9:一日の終わりはまだ遠い その3
しかしながら事態をどうにかしようと尽力する必要は全くなかった。
突然ばしゃりと頭からぶっ掛けられた液体に、身動きとれず呆然とする。
一体何が起こったのか。濡れた腕を持ち上げ、しげしげと眺めた。
無色透明なそれに顔を近づけ嗅いでみても匂いは全くしない。粘ついた感触もないし、多分水なのだろう。
「アミ!また君か!」
「す、すすす、すみませーん!!」
マナが怒鳴った先に、どうやら原因があるらしいと検討を付け、ちらりと視線を向ける。
そこには少し垂れ気味の耳をした犬の女の子が、心底申し訳無さそうな表情で立っていた。
マナと似たような襟詰めの上着に、黒のプリーツスカートを穿いている。
年齢は、凪より少し上か。浅黄色のストレートの髪を右側で一本に結い、同色の垂れた目尻がこちらを見ていた。
しかし体勢がおかしい。床の上に盛大にうつぶせて、その手はトレイを持っている。
「・・・転んだんですか?」
「は、はい!ごめんなさい!マ、マナさんのお知り合いだと思って、飲み物をお出ししようかと。あ、でも水なんです!すみません!」
「いえ、水でよかったです。ジュースならべとべとでしたし。それより、お怪我は?」
「私は、大丈夫です。でもお客様が!」
近づいてしゃがみ込み手を差し出せば、素直に重ねられた。
凪を見詰める瞳は申し訳なさに潤み、情けなく下がっていた。
これが硫酸などの劇物ならともかく、単なる水で怒るはずもない。水なんて乾けば害もない。
しかもこの犬の女性がマナの同僚なら願ってもない。お陰さまでぴりぴりした現状を打破する切欠ができた。
「水なら乾けば大丈夫ですよ。ご無事で何よりです」
「本当にすみません・・・」
「───俺からも、同僚が失礼した。アミ!すぐにタオルを持ってきてくれ」
「いえ、お気になさらず」
顔の前で手を振って、アミの手を引き立ち上がる。
その拍子に眼鏡を伝った雫が頬に垂れ、鬱陶しさにそのまま外した。
ひゅっと息を呑む音が間近で聞こえ、何事かと顔を向ける。
レンズがなくなりクリアな視界のすぐ傍で、浅黄色の瞳が忙しなく瞬きを繰り返していた。
急に落ち着きをなくしたアミに、また何かあったのかと小首を傾げる。
その拍子に中途半端に結ばれていた髪からリボンが解け、ギルドの石の床に落ちた。
ふさりと広がる癖毛を片手で耳に掛け、しゃがみ込んで子鼠たちからの頂き物のリボンを手にする。
透かしが入ったレースのリボンは、プレゼントとはにかんだ笑みを向けてくれた少女たちの宝物らしい。
ギルドの要員の前でするには失礼だが、埃が付いてないかと指先で払ってからくるくると巻く。
このまま結んでも、子鼠たちにしてもらった三つ編みでさらに癖が付いた髪は、まとめてもみすぼらしくなるだけだろうとそのまま自然に流した。
どうせ後は家に帰って寝るだけだし、気にすべくもないだろう。
結論付けてしゃがんだまま顔を上げると、こちらを凝視している三対の視線に気がつく。
あまりに鋭い眼差しに、一般人の凪は身じろぎした。
「───どうかしましたか?」
「いや、その」
「随分と綺麗な虎だったんだな、お前!これなら父ちゃんも過保護になるわ」
「だから俺は父ちゃんじゃねえ!でも言ったろ?お嬢は特上の虎なんだ」
「この容姿で白虎ですかぁ。さぞかし引く手数多なんでしょうね。・・・あ、でも眼鏡かけてたのはそれの防止ですか?そうですよね、自衛しないとお姉さんならすぐ荒くれ者に囲まれちゃいますよ!」
「大丈夫だ!お嬢に許可なく指一本でも触れようもんなら、俺が叩き潰す」
「おお!頼りになる父ちゃんでよかったな!『龍のラルゴ』が父ちゃんなら並の男は近寄れねえぜ?」
「俺はお嬢の父ちゃんじゃねえっつってんだろ!何回言えば理解するんだ、テメェ!」
喧々囂々と始まったやりあいに、ぽつんと取り残される。
なにやら話題は凪のようだが、割り込む余地が全くない。
気がつけばソルトとアミとラルゴは、ヒビの入った机を囲んで額をつき合わせている。
あのメンバーで一歩も引かずに居るアミは、第一印象の大人しげなドジッ子のインパクトが変えられそうだ。
熱さについていけず、一歩引いた場所で彼らを眺めていると、不意打ちで頭に何か降って来た。
気のせいかこんな展開不本意ながら一日に一回は経験している。
肌に触れる感触からそれが大きなタオルだと気づき、それを持ってきてくれただろう人に謝礼した。
「ありがとうございます、マナさん」
「いや、こちらこそ同僚が迷惑をかけた、悪かったな」
「気になさらないでください。水は乾かせばいいだけですし、濡れたら困るものは持ってないですから」
「ああ・・・それでも一応客だったんだろう?しかも冒険者ではない客。尚のことこの惨状は俺の責任だな。一般人が依頼の確認をするときのガードも兼ねているのに、冒険者に注意するのに夢中で君の言葉を聞いていなかった」
「そこは気にしないでください。私の周りは私を無視していきなり白熱し始めたりするので、気にならないです。しかも善意でしたし。これが故意の故意なら考えることはありますけど、マナさんそんな方じゃなさそうですし。」
頭から首、腕腰、そのまま遠慮なく太腿から脹脛までを拭った。どうやら予想以上に満遍なく掛かっていたらしい。
四人分全てが自分に向かうのは納得できないが、それでもガラスは降ってこなかったので許容範囲だろうか。
顔と眼鏡もきっちりと拭った後、丁寧にきっちりと隅を合わせて畳んだ。
ハンドタオルではなく、バスタオルレベルのものをどこぞから持ってきた彼に、畳んだそれを腕に抱いたまま一礼する。
「これ、洗ってお返しします」
「いや、そんなことしてもらわなくても・・・」
「いいえ、一度利用したからにはきっちりとしてお返しするのがわが国の礼儀です。あの、この状態で聞くのも心苦しいんですが、一つお尋ねしても宜しいですか?」
「何だ?君には迷惑をかけているし、答えれる範囲で答えよう」
「ありがとうございます。それでは遠慮なく質問です。一般的に護衛任務って一日どれくらいの金額がかかるんですか?」
「一日?一般的な護衛もピンきりだが、そうだな。荷物なら一日3000、生き物なら一日4000、人相手なら一日の賃金は相手の身分に寄るだろうな」
「それでは身分が一般人だった場合は?」
「大抵雇われる冒険者のランクから言っても、1日5000程度だろう。必要経費は別で主持ちだ。護衛する場合は大抵旅をすることになるし、人の場合は時に気があったりして金額の割引や継続もすることもある。本当に雑に説明するとこんな感じだな」
「そうですか。ありがとうございます!参考になりました」
「役に立ったなら構わない。───それと、これを」
上から見下ろしてきた瞳が細められ、眉間の皺を深めたまま、マナはぱちりと肩口に止めてあった釦に指をかけた。
何事かと驚いている凪に、肩から外したケープのようなものを外すと、ふわりと広げて身体を覆った。
流石にラルゴほどは行かずとも十分筋骨隆々なマナのものなので、凪の身体にはサイズが大きい。
胸元どころかお尻の下まですっぽりと隠れ、少し重たい。
てづから綺麗に身なりを整えてくれたマナは、最後に釦を閉じると満足そうに頷いた。
「それも君に貸そう」
「・・・お言葉ですけど、寒くはない」
「寒くはないかもしれない。けれど布が透けている」
「・・・ありがたくお借りします。タオルと一緒に洗って帰しますから」
「そうか。なら俺も待っている」
「え?」
「そこで喧々囂々とやらかしている男が、このひび割れた机の弁償をしてくれる日を」
言外に君が連れて濃いと圧力を掛けられ、上手く逃れれた気で居た凪は情けなく眉を下げる。
それまでいかめしい表情をぴくりとも動かさなかった彼が、凪を見てほんの少しだけ笑ったように見えたのは気のせいに違いない。
確認する前に踵を返し、どんどんと騒ぎを大きくしていく三人に向け、素晴らしい声量で怒声を上げた彼の笑顔だなんて、やっぱり気のせいだったのだろう。