7:賑やか家族 その4
「それで、どうする?お前が望むなら、この場から離れた場所に移ってもいいぞ」
時を止めたまま簡単に提案したウィルに、眉尻を下げて笑ってしまう。
本当に過保護な神は、どこまでも凪を甘やかそうとして困る。
もっとも今回は不意打ちの状況に恐慌をきたした凪こそ問題があるので、彼を強く窘めるのもなんとなく申し訳ない。
伸びた髪を掬って遊ぶウィルの指先を掴まえて、抱きかかえられたままの状態で下から赤い瞳を覗いた。
「切り捨てるな、ってラルゴに言われた。凄く心配かけてるから、今私が消えたら、今度はラルゴが混乱するよ」
「『切り捨てるな』って言われても、言質は取られてないだろ。なら別にここで消えても約束を破るとかじゃねえ」
「うん、そうだね。でも誠意には誠意を返さなきゃ」
眉根を寄せて渋い顔をするウィルの短い髪に指先を突っ込み、くしゃくしゃと乱雑に掻き撫ぜる。
けれど少し固いつんつんの髪はさして乱れることもせず、彼の気質を表すように真っ直ぐに立ったままだ。
それがちょっと面白くて、口元に手を当て小さく笑った。
「甘やかしすぎないでよ、ウィル。私はこの世界で生きていかなきゃいけないんでしょ?」
「ああ」
「ならこれくらいで逃げちゃ駄目だね。逃げ癖が付いちゃったら、すぐにウィルに助けを求めちゃうし」
「それの何がいけないんだ?」
「駄目でしょ、それじゃ。なんのためにウィルは願い事は三つまでって決めたの。私は率先して甘やかされてるけど、それじゃ駄目だからでしょ」
「・・・でも、お前が甘えなかったら俺はお前に会えねえだろ」
唇を尖らせての訴えに、心の奥が擽られる。
どこまでも『凪』を求めてくれる彼の言葉に、心がホッと安堵する。
無茶ばかりして振り回すウィルが相手でも、少しだけ優しくなれるほどに。
「別に好きなときに会いに来ればいいよ」
「好きなときって、いつだよ」
「ウィルが私に会いたいとき」
「それだと離れられねえだろうが。お前を俺の空間に連れて行きたいけど、今のままじゃすぐに消えちまうし、それじゃ困る」
「困るの?」
「ああ、困る。消えたらこうして抱いてやれねえだろ。俺はお前の身体の感触も気に入ってる。すっぽりと収まって、丁度いい柔らかさだ」
言葉だけ聞けば卑猥にも取れるのに、全く無邪気な様子にただただ微笑む。
また服の中に滑り込んできた掌を叩いて追い出し、ついでに床の上に飛び降りた。
足首からじんわりとした衝撃が駆け上り、痺れるような痛みにぎゅっと眉根を寄せる。
するとすぐさま心配した掌が降りてきて頬を擽った。
「ウィルの元へは行けないよ。だって、この世界に秀介と桜子がいる」
「───本当に、今更だけどあいつらは消しておけばよかった。そうしたらお前は俺だけを求めたのに」
「それでも二人を消したりしないウィルに感謝してるよ」
「あいつらが消えたらお前も消えるだろうが。俺は約束は守るんだ」
「うん、ありがとう」
「感謝しとけ、俺が寛大な神だったことに」
「感謝するよ、ウィルが寛大な神様で。・・・そろそろ時間を動かして。ラルゴにちゃんと大丈夫だって言わなきゃ。だってラルゴは何も知らないんだから」
もう一度願えば、本当に嫌そうな顔をして、それでもウィルは凪から僅かに距離を取った。
そうして髪のひと房を掬うと、愛しげな眼差しを篭めて唇を落とす。
『サバンナ』とやらがしたものと同じ仕草でも、凪に与える影響は正反対だ。
正反対だと感じるちゃっかりした自分を嗤い、髪を絡みつかせた指を解いた。
「また会いましょう、異国の神様」
「今度は違わず俺の名を呼べ、凪。お前は俺の愛し子なんだから」
「ありがとう」
無意識のときまで保障できないので、日本人らしい曖昧な返事をすれば、情けなく眉を下げながらもウィルは笑った。
そうして彼の指がぱちりと鳴ると、同時にセピア色の世界に色が戻る。
瞬きする間にウィルの姿が掻き消えて、そのまま身体が後方へぐっと引っ張られた。
「!・・・やった、触れた!お嬢、おい、大丈夫か!?」
「うん、もう大丈夫。ごめん、心配かけた」
「いや、あんたは何も悪くねぇ。ただ───本気で、寿命が縮まった」
背中から抱えられ、すっぽりと収まった凪をラルゴが上から覗き込む。
ラルゴの金色の瞳は忙しなく動き、防具をつけていないシャツからは、ばくばくとした心臓の音が聞こえた。
衣服越しに伝わる体温は高く、汗を掻いた掌が頬に添えられる。
恐る恐る髪に触れていた手が腰に回され、ぎゅっと強い力で抱きしめられた。
一瞬呼吸が止まったが、それでも随分と加減してくれているのだろう。
ばたんばたんと何かを叩きつけるような音がして、きっとそれはラルゴの尻尾だと容易に想像できる自分に苦笑した。
「ラルゴ、苦しい」
「悪い。でも、これ以上加減できねえ。あんたをちゃんと感じたいんだ」
切なげに顰められた瞳が一直線に凪を射抜き、それ以上抵抗できず、代わりに汗が滲んだ額を指先で拭う。
勝手に姿を消した朝よりも、もしかしたら動揺しているかもしれない。
「あいつが来たのか?」
「・・・うん。さっきまで時間を止めて傍に居てくれた」
「時間を?・・・ったく、そりゃ神ならではのセコイ技だな。あんたの許可がなくても触れるし、なんであいつばっかり・・・まあ、でも今回は助かったんだから文句も言えねえか。明らかな恐慌状態から落ち着いてくれて、本当によかった。目の前で消えられたら、魘される」
「ラルゴが?」
「そう、俺が。お嬢にはそれだけの力があるんだから、自覚しといてくれよ」
自嘲するような笑みを浮かべて漸く腕の力を抜いてくれたので、ほっと溜めていた息を吐き出す。
もしかしたら痣になっているかもしれないくらい強い力だったけれど、それだけ心配させたのだから甘んじで受け入れよう。
髪の毛に頬が摺り寄せられ、鼻を埋めて匂いを嗅がれる。
頭皮が擽ったくなるくらいの勢いだが、これは獣人なりのなんらかのコミュニケーションなのだろうか。
知識はあれど常識はない自覚がある凪には判断が出来ず、さりとて振り払うのも非道な気がして動けない。
「ちょっと、大丈夫なの?」
聞こえた声に、びくり、と身体が強張る。
腕に抱いていた所為で凪の動きがダイレクトに伝わったらしいラルゴが、ひょいと片腕に乗せ守るように腕を回した。
「・・・近寄るんじゃねぇよ。お嬢が怖がってる」
「あら?どうして?あたしが何かした?」
「いきなり初対面の相手の唇奪ってんだろうが!女だから手は出してねえが、許せるもんじゃねえぞ!お嬢に謝れ!」
「何で?あたしは可愛いって褒めたのよ?何が駄目なの?」
呻るような声にも一向にめげずに詰め寄る『サバンナ』に、ぎゅっと掌が白くなるほどラルゴの服を握り込む。
ラルゴの腕に乗っているお陰で丁度視線が合う女性は、出るとこが出ていて引っ込むところが引っ込んでいる迫力美人だったが、どうにも話が通じない狼の女性だった。