閑話【病み上がりの獣人には優しくしてください】
*ラルゴ視点です。
未だに苛立ちで波立つ心を必死に宥める。
よりによってラルゴの目の前で凪の顔に拳を振り下ろそうとするなど、言語道断だ。
いや、目の前でなかったとしても言語道断だし、絶対に報復するけれど。
それ以前に命の危険があるわけでもないのに無抵抗の女に手を上げるなど、救い難いカスだ。
挙句自分の尻を自分で拭けなくなって、他人に助けを求めるのも情けない。
こんなに危ない『狼』の村にいるのなら、凪の首に付けられた忌々しい首輪を壊すのは待たねばならないではないか。
村から抜け出すにも付近には『羅刹』が居るかもしれないし、情報を集めなければ護衛として行動を起こせない。
安全を確保できるだけの情報を集めるには、この村に滞在するのが現段階で一番手堅いので、村の『狼』に牽制できるアイテムの首輪を嫉妬心だけでおいそれと壊すことは出来なかった。
誰かの所有の証が彼女の身体に触れているというだけで毛羽立つほど苛立つのに、嫌なことばかりが重なっている。
苛立ちのままに尻尾を揺らし、びたんびたんと床を叩く。
地面で擦ることも多い長い尻尾の内側は、外よりも固い作りになっているので特に痛みも感じない。
うるうると喉を鳴らしながら牙を剥き出しにしていると、そっと下から小さな掌が伸ばされて頬に触れた。
条件反射で腰を抱いてるのと反対側の手で握りこめば、長い睫毛に縁取られたこの世に二つとないだろう美しいオッドアイが見上げている。
「どうした、お嬢?」
自然と自分の内から甘い声が出る。そんな自分に思わず眉尻を下げて笑った。
今まで抱きたいと思っても、仕事以外で護りたいと思った女は存在しない。
凪は人形よりも精巧な顔をしていて、それぞれのパーツが絶妙に配置されているが、身体はほっそりとして華奢で好みとは程遠い。
ゼントやラビウスに暴露された通りに、ラルゴの好みは肉付きがよく、いかにも妖艶な女性だ。
それなのに腕の中にすっぽりと納まる、バランスはいいが決して肉惑的じゃない少女に、どんな女相手よりも胸が高鳴り心臓が落ち着きをなくす。
思春期の頃でもこれほどときめいた事はない。
特別と言われる初恋も含めて、今までの恋愛が擬似でしかなかったと考えるほど、凪への想いは強かった。
あまりに惚れ過ぎていて、手を出すことすら出来ない。彼女を傷つける相手は、たとえ自分でも許せない。
眠る横顔を見詰めるだけで幸せだ。時に眠れなくなるほど狂おしい想いが過ぎっても、傍に居たいと心が希求する。
理由なんてラルゴも判らない。
けど、理屈なんて考えれない今が、恋をしてると言えるのだろう。
長い髪に指を通して、子供を宥めるように身体を軽く揺すりながら梳くと、整った眉がきゅっと寄る。
絵画に描かれた美術品みたいに、それだけで視線を吸い寄せる優美さにうっとりと見惚れ、数日振りの感触を満喫した。
「あのさ、ラルゴ」
「ん?」
「床が割れたんだけど」
「へ?」
白く滑らかな指が指した方向を見ると、少しだけ目を丸める。
凪の指摘どおりに床には大穴が開いていて、ところどころ背の低い草が生えた地面が露になっていた。
どうやらここは高床式らしく、ラルゴがへし折った木の板がばらばらと破片となって落ちている。
「あーあ」
「『あーあ』、じゃないよ。どうするの?私たち居候だよ?働かずして衣食住を賄ってもらってるのに、家主の家を破壊ってないでしょ」
「って言われても、もう壊しちまったし。休眠期明けで力加減が上手く出来てねえんだな」
「上手く出来てねぇじゃすまないから。流石に変質者丸出しで全裸にマントだけのラルゴを受け入れる心の広さがあっても、これは許してもらえないでしょ。私なら手厚く看病した相手に家を破壊されたら、普通に怒るよ」
顎に手を当てて渋い表情をする凪に、情けなく尻尾が垂れ下がる。
丁度開いた穴から尻尾が落ちて、その勢いでまた床の穴が広がった。
その様子に、凪が益々渋面を深める。
本人には自覚がないようだが、絶世の美貌を歪められるだけで、ラルゴには途方もない罪悪感が胸に巣食った。
「前にギルドの机を壊したときも思ったけど、ラルゴはもう少し力加減を考えたほうがいいと思う。興奮したり考え込んだりすると、馬鹿力が遺憾なく発揮されるから」
「───すまん」
淡々と叱られるのは、ある種怒鳴られるより凹む。
子供相手のときや食事中はさておき、それ以外では感情が表情に表れ難い凪だが、この数週間で幾度か繰り返された説教中は大抵呆れが色濃く出てると気付いた。繊細なラルゴの心はその度に折れそうだ。
素直に告げたら、『怒られるようなことをしなければいい』と至極真っ当に返されて、地味に落ち込んでからは説教中は余計な口出しをしないようにしている。
一見すると大人しそうで可憐な少女は、付き合ってみるとユニークで案外辛口だ。
「まあまあ、ナギさん。その辺で許して差し上げてください。ラルゴさんはまだ病み上がりですし、自己申告では回復済みということですが、もしかしたらまだ完全には回復しきってないのかもしれません」
巨漢の男が自分の胸ほどしかない少女に叱られる様に同情したのか、糸目の『狼』がさり気無くラルゴの肩を持ってくれた。
助け舟はありがたいが、ずっと見物していた理由が面白そうだったというのが透けて見えるので、素直に感謝する気にもならない。
先ほどの遣り取りでこの『狼』が食えない存在と認識したラルゴは、自身を手当てしてくれたことに感謝しても警戒心を緩める気にはならなかった。
見張り番をしていたらしい『狼』の男二人は、決して弱い相手じゃなかったろう。
醸し出す雰囲気は『狼』らしく狩りに慣れた獰猛なもので、崇めたてられてるらしい村長の屋敷に駐在するなら弱いはずがない。
それなのに医者だと名乗った優男風の『狼』のひと睨みだけで、彼らは心底震え上がって竦んでいた。
ラルゴの憤怒に満ちた殺気に当てられたとしても、あの反応は過剰だ。
彼らの恐怖の対象は、ラルゴだけじゃなかった。
さり気無く凪に伸ばされた手を回避すれば、ついっと器用に眉が持ち上がる。
一瞬だけ糸目を見開いた『狼』は、楽しそうに唇を三日月に歪めた。
「気に病む必要もありませんよ、僕にいい考えがありますから」
「いい考え?」
人差し指を立てて微笑んだ『狼』に、嫌な予感しかしなかった。
どこかで感じた空気だと眉を顰め、唐突に思い至る。
サルファと対峙するのは、昔なじみの『虎』の相手をするときと少しだけ似ていた。
にこにこした笑顔の下で、腹黒く策略や謀略を張り巡らすのが得意な、見た目だけは極上の『虎』に。
一度顔が重なると、最早笑顔は黒いものにしか見えなくなった。
思わず凪の顔を見れば感情の起伏の薄さの所為ではなく、あえて作ったと漸く判断できるようになったポーカーフェイスを保っている。
表情に大きく表れないだけで、決して他人の感情の機微に鈍いわけじゃない少女だ。どうやらサルファの内面の黒さにも気づいているらしい。
ちらりとラルゴを見上げ視線を絡めると、慣れなければわからない程度に目だけで微かに笑った。
その笑い方が悪戯やボケを思いついたときに浮かべられるものだと、最近のラルゴは知っている。
「どんな考えですか?」
「壊したものは自分で修復してもらいます。そうすればラルゴさんも駄目なことは駄目だと身体で覚えるでしょうし、家の穴も塞がって叱られる理由もなくなって一石二鳥ですよ」
つい先ほど病み上がりと口にしたくせに、同じ医者が言うとは思えない台詞にじとりと眉間に皺が寄る。
しかも心底愉しそうな微笑みは、病み上がりの病人を働かせることに矛盾を感じていないようだった。
すうっと思い切り胸に息を吸い込んで、同じだけの時間をかけてゆっくり吐き出す。
答えを聞かなくても凪の答えはわかっている故に、必要なのは労働する覚悟だけだった。
手を伸ばして、凪の首に付けられた不似合いにごつい首輪に触れる。
爬虫類の獣の皮を使ったらしいそれは、外せないようにご丁寧にも鍵が付けられていた。
気がつけば握りつぶしそうになる自分を何とか自制する。
この不快な異物を壊さないよう我慢できるうちにさっさと村から出なければと結論付け、腕に囲った少女を放した。