を切り捨てるか選択に躊躇がない」
「はい」
「おまけに根本の魂からの歪みは今更矯正は利かないし、愛情を注がれても穴が開いた器に溜まることはない。溜まらないくせに唯一満足感を得て返そうとするのが、心から信頼するあの二人だ」
「はい」
さすが神様、とでも言えばいいのだろうか。
凪の特質を良く理解する言葉の羅列に、瞳を伏せて口角を持ち上げた。
そう。ウィルの言葉通り、基本凪の中は空っぽだ。
どれだけ愛情を注がれようと、穴の開いた器から流れ出てしまうので、『想い』が留まり溜まることはない。
年齢より幼く見える童顔で周囲は油断しているが、そんなに優しい『人間』でもない。
大切なものとそうじゃないもの。いざという時に本当に大事にしたいものが明確に仕分け出来ていて、世界のほとんどがどうでもいいに区分されていた。
桜子と秀介は凪にとって唯一の存在だ。
彼らがいるからまだ生きてるし、生きていたいと思える。
想いは最早依存に等しい。逆に言えば彼らが居なければどうでもいいので、三人の魂を結ぶことを望んだ。
誰かが逝けば他の二人も同時に世界から消える。
こんな願いを正気で願う凪の魂が、歪んでいないはずがない。
「だから神であるこの俺すらも利用した。たかが『人間』の娘の癖に、この俺を、だ」
吐き出すように囁かれた内容に、伏せていた瞳を上げてこちらを射抜く視線と絡ませる。
怒りと屈辱に歪められても尚美しい顔を見て、自然と表情は綻んだ。
多分、彼に向ける中でも一等の笑顔に、切れ長の瞳が丸くなる。
驚きすぎな感も否めないが、一気に負の感情が霧散したウィルに益々笑いが込み上げた。
「神様の『好意』を利用してでもあの二人を助けたかった。折角再会したばかりなのに、私が死ねば二人も死んじゃいますから」
心の底から浮かんだ表情に、一拍置いてウィルは深々とため息を吐いた。
疲れや呆れがあからさまに滲んだそれに、もう一度だけ頭に置いた掌で撫でる。
「───大した悪女だ、お前は」
「私もてないんで、そんなこと初めて言われました」
捨て台詞にもならない嫌味をさらりと受け流せば、もう一度だけ眉根を寄せたウィルは、仕方ないなと首を振った。
一寸前も見えなかったほどの白いもやが徐々に晴れていき、聞こえなくなっていた声も届き始める。
「本当にありがとうございます、ウィル」
思いを篭めた一言に、異界の神は端整な顔を崩してくしゃりと笑った。