16:さすがにここは流されない その3
長い抱き枕の真ん中を抱いたときのように、上半身と下半身の力が抜けた状態でぶらぶらと揺れながら根性で顔を上げれば、仁王立ちする龍は、きりきりと眉を上げて鋭い目つきを更に鋭くして睨んでいた。
凪の隣を歩いていたはずなのに、いつの間にガーヴの前に移動したのか。
魔封じの腕輪がきらりと光に反射して、咄嗟に目を眇めたところで、最後の力も抜けた。
「お、お嬢!?おい、大丈夫か!」
「おい、ガーヴ!その娘息をしているのか!?」
「え、へ!?えと、おい!ナギ!大丈夫か!!?」
脱力した凪に驚いたのか、ワンピースの首根っこを掴んで自分の視線まで持ち上げたガーヴは、一瞬だけ凪を飛ばすとすぐさま脇の下に手を入れた。
微かな衝撃に、息を詰める。未だに呼吸は整わず、返事もせずにただただ息を繰り返した。
そんな凪の様子に泡を食った三人は、険悪な空気を吹き飛ばし密度濃く集まってくる。
見た目からして暑苦しい。何となくまた息苦しくなった気がして、最後の根性で持ち上げていた頭すら重くなって垂らすと。
「ぎゃー!!お、お嬢が!俺のお嬢が!」
「待て!まだ間に合うはずだ」
「でも兄者、ナギこれぐったりしてて───」
「・・・いい加減になさい。いい年した男がギャーギャーギャーギャーと見苦しい」
「あっ」
ガーヴが非難するように小さな声をあげ、またしても浮き上がる感覚に包まれる。
今度は先ほどより余程楽な態勢だ。背中をしっかりと支えられて、安定感があった。
重たい瞼を持ち上げると、糸目を開いたサルファの顔が至近距離にある。
痩身だが力持ちだ。所謂お姫様抱っこという、女子であれば胸をときめかせるはずの展開になっている。
ちなみに現在の凪に胸をときめかせる余裕はない。
サルファが役不足とかそういう意味ではなく、それ以前の問題で酸素を求めた心臓がばくばくと高鳴っていた。
『医者は案外力仕事なんですよ』と穏やかな笑顔で自分より大柄な狼を片手でひっくり返していたので、サルファが力持ちであるのに驚きはない。
くの字に身体を折り曲げた凪を片手で軽々と持ち上げたまま腰元を探ると、なめし皮で作られた水入れを取った。
器用にも片手と口を使って袋を閉じていた紐を解いて、零れないよう注意しながら口元まで持ってくる。
「熱中症になりかかってます。これ以上は歩くのは無理ですね。───まったく、予想以上に頑固なお嬢さんだ」
「何故倒れる寸前まで何も言わなかった。自分の体調くらいわからないのか」
「・・・確かにすれすれまで我慢するが、お嬢は自分の限界を知ってる。単にあんたに嫌味言われるのが嫌だったんだろ。ぐちぐちねちねち、男の癖にうるせえんだよ」
「なんだと!?」
ごくごくと常温の水を飲みながら、耳に入る会話をそれとなく聞く。
別に好んで聞いてるわけではなく、割と大音量で至近距離の会話だから聞こえてくるのだ。
正直近場で怒鳴られると頭ががんがんと痛むから勘弁して欲しいのだが、水を飲むのに忙しいため仲裁も出来ない。
ついでに第三者として凪に水を飲ませているサルファも、もう一人付き人として付いてきた無精髭の狼も、全然間に入る気は無さそうだった。
「ラルゴ殿、あれで兄者は精一杯ナギを心配してるんだ。表現は不器用だが許してやってくれないか?」
「そのお陰でお嬢に害が及ぶなら、許すのは難しいな」
「───俺も許してもらおうなどと思っていない。体調管理すら出来ぬ、そこの『虎』が悪いんだ」
「へぇ・・・」
一段と低くなったラルゴの声に、気力を振り絞り口元から水袋を放した凪は、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
水を飲むだけで大分気分は落ち着いた。ささやかな風が髪を揺らし、ふと視線を上げて絡んだ視線からサルファが風の魔法を使ってくれたのだと気づく。
細やかな気遣いをしていただけるのは本当にありがたいが、それなら心因的な部分に当たるあの遣り取りも止めて欲しい。
感情の機微に聡い狼に視線で頼むと、にこりと笑みを深められた。
つまり何もする機はないらしい。言外ではあるものの、随分とあからさまな内容に眉尻が下がる。
一応もう一人の狼にも顔を向けたが、こちらは視線すら合わせてくれなかった。
今回の会合は一応内輪で行われるらしく、少数精鋭で望むとのことだが、ある意味で助けになってくれない。
それ以前に精鋭の部分に、村長の家の警護に当たっていた狼ではなく、掛かり付けの医者が同行することが不吉だ。
純粋に腕前を買われてかもしれないが、いくらでも怪我していいよ的な発想なら嫌過ぎる。
今まさにそうなろうとしている状況で、凪は深く息を吐き出した。
「も・・・ラルゴ、やめてよ」
「お嬢!生きてたか!」
「当たり前だよ。勝手に、人の息の根を、止めないで」
まだ微かに上がる息を宥めつつ声を絞り出す。
ここらへんは原生林らしく、光は木々の間から木漏れ日となって程よくしか当たらない。
しかし直射日光が当たらない分、サウナのような湿気てんこ盛りの蒸し風呂状態の熱さが辛い。
熱を吐き出すイメージで吐息を吐くと、すっと湿った空気を吸った。
こんな状態でもボケるラルゴに、十分なつっこみは出来ない。
というか、あれはボケだろうか。ボケじゃなくて本気なら色々と言わせて頂きたい所だ。勿論、元気があればと注釈が付くが。
「倒れたのは、私が我を通しすぎたのが、原因だよ。ガーズさんの言葉通り、だから、怒る必要なし。私が、悪い」
「だが」
「サルファさん、ここから、カラコの泉まであとどれくらいですか?」
「そうですねぇ、今のペースであれば、待ち合わせ時間に遅れる程度の距離はありますね」
更に言い募ろうとするラルゴの言葉を遮ってサルファに問いかければ、にこにことした笑顔で結構辛辣な返事が来た。
つまり予定より早めに出たにも関わらず、凪の鈍足のお陰で約束時間に間に合わないと、遠回しに告げている。
「ナギさん。ここは意地を張るのはやめにしませんか?ナギさんに根性があるのは、ガーズ君もよくわかったと思いますから」
「なら、俺がお嬢を抱えて───」
「それはガーヴ君が判断する内容ですよ、ラルゴさん。ナギさんは現時点でガーヴ君の持ち物ですから」
微笑みながらも有無を言わせない迫力があり、うぐっと声を漏らしてラルゴが怯む。
純粋な実力では彼が上だろうに、サルファには何故か逆らえない雰囲気があった。
やはりどこぞの王子様みたいにきらきらしいオーラを放つ虎と似ている。
いや、あちらは付き合いの長さからかまだラルゴのほうが扱いを心得て子供相手のようにしていたが、こちらは逆のパターンだ。
黙り込んだラルゴは、悲しげな眼差しで凪を見詰めた後、眦を吊り上げてガーヴを睨んだ。
現在凪を抱き上げているサルファはセーフでも、ガーヴはアウトらしい。
区切りが微妙にわからない。
疑問に対しはんなりと眉を下げた凪と同じタイミングで、ガーヴが耳を器用に折りたたんだ。
尻尾はだらりと垂れ下がり、心持ち顔も引きつっている。
「さっさとしろ、ガーヴ。時間に間に合わなくなる」
暫く視線を忙しなく彷徨わせていたガーヴだが、ガーズの刺々しい声に折り曲げていた耳を立てた。
どうやら漸く決断してくれたらしい。
彼には申し訳ないが、選択肢は初めから一つしかない。
それをガーズもサルファも凪も、本当のところではラルゴも理解していた。
「ナギは、お、俺様がつれていく。こいつは俺様のだ」
「───チッ」
琥珀色の瞳を真っ直ぐに金目に向けて言い放ったガーヴに、ラルゴは苛立たしげに顔を歪めて舌打ちした。
実力差を嫌というほど理解しているのに真正面から言葉をぶつけられて、渋々ながら譲歩する気になったのだろう。
どちらにせよ、ラルゴに抱えられるという選択肢は初めからない。
凪の現在の立場は捕虜であり、彼はその護衛だ。
実力もラルゴのほうが上とあれば、鈍くて運動神経がない凪を確保しておかなくては、逃げられる可能性もある。
ラルゴと狼たちは概ねうまくやっていても、友達ではない。
だからこそ狼たちも最終ラインでは警戒を解かないし、ラルゴ自身も同じだ。
「それでは、ガーヴ君。ナギさんを乱暴に扱ってはいけませんよ」
「おう!任せろ!」
にかっと輝かしい笑顔でこちらに向かってくるガーヴに、最早心配しかない。
わきわきと蠢く掌を見て思わず自分を今抱き上げているサルファを見上げたが、助けを求めてみてもさらりと流された。
仕方なく重たいため息を吐き出して、足手纏いだから仕方ないと自分自身を納得させる。
彼に抱えられたほうが、凪が歩くより遥かに早いのは実証済みだ。
ふわりと浮かぶ何度目かの感覚に、緩く瞼を閉じて息を吐く。
とりあえずは一刻も早くカラコの泉とやらにつくことを祈るばかりだった。