14:人生なるようになる その3
こんなときなのに、否、こんなときだからこそ命綱のように握り締めていた『ねじり干草』が手から落ちる。
自分で言うのもなんだが、この干草を握っていたところで何の足しにもならないだろうに、何故かずっと持っていた。
驚き過ぎると小動物は固まって動かなくなるが、あんな感じかもしれない。
片腕を掴まれてバランスを崩しつつ、そんなことを考えていれば、涙がぼろりと頬を伝った。
暗闇からいきなり明るいところに出たので、目が拒否反応を起こしたのだ。
慌てて瞼を閉じるが、未だにつんとした痛みは止まらず、生理的な涙が零れる。
「っ、お、おい!?」
戸惑うような、動揺した声が頭上から降ってきたが、それを気にする余裕はなかった。
取り合えず光のないほうへ身体を向けて、自由が利くほうの手で目を擦る。
咄嗟の条件反射だったが、少しずつ刺激に慣れ始めた目は、ぼんやりと焦点を結び始めた。
「───何故泣く!?」
「そりゃ普通の娘はこんなとこに三日も閉じ込められれば泣くんじゃねえか?」
「だが、こいつは『虎』だぞ?傲慢で自信家の『虎』が、敵の前で涙を零すなどありえない!」
「って言っても、実際に泣いてるしな。俺様、いかに対立種族でも女子供を泣かせるのはどうかと思うぜ、兄者」
腕を掴んだ男とは違う声が追加され、咄嗟に後ろを振り返る。
まず目に入ったのは二つの黒い影。そして彼らの後ろの開いた扉から見える、冴え冴えと光る月。
あまりの眩しさに太陽でも直に見たのかと思ったが、凪が思うより遥かに月も明るいらしい。
数日振りに見た姿は堂々としていて、満天の星を従える王者のような貫禄を出していた。
「大丈夫か、ナギ?兄者は悪い奴じゃないが、女に対しては不器用なんだ」
「余計なことを言うな、ガーヴ!───娘!お前も誇り高き『虎の一族』の娘であるなら、簡単に涙を見せるものではない!」
逆光で顔までは見分けが付かないが、どうやら身長が低いほうがガーヴで、腕を掴み続けるほうが彼の兄らしい。
正直なところ、『虎』ではなく『人間』の凪に、『虎』としての心得を説かれても奮い立たない。
悲しくて泣いてるわけでもないし、生理的な涙など咄嗟に堪えるほうが難しいだろう。
鼻を思い切り叩かれて涙が出るのと同じ原理だ。
それにしても、この『狼』の兄弟は口調からして似てないが、性格もあまり似てなさそうだ。
無造作にガーヴの手が伸ばされて、凪を掴んでいた手を引き剥がしてくれた。
自由になった腕を自分に引き寄せると、ひりひりと痛むそこを掌で擦る。
存在を疑われないようにある程度の接触は許容しようと拒絶の範囲を緩めていたが、『狼』の基準がこの力なら考えを改めたい気がむくむく沸いた。
闇の中に居た所為で僅かな光でも十分に利く視野を利用して掴まれた箇所を見ると、くっきりと手形が浮かんでいる。
思わず嘆息すると、大きいほうのシルエットの耳の部分がへたりと下がった。
お隣が飼っていたペットの犬を基準に考えるなら、少しばかり気分が凹んだらしい。
固い性格のようだし、もしかしたら凪の腕に付いた手形を見て、少し落ち込んだのかもしれない。
「ナギは『白虎』だけど全然『虎』らしくねえよな。傲慢でもがんがん押す勝気な性格でもないし、どっちかっつうと大人しい感じだ」
「───まて、ガーヴ。どうしてお前がこの娘の気性を知っている」
「え?何言ってんだ、兄者。ナギは俺様が拾ってきたんだぞ」
「・・・いや、拾われてません」
「俺様の縄張りに落ちてたところを見つけたんだ。俺様の縄張りにあるものは俺様のもの。だからこいつも俺様のもの」
「いやいやいや、そんな主張はまかり通りません」
「・・・そうか、そう言えばそんな話をしていたな。お前の縄張りに落ちていたのを拾ったのなら、確かにお前のものだ」
「だから違うって言ってるんですけど。そのジャイアニズム、どうにかなりませんか?」
「しかしいくらお前が所有権を主張しようとも、この娘は『虎の一族』。迎えが来てしまったからには、相手に引き合わせんわけにいかん」
「完全に無視ですか?似てないと思いましたけど、存外に似てる兄弟ですね」
一々突っ込みを入れてみるが、完全にスルーを続ける二人にはんなりと眉根が寄った。
色々な意味で二人の世界を作り上げている。
兄弟の仲がいいのは宜しいが、少しはこちらの話も聞いていただきたい。
弟も大概空気を読まないと思ったけれど、しっかりものに見えた兄も相当だ。
「だから俺様も着いてきたんだ、兄者」
「何?」
「いわば俺様は『狼の一族』のナギの所有者だ。捕虜として扱うとしても、交渉の権利は俺様にある」
「・・・ふむ」
「俺様、『虎』からもらえる何よりも、こいつが欲しい。だから迎えに来た『虎』にもそう言うつもりだ。相手が何を言おうと、捕まったほうが間抜けなんだ。違うか、兄者」
随分と好戦的な声を出す。
小心者ゆえの危険察知能力に優れた脳内センサーが、大音量で警戒音を鳴らしていた。
この『狼』の村で、凪の味方をしてくれるのは、今のところ目の前で物騒な発言をいているガーヴだけ。
彼だけが毎日傷ついたラルゴの様子を知らせてくれて、決まった食料のほかにデザートとして果物も与えてくれた。
好奇心全開で色々と聞いてくるのには辟易していたが、それ以外では特に困っていなかったのだ。
それが漸くラルゴの体調が落ち着き始めたという今、いきなりの急転回を見せている。
嫌な汗が額を伝い、そのまま顎から地面へと落ちた。
「お前の言うとおりだ、弟よ。なれば俺がするはずだった交渉の役目、お前に預けるとしよう」
「そうこなくちゃだ、兄者!」
どうするべきか考えた挙句、何もいい案が浮かばないうちに彼らの間で話は帰結してしまった。
三角の耳をピンと立たせたガーヴが、忙しなく尻尾を振りながら凪の掌を握る。
何故か当たり前に指を絡める恋人繋ぎをされて、思わずぶんぶんと勢いよく上下に振った。
しかし鳥もちで引っ付けたように、掌は剥がれない。
その上遊んでいると勘違いしたのか、肩が外れるかもしれない勢いでガーヴからも振り替えされ、あっさりと手を引き剥がすのを諦めた。
無理だ。ラルゴほどじゃないだろうが、この強力を引き剥がすには、凪の力は非力すぎる。
「あれ?もうやんねえのか?」
「・・・やりません。疲れました」
「おっまえ、『虎』の癖に体力ないな。『白虎』は非力だ。しかもなんかとろいし、鈍い」
とろいも鈍いも似たような意味だろう、と脳内で突っ込みを入れるが、口に出すことはしなかった。
口にしたら最後、またどんどんと話に食いつかれる気がしたからだ。
凪の周りは大概会話が難しい相手ばかりだと思うけど、たまにはちゃんとキャッチボールが出来る常識人と話したい。
重いため息を吐きながら現状に見切りをつけて、せめてもの疑問を口にした。
「・・・あの、一つ質問してもいいですか?」
「なんだ?いくらでもいいぞ?」
「私を迎えに来たのは、誰でしょう?」
初めて来る土地なので、ここら近辺には多分凪の知り合いはいない。
ガーヴと彼の兄との会話から察するに、恐らく迎えは『虎』の誰かだ。
『虎』というと、あのきらきらしい容姿をした性格に難ありの見た目王子様くらいしか思いつかないが、いきなり消えた凪の居場所を掴んだとでも言うのだろうか。
恐らく可能性は低いと思うが、ないとは言えなくて疑問を口にした。
そんな凪の手を引き小屋の外に連れ出すと、月光の元明らかになった顔に不思議そうな表情を浮かべてガーヴが首を傾げる。
「迎えは誰かって、そりゃ『虎の一族』の代表者『ロバート』に決まってんだろ」
ぱちりと瞬きした瞳を眺めつつ、やっぱり全然覚えのない名前だと、もう一度ため息を吐き出した。