閑話【漸く朝が来た】
*ラルゴ視点です。
茹だるような暑さと、纏わり付く湿気に、胸に篭った息を吐き出す。
全身が火照って、関節が痛みを訴える。
熱を出すなんて覚えている限りほとんど経験がなく、この前は確か五年は前だ。
あの時は若気の至りで『龍の一族』ではなく、正真正銘本物の獣の『龍』に挑んでこてんぱんにやられた。
おかげさまで伸びに伸びていた鼻はへし折れ、身体的な意味でも精神的な意味でも立ち直るのに苦心したものだ。
「ラルゴ、起きたの?」
「・・・お、嬢か?」
重たい瞼を気力で押し開ければ、ここ数日見なかった顔が近くにあり、胸に閊えていた何かが解けた。
眠りと現の狭間を彷徨いつつ、ずっと気になっていた。
ここの『狼』たちはどうやら『虎』に対して敵対───というより対抗心を持っているらしく、何かと話題に上る『白虎』について、好悪わかれる反応に難儀していたのだ。
ラルゴが傷を負った原因を『白虎』の所為とした『狼』たちは概ね好意的だったが、いくら否定しても聞き入れてもらえず、何を言っても最終的に凪が悪くなっていた。
『虎』に対する先入観は根深く、憎い、というより単純に嫌っていた。
だから見た目は『虎』でも中身は『人間』の、力ない少女が常に気に掛かっていたのだ。
幸いにして頻繁に見舞いに訪れてくれる、ラルゴを助けた『狼』は、凪に対して悪感情を持っていなかった。
彼のお陰で目覚めるたびに凪の情報を仕入れられたし、見た目と違い図太い部分がある彼女なら大丈夫だと信じられた。
それでも罪悪感は消えない。
ラルゴは凪の『護衛』として雇われたのに、彼女を護ってやれなかった。
二人の関係は友達ではなく、契約だ。相場より安くてもきちっと毎日給金を貰っているのに、これでは仕事を失敗したも同然だ。
しかも理由の大半が私情に帰結するなど、プロとしてあるまじき行為だ。
どれだけ凪に惚れていても、否、惚れているからこそしてはいけないミスを犯した。
情けなさに瞼を固く閉じる。
『龍』の回復力を持ってしても未だに回復しない身体は、神様とやりあった名残を残している。
分不相応な相手に牙を向く稚拙さが招いた事態に、緩やかに息を吐き出した。
「ラルゴ?」
「・・・悪い、お嬢」
「何が?」
心底不思議そうに返されて、ずきずきと心が痛みを訴える。
漸く動くようになった腕を持ち上げ、心臓を服の上からきゅっと掴んだ。
「悪い、俺、プロとして失格だ。お嬢の、護衛だっつうのに、お前を護れなかった」
「・・・護ってくれたじゃない。私は傷一つ負ってないよ」
「嘘だ。小さな傷が幾つも出来てたし、この村で、小屋に監禁された」
『狼』の少年から話を聞いたとき、冗談じゃなく呼吸が止まった。
護るべき雇い主を、それ以前に好いた女を、よりにもよって家畜の餌が貯蔵されてる小屋に監禁させるなど、許される失態じゃない。
護りたいという想いが強ければ強いほど、息が苦しくて、胸が痛くて、情けなさに泣きたくなった。
明かり一つ差さない小屋の中、三食の食事と水は保障していると言われたが、そんなのなんの譲歩にもならない。
『虎』を嫌う『狼』の群れに一人だけ取り残してしまうなんて、ここの村の『狼』が行き倒れの『龍』に優しい相手でも、安心するには程遠い。
苛められてないか、蔑まれてないか、暗闇に取り残されて心細く思ってないか、目覚めるたびに不安で仕方なかった。
「確かに監禁されたけど、三食昼寝つきで割りと快適だったよ」
「・・・・・・あ?」
「暇なのが唯一苦だったけど、暗闇の中草を捻って紐を作り続けてたし、割と大丈夫だった。ことこと煮込まれた素材の味を活かしたスープも美味だったし、寝床は干草をベッドにしてたし、野宿より全然いいよ。むしろ一人きりで森に放り込まれたほうが恐いから、運が良かった?」
思いがけない言葉に瞼を開けると、綺麗なオッドアイを瞬かせた凪は、悪戯っぽく微笑む。
子供相手ならサービスされる笑顔だが、大人相手だと営業スマイル以外は滅多に浮かばないので、驚きでぽかんと口が開いた。
緩く口角を持ち上げて頬に手を置いた彼女は、抱きしめてぎゅうぎゅうにしたいくらい可愛らしい。
華奢な身体を腕に閉じ込めて、長くて柔らかな髪に顔を埋めて、ベッドの上をごろごろと転がりたくなる衝動が駆け上った。
「私、自慢じゃないけどここぞという時は運がいいんだ。ここの『狼』たちは『虎』が嫌いみたいだけど、凄くいい獣人さんばかりだよ。乱暴にされることもなかったし、監禁以外は何もされなかったし。私、闇には慣れてるから、小屋の中も平気だったし」
「・・・お嬢は」
「何?」
「見た目は凄く護ってやらなきゃって思えるのに、中身は図太くて凄いな」
「・・・・・・それ、褒めてるんだよね」
笑顔を引っ込めて半眼になった彼女は、横になるラルゴの頬に手を伸ばすと、むにっと力強く引っ張った。
しかし痛みは感じない。ラルゴが知る中でも凪は凄く非力な少女で、運動神経も力もない。
勿論手加減してくれるのだろうが、皮が厚い『龍』なので、抓られるというより触れられているだけな気がする。
「ふ、はは、痛ぇよ、お嬢」
「・・・痛いのに笑ってるの?」
「痛いけど、笑えるんだよ」
「───Mなの?もしかしてどMなの?」
「なんだ、それ?」
「私からしたら未知の領域に住む世界の住人だよ。ちなみにその手の嗜好に私はついていけないから、女王様は別に探して」
嫌そうに眉間に皺を刻んで手を引きかけた彼女の掌を掴むと、すりりと頬を寄せた。
その拍子に頭の上から何か落ちて、いきなり視界が塞がれる。
「動かないでよ。折角身体を冷やしてる布がずれる」
「そういや、脇の下とかにもあるな。お嬢が置いたのか?」
「うん。小屋から出してもらえることになったから、ラルゴの看病させてくださいってお願いしたの。ガーヴが許可をくれて」
「ガーヴ?誰だそれ」
「誰って・・・ラルゴを助けてくれた『狼』の子だよ」
「ああ、あいつか。やっぱ、有力者の息子だったか。お嬢の自由を保障できるなら、そこそこの身分だな」
薄々気づいていた事実を確認するように口にすれば、複雑そうな顔で彼女は首を振った。
何かあったのだろうかと眉を上げると、ずれた布でまた視界を塞がれた。
「・・・細かいことは、ラルゴの熱が下がってから話すよ。聞いたよ、『龍』の回復力は獣人でも随一だって。次に目覚めたときには熱は下がって痛みもほとんど引いてるはずだって、典医さんが言ってた。だからもう一回寝て早く回復して」
「目が覚めたとき、まだここに居てくれるか?」
「───うん」
あっさりとした返事を聞いて、身体が弛緩していく。どうやら彼女を前にして自然と力が入っていたらしい。
ゆるゆると落ちていく意識の中、握った手のひらだけは絶対に離さないと潰さない程度に力を篭めて、最後の休息へと沈んだ。