番外【いつか君に伝えたい】
*ずっと前にちらりと出てきた、アルバイト先のお客さん視点です。
本編より以前の過去篇です。
綾小路朔耶こと、本名時田楓はとあるレストランの一席に腰を掛け、片手に持ったワイングラスを傾けた。
ビル街の中心にあるこのレストランは高層ビルの中にあり、開いた窓から宝石箱をひっくり返したような夜景が見える。
レトロで品がいい佇まいと、しっかりと教育が行き届いたスタッフによる接客、さらにここでしか味わえない絶妙な料理に、一見で予約を取るのは難しい。
しかし楓は仕事柄この店をよく利用していて、店長とも古馴染みなので、プライベートでもちょくちょく足を運んでいる。
私用のときはここを使うかもしれない客と鉢合わせしないよう、VIPルームをリザーヴしていた。
個室にいい年の男が一人きりとは寂しいと思われるかもしれないが、普段はずっと女をエスコートしているので、この時間は楓にとってとても貴重だ。
仕事時は上げている髪を下ろし、サングラスを胸ポケットに引っ掛ける。
休みの日だけ薄茶の髪を黒く染めて、いつもは嵌めているこげ茶のカラコンも外しているので、万が一知り合いとすれ違ってもすぐに気づかれないだろう。
ドレスコードするほど格式が高いわけじゃないが、高級と呼ばれる店なのでラフすぎない格好をしているが、服もいつもと違う印象を与えるものを選んでいる。
客の前なら絶対にしないマナー違反だが、一人きりの部屋で白いテーブルクロスが掛けられたそこに肘をついて顎を乗せた。
『年を取ると、恋に臆病になる』
そんな青臭い言葉を放ったのは、自分が新人だった頃No.1ホストだった男だった。
女も惚れるが、男も惚れる。
心意気も気風もいい、喧嘩も強い男だった。
坊主頭にお洒落な刈り込みを入れ、顔立ちが特別格好いいわけではなかったけれど、厳つい顔が笑った瞬間は幼くて魅力的で、優しく豪放な気質は誰からも慕われた。
絶対的な人気を持つNo.1ホストには、実業家や一芸に秀でた女たちが客として付いていたけれど、彼が本気で惚れこんだのは、客にプレゼントするための花を買う、花屋の素朴な女性だった。
決して美人ではないが、ほんわかとした空気を放つ、優しげで穏やかな彼女は、彼と並ぶとまさしく狼と赤頭巾ちゃんで、犯罪じゃないかと口を滑らせて頭を殴られたのは、今ではいい思い出だ。
彼が彼女を口説き落とすのに掛かった年数は五年。楓が店に勤める前からの片想いだった。
最初の一年は用件以外は口も聞けず、次の一年は世間話、その次の二年で少しずつ距離を縮め、最後の一年で漸く想いを認めてもらえた。
ここら辺の界隈で落とせない女は居ないと言わしめたNo.1ホストの彼が、唯一梃子摺った唯一の女が彼女で、子供が三人生まれたいまでも、新婚ほやほやの家庭を築いている。
可愛がってもらっている楓は先週も彼の家にお邪魔して、アットホームな空気に中てられたばかりだ。
勘当されて家を出た楓に家庭はなく、彼の家庭こそが家族と呼べた。
生まれたばかりの赤ん坊を抱かせてもらった感触を思い出しつつ、ぼうっと視線を夜景に向け続けていると、小さなノックが部屋に響いた。
魂が抜けたように遠くに行っていた意識が、途端にぱっと戻ってくる。
メトロノームのように正確に刻まれた四回のノックの主を、誰だか良く知っていた。
「失礼します」
きっちりと綺麗に腰を曲げて一礼をした少女は、ひよこみたいな癖毛のショートカットを揺らして顔を上げた。
西洋のビスクドールを髣髴とさせる、精巧で精密な顔立ちの少女の名は『今岡凪』。
今までの人生で見てきたどんな存在より純粋に『美しい』と感じた少女だ。
白いブラウスの上に腰の細さを強調するようなカマーベスト、臙脂色のミニタイとパンツスーツの格好は、モデルが着こなしたように決まっている。
この店の店員は男女含めて全員が見目がいいが、誰か一人を上げろと言われれば、好みをさし置けば十人中九人は彼女が一番の美形と断言するだろう。
限りなく金色に近い薄茶色の髪や、深い青色の瞳、西洋の血が流れるハーフらしく透き通る白い肌。
居酒屋やどの気軽に声を掛けられる店と違い、このレストランは接客中の私語は厳禁のフルサービスだ。
おかげで名前と年齢を聞くだけで半年以上掛かった。それも間に旧知の店長が入ってようやっとだ。
ホストとして名を馳せている自覚があるだけに、初めは彼女の態度にいたく矜持を傷つけられた。
色気があり格好いいと誉めそやされる自分を見ても欠片も顔色を変えず、ついでに態度も変えない年端も行かない少女に、いつの間にか嵌っていた。
仕事用の接客スマイルは浮かべても、本当の心を見せてくれない。
甘い言葉を囁いても、笑顔を崩すこともない。
どうしてこの俺の言葉に耳を傾けない。どうして俺だけを瞳に映さない。どうして他の女のように、うっとりと蕩けた眼差しを向けてくれない。
どうして、どうして、どうして───。
意地になって休みも日もレストランに通って、彼女がいれば喜んで、シフトが合わずに姿がなければ心が沈んで、三十過ぎて今更振り回される感情に、あの人もこうだったのかと、自分を自嘲しつつ止まれない。
てきぱきと給仕をこなす姿にうっとりと見惚れるのはいつもこちらで、それが悔しくもどかしい。
「凪ちゃん、今日はこの後暇か?俺のおごりで飯でも食いに行こうぜ」
「申し訳ございません、お客様。お気持ちだけ頂いておきます」
今現在店で食事中であることを指摘せず、微笑みのまま誘いを躱され眉根を寄せる。
「なら、今度オフの日に俺の家に来ないか?この店ほどじゃないが、俺の手料理も中々のものだと思うぜ」
「お誘いはありがとうございます。ですがお客様のご自宅にお邪魔するわけには参りません。───こちらが本日の限定メニューでございます」
鮮やかな手際で並べられる料理。
食前酒や前菜は終わっているので、これはメインだ。今日は肉料理らしい。
楓の好みを知るソムリエが料理に合ったワインを予め用意しておいてくれたので、それが慣れた手つきで注がれる。
本来ならソムリエその人が来て準備してくれるのだが、これも店側の気遣いだ。
楓が凪に対して本気なのを知ってる店長が、同年のソムリエだけにその話を伝えていて、協力してくれているのだ。
鮮やかな手際で準備を終えた凪は、そのまま過不足はないか確認すると一礼して部屋を退室しようとする。
どれだけ押しても暖簾に腕押し。空気のようにするりと抜けていく存在に、きゅっと眉を寄せた。
『本気の女には、簡単に手なんて出せねぇもんなんだよ。───いつか、お前にも判るといいな』
そう言って笑った先輩は、情けなく眉を下げても心底幸せそうだった。
だが生憎楓はそこまで達観できない。
これだけ焦がれているのに、すべて暖簾に腕押しでは、そろそろ男としての自信が尽きる。
ホストとして働いてない素の自分じゃ駄目なのかと、通い続ける一年以上を思い起こしてしまう。
せめて最後の悪あがきと、ドアノブに手を掛けた少女に言葉を向けた。
「今度!俺が両手一杯の薔薇を持って来たら、受け取ってくれるか!?」
普段は立て板に水の如く流れる甘い言葉は、こんなときには一向に出てこない。
代わりに朴訥とも言える、不器用で口説き文句にもならない台詞を吐き出してしまい、下ろした前髪をぐしゃりとかき混ぜる。
仕事中の彼女は、きっとこの言葉にも答えてくれないだろう。
わかるからこそ何も言えなくなり、唇を噛んで俯いた。
「───両手一杯の薔薇は困ります」
「っ!?」
まさか返事をもらえると思っておらず、勢いづけて顔を上げる。
限界まで見開いた瞳に映ったのは、どこか困ったように眉を下げた少女の姿だった。
いつもの営業スマイルと違い、人間らしくて隙のある表情に、声も出ずに瞬きを繰り返す。
「でも、ありがとうございます、『楓』さん」
ふんわりと瞳が細められ、唇が優しく孤を描く。
それは大輪の薔薇というより、野に咲く花のようにひっそりとした美しさを感じる微笑みで、呼吸が止まり心臓が打ち抜かれたかと思うような衝撃が走った。
反応できないうちに再び営業スマイルに戻った少女は、頭を下げて今度こそ退室してしまう。
その姿を見送って、暫くして漸く硬直から解けた楓は、椅子に背を預けずるずると態勢を崩した。
ホストとして仕事をしている客には見せれない失態だ。年端も行かぬ少女に感情を揺さぶられ、情けないし悔しくもある。
それなのに。
「───俺の名前、知っててくれたのか」
嬉しい気持ちのほうが全然大きく、赤くなってるだろう顔を隠すために掌で覆って緩やかに息を吐き出した。
自己紹介した記憶もないし、店の予約も店長に直接電話を掛けて取っているので、名前を知られてると思ってなかった。
いつも他の女と来るときは源氏名で呼ばれているし、店のほかの店員も『綾小路』と認識している。
だから本当に不意打ちだった。
まさか、名前を呼ばれるだけでこんなに浮き立つような気持ちになると思ってなかった。
「俺、仕事を引退する日が近いかもしれない」
彼女に会うまでは平等に『想い』を捧げた女たちの一人一人を思い浮かべ、『愛』は別物と笑った男も思い出す。
苦しいくらいにかき乱される感情を意地だけで制御して、くつくつと愉しげな笑い声を漏らした。