17:再会は爆音と共に
何かざらざらしたものが頬を舐める感触に、薄っすらと意識が浮上する。
ぐるぐると胃がもたれる感覚を気力で堪えてなけなしの根性で持って瞼を持ち上げれば、目の前は真っ黒な闇に包まれていた。
直感的にそれが何かわかり、小さく笑みを零す。
思わず腕を伸ばして触れれば、凪が目覚めたのに気づいていなかったらしい『彼』は、びくりと身体を震わせた。
「───おはよう、『秀介』」
ほんの一月近く前まで毎日交わしていた挨拶を囁けば、喉を低く呻らせた『彼』は、今更ながらに警戒心を思い出したのか低い呻り声を出して後退する。
しかしちっとも怖くない。たとえいきなり拉致されても恐怖は感じないのは、『彼』が『秀介』だからだ。
置いてきたラルゴが取り乱すさまが瞼の裏に浮かんで、少しだけ心配になる。
だがどうにかなる状況でもないし、一つため息を吐いて大人しく現状の把握に切り替えた。
忙しなく口周りを舐める黒い獣の姿をした幼馴染は、見た目以外は変わってない。
襲う気があったらもう凪は無事じゃいなかっただろう。
獣は牙や爪がある。目の前の幼馴染は最強の種族『羅刹』で、あのラルゴすら圧倒する力を持っている。
それなのに気絶していた凪が傷一つない状態でここに居るのは、その間何もしなかったからだ。
胃もたれのような感覚を堪えて身を起こし、周囲の風景を確認する。
ぶるりと身体が勝手に震え、肌を刺す寒さに目を眇めた。
この一週間ちょっとの間蒸し暑い空気に慣れていたので、ざわりと鳥肌が立った腕を両手で擦る。
着ているワンピースも勿論半袖だし、寒さから身を守るのに欠片も役に立たなかった。
「ああ、これは寒いはずだね」
切り立った山から見下ろす地上は見えないくらい遠い。
雲海が果てしなく広がり、子供の頃なら歩けると思い込んで走り出していただろう。
空の青と雲の白のコントラストが鮮やかで、瞳を眇めて太陽を見上げた。
掌を翳しても眩く輝く光は鮮やかなまま瞳を焼いて、綺麗だ、と素直に感じる。
「ねえ、秀介。ここは何処?」
「・・・・・・」
「答えれない?私の言葉の意味が判らない?それともその姿じゃ、獣の声しか出せないのかな」
「・・・・・・」
「静かな秀介なんて病気のとき以外で初めてかもね」
一歩近づいて腕を伸ばしたら、彼は姿勢を低くして牙を剥き出した。
背中の毛も逆立ててあからさまに警戒される。ぐるるるる、なんていかにも獣らしい声を出す秀介に苦笑すると、そのまま手を艶やかな毛皮に近づけた。
「っ」
触れた瞬間、がぶりと思い切り掌に食いつかれ、痛みに眉間に皺を寄せる。
だらだらと血が流れたが、手の甲を貫通して骨を砕かれたわけじゃない。
あれだけ頑丈そうな顎を持っていて、龍のラルゴですら恐怖する相手なのに原型をとどめているということは、手加減されたという意味だろう。
人並みに痛覚があるので生理的な涙がじんわりと浮かび、それを見た黒い獣が慌てて顎を開いて飛びずさる。
攻撃力ゼロの凪に対して尻尾を丸めて耳を下げる様子は日本で喧嘩したときと重なって、涙目のまま苦笑した。
「大丈夫だよ、これくらい。『飯食えば治る』って、秀介もよく言ってたじゃない。実際、私の今の身体は治癒力だけは高いから、気にする必要はないよ」
日本に居るときの彼の口癖を告げれば、獣は微かに瞳を眇める。
だらだらと流れる赤い血をワンピースの裾で拭えば、鮮やかな緋色がアクセントになった。
怯えるように一定距離から近づかない秀介に苦笑する。
そう言えば、この世界で他者から傷を受けるのは初めてだ。
しかもこの深さなら、日本に居るときだったらすぐさま心配性の幼馴染に連れられて病院に行き、何針か縫う破目になっただろう。
掌を砕かれてなくても、十分に深手は負っている。
くっきりと穴が開いた手からは血の赤以外にも、骨の白が覗いていた。
掌の皮なんて薄いからさして深い傷じゃなくても骨くらい露出するだろうから、あまり驚きはなかった。
ただ荒事に慣れない凪としては、これだけの怪我を負う機会が今までなかったので少しだけ物珍しくはあったけど。
「ねえ、秀介。ここは何処?まだナナンなの?カラコの泉からどれだけ離れたところ?」
「ぐるぅうるる」
今度はしっかりと返事をした彼に、自然と顔が綻んだ。
掌の痛みを極力意識しないでもう一度秀介へと距離を詰めれば、彼はこれ以上ないくらいに背中の毛を逆立てて飛びずさった。
しかし今二人が居る場所はそれほど広い場所ではなく、逃げ場もない。
山の頂付近にある小さなでっぱりの奥には洞窟───と言うより洞穴らしきものがあり、もしかしたらここは秀介の家なのかもしれないと脳裏を過ぎった。
「秀介、その姿じゃ人語が話せないんだね。どうして人型にならないの?」
「っ!!?」
「秀介?」
驚いたように瞳を一瞬だけ丸めると、耳を伏せた。
獲物を狙う獰猛な獣のように身を構えた姿に、もしかして地雷を踏んだのかと首を傾げる。
ここまで来ても恐怖心が沸かないのは相手が秀介だからだが、これはもしかすると拙いかもしれない。
先日の会合で、どうやら秀介は凪に関する記憶を失っているように見えた。
しかし全て失ってるわけではなく、どこかで覚えているようにも見えた。
それもそのはず、彼は凪を完璧に忘れているわけがないのだ。
秀介がウィルに願ったのは、『最強種の人型になれる生き物に転生する』ことと、『記憶を受け継がせる』こと。
つまり1000年のと時間が長すぎて心の奥深くに記憶を沈めて、忘れた風に見えるだけだ。
事実『忘れたの?』と問いかけたとき、彼は瞳を揺らして困惑を露にした。
辛すぎて記憶を封印したというなら、『もう一度覚えて貰えばいい』と言ったあのときの言葉に嘘はない。
だがもし『忘れて』いるなら、現在の凪は彼にとって不審者でしかなく、警戒するのも当たり前だ。
それなら何故自分の巣と思わしき場所に連れてきたのか不思議だが、現状はもしかしてやばいのかもしれない。
何しろ凪は秀介からの接触を根本で拒絶出来ないのだから。
「ぐぁウルぅ!!」
後ろ足に力を篭めて飛び掛ってきた秀介に、どうしようかとぼうっと眺めていると、黒い影が視界に入った。
それが何か見極める前に、滑らかな通る声が空に響く。
「凪に手を上げるなんて許さん、この痴れ者が!!」
ばきり、と激しい音が響いた後に、どかんと続いて地面が揺れる。
一体何事かと忙しなく瞬きすると、ふわりと扇形に広がった黒髪が目に入った。
伸長は180前後だろうか。しっかりした肩幅とモデル並のスタイルを後ろから見上げていたら、『羅刹』と呼ばれる最強種を殴り飛ばしたらしい男性が振り返った。
筆で書いたようなきりりとした眉に、切れ長の二重の瞳。艶やかな黒髪と、こちらを見詰める蕩けた眼差しに、相手が誰かぴんと来た。
「・・・桜子?」
恐る恐る名前を呼ぶと、益々嬉しそうに顔を綻ばした男性は、凪に向かって両腕を広げる。
そして目に見えないくらいの素早さで移動すると、きゅっと痛みを感じないくらいの、しかし解けない力で身体を抱きしめられた。
「会いたかった、凪」
聞き慣れない声と、がっしりと筋肉のついた固い身体に囲われて、状況把握するためにもう一度ぱちりと瞬きをした。