13:人生はプラスマイナスゼロ その7
晴れやかな笑顔を浮かべて無防備に両手を広げる凪に、黒い獣はかすかに躊躇したようだ。
ひくひくと耳を動かし、警戒するように上体を下げたままこちらを見詰める。
充血した瞳が強い視線でこちらを睨み据えて、もう一度前足で土を抉った。
「・・・『秀介』、私を忘れたの?」
「ヴヴヴぅうぅヴ」
「そっか・・・そうだね、───うん、そうだよね」
犬歯をむき出しにして呻る彼には『人間』だったときの面影は残っていない。
それでも恐怖心は沸かず、ただ淡い苦笑を浮かべた。
本当のところ、この展開は覚悟していた。
凪にとっては一月に満たない時間でも、秀介は1000年を生きたのだ。
単なる『人間』にとってそれは長過ぎる。悠久とも久遠とも表現しておかしくない年月を、彼は一人で耐えてくれた。
『狂うぞ』との桜子の忠告を思い出す。あの言葉は、口に出さない凪の想いだった。
だからちゃんと最悪の事態を受け入れる準備はしていた。
秀介は1000年を生きる選択をしてくれた瞬間から、それを選ばせてしまった凪なりの罰を受け入れる準備を。
「でも、いいや。忘れられてたって、もう一度覚えてもらえばいいだけだし」
「ルルぅヴるヴ」
「ちゃんと会えたし、『秀介』が五体満足だって確認できたし、それでいいや」
へらりと笑って一歩踏み出す。
更に呻り声を低くした黒い獣は、背中の長い毛を全て逆立てて、瞳を獰猛に細めた。
伝わってくる怒りに混じり、微かな戸惑いと動揺に気づく。
凪には獣の表情の内面まで知る術はないが、幼馴染の癖くらい知っていた。
秀介は困ったり考え事をするときに、舌で唇を舐める癖がある。
色々な猛獣を掛け合わせたような姿になっても、未だにそれは健在らしい。長い舌がぺろぺろと口周りの黒い部分を舐めて、忙しなく尻尾を揺らした。
「久し振りだね。ううん、初めましてのほうがいいのかな?私の名前は『今岡凪』。『秀介』の・・・あなたの前世とは幼馴染だったんだ」
「ぐるぅるうる」
「今のあなたとは、黒髪黒目なとこしか共通点はないかな。『秀介』は人間だったから、長い尻尾も尖った三角の耳も鋭い牙も強固な爪もなかったしね」
一歩一歩ゆっくりと足を進める。
今にも腕が届きそうで届かないぎりぎりの範囲で膝を着き、微笑みながら首を傾げた。
離れた場所からでも十分にわかっていたが、近づくと余計に大きな獣だと思う。
このサイズなら凪一人が乗ってもびくともしないだろう。
子供の頃憧れたアニメのように、背中に跨って草原を駆けることも夢じゃない。
こんなときでもどうでもいいことを考えてしまう自分に笑いながら、桜子ならこの意見に同意し、秀介なら呆れ交じりの視線を向けただろう。
当たり前の日常過ぎて、それほど時間は過ぎてないのに、懐かしく思える日々を想う。
微笑む凪に相変わらず威嚇を続けながらも、結局は攻撃してこない獣に、やっぱり秀介は秀介のままだと余計に笑いが込み上げた。
「───っ、お嬢!」
自分の世界に入り込んでいた凪を現実に返したのは、この数週間で聞きなれた滑らかなバリトンだ。
自分を呼ぶ声に引かれて視線を向ければ、昨日より遥かに傷だらけ、血だらけになりながらガーヴに支えられる龍の姿だった。
額が切れて大量に流れる血が視界を奪うのか、鬱陶しそうに眉間に皺を寄せ右目を眇めている。
マントのスリットから見える右足には添え木がされており、折れたのだと直感で悟った。
他にも隠れた場所は沢山負傷しているようで、辛そうに顔が歪められている。
「ラルゴ!」
条件反射で立ち上がって名前を呼ぶと、焦りを交えた声が響いた。
切迫した様子に、思わずきょとんと瞬きする。
ウィルと対峙してるときにも見せなかった緊張感だ。すぐに気づけなかったが、心持ち顔色も引きつっていた。
杖代わりに使っていた武器を片手に構えると、ガーヴに寄せていた身体を離す。
ふっと息を吐き出した瞬間に、雰囲気は一変していた。
普段は陽気に笑っていることが多い瞳は、夜道の猫のように色を濃くして輝いている。
傷だらけなのを感じさせない滑らかな動きで、凪にはとても持てない武器を片手首で返すと、すっと腰だめに構えた。
「・・・ラルゴ?」
「・・・おい、坊主。準備はいいか?」
「よくなんかねぇよ!でもやるしかないだろ!」
「余計なことは考えんな。逃げることだけに集中しろ」
「わかった!」
どこからか取り出した短剣を片手に構えたガーヴは、ラルゴの後ろから返事をした。
こくこくと頷くたびに揺れる銀色の耳が、情けなく下がっている。
一体何がどうしたのか、全く状況が読めない。
「どうし───」
「ふっ」
「ラルゴ!」
左足を踏み込み足として使ったラルゴは、気がつけば凪の後ろにいた。
そちらに気を取られた瞬間、腰に腕が回されて強制的に担がれる。
何事かと視線を向ければ、さらさらした銀色の髪が鼻をくすぐった。
「何?どういうこと?」
「あれは『羅刹』だ!」
「『羅刹』・・・?」
戸惑うように声を上げた凪を抱えなおすと、一気に景色が動き出した。
長い髪が視界を邪魔して、慌てて片手で纏め上げる。
しかし今度は空気が直接眼球に辺り、瞼をきゅっと堪えた。
「待って!私はあそこに居たいの!」
「馬鹿言うな!相手はあの『羅刹』なんだぞ!?現存する種族の中で最強かつ最凶の生き物。獣人でも獣でもなく、そのどちらでもある異形の存在!現存する個体数は2・3体と言われてるはずなのに───いいか、限りなく最強に近いと言われる龍の一族ですら、あいつらに掛かれば赤ん坊相手と変わらねえんだ。会ったら逃げる!これが鉄則だ!」
「でも、あの『羅刹』は、彼は───」
言葉を続けようとした瞬間、背後で爆音が響く。
何事かと振り返れば、丁度秀介とラルゴがいた辺りで竜巻が上がっていた。
「なぁっ!?」
「うわ、凄え魔法だ。さすが龍。赤龍は風も相性はいいから、流石の威力だな」
「───・・・は、全力でも、逃げるだけしか、出来なかったけど、な」
「ラルゴ!」
「よう、お嬢。無事か?・・・離れてて、ごめんな。大丈夫、だ。『羅刹』は、こっちに興味を失って、くれて、森の奥へ姿を消した」
いつの間にか足を止めたガーヴの隣に立っていたラルゴは、へらりと気の抜けた笑みを見せた。
折角再会できたのに、短すぎる会合だ。
もっと話したかったし、もっと一緒にいたかった。
けれどそう告げるには、あまりにもラルゴは傷つきすぎて、ぐっと奥歯を噛んで想いを閉じ込める。
この森が『羅刹』と呼ばれる幼馴染の住処なら、まだ会うチャンスはあるはずだ。
今はラルゴの傷の手当が先決で、作っておいた包帯もどきを、無意識の間に仕舞っていたらしいズボンのポケットから取り出した。
米俵のように凪を担いでいたガーヴに下ろしてもらい、長時間揺れていたためか覚束無い足でラルゴに近づく。
だが、その手が触れる前に。
「悪い、お嬢。俺、護衛失格だわ」
掠れた声がすれ違いざま空から降ってきて、そのまま地面へと巨体が埋まった。