2:今岡凪という人
今岡凪は自分のことを一言で表すなら、地味に運がない女と称するだろう。
道を三人で並んで歩けば空から鳥の糞が降ってきたり、毎日の登下校でどの時間に帰っても15個ある信号のうち必ず13個は足止めを喰らったり、バイトして溜めたお金で買ったばかりの傘が翌日には盗まれたり、楽しみにしていた旅行が台風直撃の確率は実に8割を超えるなど、特別不幸ではないが、地味に不運なのだ。
他にも背の順で並べば一番を譲ったことがない、とか見た目によらずクールだとも言われる。
人の視線にも慣れているが、それは凪が見られているのではなく、いつも隣に居る幼馴染達のせいだろう。
とにかく、自分の最大の特徴は地味に運がないことであると自覚している凪は、現在も地味に不運な状況に悩まされていた。
現在高校二年生の凪が通う学校は、進学校として名を馳せている。
一応文武両道を謳っているが、体育科として設けられた一クラスの人間以外は平均並の運動神経しか持たないものばかりで基本は進学校だ。
それなので修学旅行の変わりに研修旅行と呼ばれるものが二年生の半ばの時期にあり、三年生になれば受験に専念してくださいとばかりにイベントは一気に減る。
特待生として通う凪がいるクラスは特進科と呼ばれる勉強に秀でた人間が集まるクラスなので、特にその光景は著しい。
だが特進科は体育科と同じで学年に一クラスしかなく、基本持ち上がりなのでクラスメイト達の仲は気心が知れたものだ。
勉強は出来るががり勉ばかりでもないので、中には華々しい見た目で文武両道を行く人間も居る。
幼稚園からの幼馴染で、研修旅行のグループも、今日の自由時間も一緒にすごしている親友の高屋敷桜子などその代表格だった。
真っ黒な癖一つない髪を腰まで伸ばし切れ長の二重の瞳を持つ桜子は、日本人にしては肌が白く、身長こそ低いが人形のように美しい容貌を持つ。
間を取り持ってくれと言われた回数は片手では利かず、凛とした空気を持つ彼女は学校でも憧れの的だ。
異国の血が混じっている所為か全体的に色素が薄い印象の凪としては、桜子のメリハリのある美しさは見惚れんばかりだった。
更に彼女は血筋もよく、昔から続く名家のお姫様でもある。
学校であだ名される『桜子姫』とはあながち噂だけではなく、実家は武家として将軍家の指南役も行ったほどの剣術道場だったりした。
彼女の住む家は平屋だが母屋と離れがあり、さらに茶室や和風庭園、道場まで敷地内に建っている。
名実共にお嬢さまの桜子は、特進科でも珍しい体育科に匹敵する運動能力を持つ自慢の親友だ。
そして己を挟んで反対側にいる男も、凪にとっては幼稚園からの付き合いの幼馴染だ。
今日の自由時間を二人きりで過ごそうと強請る桜子の眼力にも怯まずに、部屋まで迎えに来た彼の名は荒城秀介。
頭は悪くないのに勉強は出来ない彼は、勿論同じクラスではない。
得意の空手で推薦入学を決めた空手部のホープで、身長が145センチ前後の凪や桜子からすれば見上げんばかりの大男でもある。
実際身長が低い二人でなくとも、185センチの長身の彼は見上げられることが多い。
基本武道場で練習する空手部に所属しているが、外で体力づくりもしているので彼の体は日に焼けている。
ハーフである凪や、色白美人の桜子と比べれば真っ黒にも見えるが、彼のクラスメイトと並んでいるのを見ればさして変わりはないどころかもっと黒い人もいるのでこれは少しだけ色黒なのだろう。
しなやかな筋肉の付いた体に、好奇心に輝く黒い瞳。見た目爽やかな好青年の彼は、女子にも人気が高い。
秀介とも幼稚園からの付き合いだが、幼馴染兼兄弟のようなものだ。
凪は小学生の頃両親が亡くなった。それを引き取ったのが、母親の親友であり、秀介の母である美津子だった。
両親が駆け落ちして結婚した凪には身内と呼べる人はおらず、葬式も密葬で終わったため、秀介の両親が喪主代わりを勤めてくれた。
ちなみにこれだけの身長差はあるが生まれは凪の方が早い。
4月2日生まれの凪は、学年で一番お姉さんなのに、学年で一番チビだった。
これだけ身長差があるにも関わらず凪が『姉』であるのが気に入らないのか秀介は身長をことあるごとに揶揄するが、残念にもそれくらいで動揺する凪ではない。
事実は事実として受け入れているため、毎度冷めた目で眺めている内に秀介が沈黙するのが常だ。
もしくは桜子が一緒に居る場合は、桜子に問答無用で怒りの鉄槌を受けている。
家の都合で剣術以外に体術も修めている桜子の動きは、空手部のエースである秀介すら舌を巻くものらしく、女だから手を上げれない、なんて理由以外でも負けている。
付き合いの長い三人だけに、流れる空気も華々しくなくとも穏やかだ。
その日の自由時間もいつものように、コント紛いの遣り取りを続ける桜子と秀介の仲裁をしながら過ぎていくものだと思い込んでいた。
「・・・これが祈りの泉?つか、しょっぱい感じだな~」
「はっきり言って貧相なものだ」
秀介と桜子の言葉に、こくりと凪も一つ頷く。
半径1メートルほどの大きさの泉とやらは、地蔵の隣にひっそりとあった。
周りを囲む柵もなく、濁っていないが澄んでもいない水には落葉樹の葉が浮いている。
秋の京都らしく趣はあるが、地元民しか知らないレアな場所に行こうと張り切っていた気持ちが萎むには十分だ。
人気のない山道を一時間以上歩いて期待に胸を膨らませいたので、余計にテンションが萎える。
ここから人気がある街まで戻るのも一苦労なのに、もう少し見ごたえのあるものが欲しかった。
構えたカメラの行き場もなく、笑顔でここを教えてくれた茶屋のおばさんを怨みそうだ。
「凪、お前あんまり近寄るんじゃねぇぞ。俺や桜と違ってお前は運動神経ないんだからな」
「運動神経がないとは言いすぎだ、秀。凪は人より少し鈍いだけだ。そこがたまらなく可愛いんだろうが」
「ホントに桜は凪を溺愛してんのな。そんなんじゃいつまで経ってもこいつはひとり立ちしねぇぞ?」
「凪はひとり立ちしなくても構わない。私が一生面倒を見る」
「───凪に恋人が出来ても同じことが言えんの?」
「恋人など所詮は一過性の熱病のようなものだ。私なら親友として一生凪の傍にいられる。ああ、そうだ。『兄弟』でも同じだな、秀」
秀麗な顔に鮮やかな笑みを刷いた桜子は、『兄弟』を強調した。
それに悔しげに眉間に皺を寄せる秀介に、やれやれと息を吐き出す。
ここ数年でこんな遣り取りが繰り広げられる頻度も増えていて、新手の喧嘩が始まったら口を挟まずにいるのが凪のポジションだった。
何しろ桜子を庇えば秀介が憤り、秀介を庇えば桜子が悲しげな顔をする。
凪にとって彼らは二人とも大切な相手なので、結局どちらの肩も持たずに傍観するのが一番いい。
呆れを含んだ眼差しに先に気付いたのは桜子で、少しだけ苦笑すると小さい掌を伸ばしてきた。
一見すると柔らかそうだが、剣だこが幾度も潰れた掌は存外に硬く握力も強いので逞しい。
引き寄せられるままに近づけば、凪にしか見せない笑顔で桜子は笑った。
他人相手では滅多に表情を崩さない彼女の、満面の笑顔に凪は弱い。
「おいで、凪。こんなのでも態々ここまで歩いたんだ。周りの紅葉は見事なものだし、秀に写真でも撮ってもらおう」
「おい、何を勝手に───」
「撮り終えたら私もお前と凪のツーショットを撮ってやらんこともない」
撮る気があるのかないのか判らない桜子の台詞に、凪は小首を傾げる。
だが渋々ながら納得したらしい秀介は、凪が持っていたカメラを奪うと後ろに下がって構えた。
「おい、それじゃ泉が写んねぇだろ。もうちょい右に寄れ」
「この泉を写す意味があるのか?」
「そうだね。そこに疑問は沸くけど、折角ここまで来たんだしバックにしようか」
渋い顔をする桜子の手を引いて一歩前に進んだ瞬間、地面に足が沈み込んだ。
突然の事に驚き視線をやると、地面は土じゃなく水になっている。
え、と驚く間もなく視線を上げれば、まだ距離があるはずの泉が拡大し足元まで広がっているのが見て取れた。
落ちる、と思った瞬間、握っていた桜子の手を放す。
同時に慌てた形相で駆け寄る秀介の顔が視界に移り、再び近づく水面に視線をやった。
「凪!」
「───っ、桜子駄目!」
「駄目じゃない!」
秀介の声に反応するように握られた手首に、桜子に向かって叫ぶ。
手首どころか体ごと抱きついてきた彼女に、凪は眉を顰めた。
だが振り払うには力の差がありすぎてどうしようもない。
明らかに奇奇怪怪な出来事に巻き込まれたと自覚が在るので、この親友に離れて欲しいのだが抵抗する術はない。
短い距離を詰めた秀介の手が桜子の服を掴もうとしたのと、泉の底で笑う男の手が凪の体に伸ばされたのと。
どちらが早いか確認する前に、凪の視界はブラックアウトした。