2:今岡凪という人 その6
「一つ目は全てを説明した上で秀介が望んだら、あちらの世界で一緒に暮らしたいです」
「それが一つ目か。では二つ目は」
「秀介も桜子と同じように、あちらの世界に渡るに当たり二つの願いを叶えてください」
「だがそれではもし秀介とやらがあちらに行かぬと言った場合はどうする気だ?ありがたみが薄まるし、訂正を聞くつもりはねえぞ」
この異界の神は凪に対して甘いのかそうでないのか地味に判断がつかない。
いきなり気が大きくなり大盤振る舞いするかと思えば、今のようにありがたみが無いから、などという理由でやり直しは利かないと念を押す。
煌く赤い瞳を楽しげに細める彼は、やはり人ではないと確信させられた。
「訂正はいりません。秀介は私たちと共に来きます」
言葉に自信があるのではない。ただ確信しているだけだ。
異界の神は桜子と凪を並べて『類は友を呼ぶ』と、チェシャ猫のように瞳を細めて哂った。
その『友』が、実際にはもう一人いただけ。
「ならば問おう、俺の可愛い愛し子のために」
額に少しかさついているが意外と柔らかな唇が落とされる。
桜子が息を詰める音が聞こえたが、異界の神は凪ですら気づく憤怒の気配もそよ風ほども気にしない。
ピジョンブラッドの瞳に凪だけを映し小さく笑うと、指先を振り宙に鏡のようなものを出現させた。
まるで水面のようにゆらゆらと揺れる映像に瞳を凝らせば、下半身を泉につけて一心不乱になる秀介の姿が浮かび上がる。
瞳は理性をなくし唇は戦慄き、顔色は真っ青を越して白い。
狂ったように凪と桜子の名を呼びながら水面をかく姿にはんなりと眉を寄せた。
制服はびしょびしょだし、泉の底を抉ったのか爪が剝がれて指先から血が流れている。
だがそれすら気づいていない様子で、彼は只管求めていた。
「ほう、流石にお前らの幼馴染だけあるな」
くつくつと喉を震わせる異界の神は、明らかに普通じゃない様子に欠片も動揺していなかった。
彼はやはり人ではない。凪が知る普通の人間ならば狂気も露に錯乱している秀介を見れば、少しでも怯むだろう。
だが凪は人だが普通じゃない。秀介が目を血走らせて取り乱しても、欠片も驚きは無い。
あるのは、やはりこうなったかと、予想通りの結果に早く取り戻さねばと急く心だけだ。
「この鏡はあちらへと声が届くんですか?」
「声だけでなく姿も届く。見せるか?」
「いいんですか?」
「俺のお気に入りの我侭くらい聞いてやろう」
少しだけ鋭い犬歯をむき出しにした異界の神は、あっさりと凪に頷いた。
お願いするまでも無く簡単に望みを叶えられ少しだけ戸惑う。
しかしその戸惑いも長くは続かず、ついっと制服の裾を引っ張る桜子を一瞥し、さらに視線を宙に浮く鏡に戻した。
「秀介」
『っ、凪!?どこだ、どこにいる!!』
「ここ。桜子も居るよ。少しだけ顔を上げて』
『凪!!桜!』
首が千切れるんじゃないかと心配になるくらいの勢いで顔を上げた秀介は、凪と桜子の姿を見つけると恥も外聞もなく滂沱の涙を零した。
学校でも人気の兄貴分、空手部のホープである荒城秀介のこんな脆い姿は誰も───それこそ、彼の両親ですら想像できないだろう。
普段は明るく元気よく爽やかで、勉強は出来ないが誰でもわけ隔てない態度と、好青年な見た目から男女共に人気が高い彼は、信じられないくらい憔悴しきっていた。
そして泥や水で汚れた姿を気にせず突進し、先ほどの桜子同様すかっと通り抜けた。
同じ行動を幾度も幾度も繰り返し、幼子が癇癪を起こすように暴れだす。
そんな姿に声を発したのは、凪ではなく桜子だった。
「落ち着け、秀。私も凪も無事だ。怪我一つしてない」
『けど、お前らどうなってんだ!?凪は成長してるし、見えてて、聞こえるのに、触れねえ!!』
「ふん、どうやら漸くまともな反応を見れたようだな。本来ならこっちに来てるお前ら二人もああなるのが普通だろ?」
「そうならない人間を選んだのでしょう?それに、秀介も一緒に来てれば私たちと同じ反応だったはずです。一人残されたから錯乱してる」
「あの場に私が残されていたなら、あの姿は私のものだったろう。私たちは、凪が居なければ駄目なんだ」
「ほーう、それは少しばかり見てみたいもんだな。お前が砕ける瞬間も面白そうだ」
「・・・異界の神様、私のお願い叶えてください」
「いいだろう」
ついっと白い布(のようにみえる何か)で出来た服を引っ張れば、凪を抱いた腕を元の位置まで下げた神は口の端を持ち上げた。
しかしいかにも楽しげな様子に嫌な予感が全身を貫く。
何故こんなに不安になるのか判らぬまま彼を見上げると、安堵させるように頭を撫でられた。
「そこの者、俺の声が聞こえるだろう?」
『誰だお前は!!?』
「こいつを別の世界に連れて行く神だ。もう二度と戻れぬ代わりに願いを叶えてやろうと告げたら、お前が望めば一緒に暮らしたいと言われた。どうする?」
『そんなの決まってんだろ!凪がいて、桜がいるなら、迷う理由なんかねえ!』
「二度と戻れねえぞ?そちらの世界に親兄弟、友人、想い人などいないのか?」
『そいつら以上に一緒に居てぇ奴なんかいねえよ!』
「お前も迷い無し、か。まあいい、それなら叶えてやろう。俺の愛し子が望んだとおりに、お前もこいつらと暮らせるようにしてやる」
『本当か!!?』
「俺は気分によって約束は破るが、こいつとの約束は違えねえ。俺のお気に入りだからな」
愛でるように額に掛かる前髪を指先ですいた異界の神は、凪から視線を戻すと秀介にうっそりと哂いかけた。
「お前はこいつらと一緒に暮らせる。但し───会えるのは千年の後。三人もあちらの世界に生身の人間を送ることは出来ん。だからお前には今この場でこの世界で過ごすはずだった時間を終わらせ、あちらの過去へと転生してもらう。魂だけならなんとでもなるからな。だがそれだけじゃ俺が面白くねえ。こいつはこの女に与えた権利同様、お前の願いを二つ叶えてくれと願った。それを使い千年の永き時を耐えるのを条件とし、俺はお前をあちらに送ろう。どうする?」
猫が鼠を甚振るように、残忍さを瞳に秘めた異界の神は、凪を抱く腕に力を篭めて僅かな毒を篭めた声で囁いた。