1:今岡凪の現在
今岡凪は今人生で最大のピンチを迎えていた。
どれくらいピンチかと言えば、夏休みの宿題を溜め込み31日になって夏休みの友と、毎朝つけるはずだった朝顔の観察日記、さらに図画工作で出品するブツが出来ていなかったあの小三の夏の日以来のピンチを迎えていた。
温かい、と言うより少しばかり暑い気候の中、インドのパンジャビドレスとよく似た衣装を身につけて深くて重いため息を吐き出す。
日本と違い湿気がない分じとりとした感覚はないが、それは欠片も救いにならなかった。
「どうした、凪?」
後ろからひょいとこちらを覗きこんだ切れ長の二重の瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
腰の辺りまで伸ばされた真っ黒な髪と、夜の闇をはめ込んだような瞳は、ふわふわの癖毛を厭う凪からしたらとても羨ましいものだ。
長い髪を白魚のような指で耳にかけた親友は、花開くような微笑みを浮かべた。
美形と言われて頷かぬ者が居ないと断言できる完璧な美貌は、若武者のように凛々しく格好いい。
そう、信じがたい事に若武者のように、凛々しく格好いいのだ。
「・・・なんでもない。大丈夫だよ、桜子」
名前で想像できる通りに、元・女性、現在・男性の親友に疲れ果てた笑顔を向ける。
こちらもインドの民族衣装のクルターに酷似した装いで、ほとんど変わらなかったはずの目線がはるか上から見下ろしてきた。
異世界トリップなどという信じたくない現象に伴い、自分と同様にチート化した彼女は何故か性別まで変えていた。
理由は親友である凪に幼少の砌からずっと恋をしていたかららしい。二重の意味でびっくりだ。
何しろ親友の高屋敷桜子は日本人形を実体化したような和風美少女だった。誰もが羨むような艶やかな黒髪と日本人にしては白い肌、そしてお嬢さま然とした態度も併せて学校での呼び名は『桜子姫』だったくらいだ。
身長だって145センチの凪と変わらぬ学年でも1、2を争うチビだった。なのにこちらの世界に来て一気に180センチを超えてるなんて、美しさを残しつつ凛々しい若武者のような男性になってしまうなんて詐欺だ。
しかも男性になったことで色々と大事な何かを吹っ切ってしまったらしい桜子は、毎日のアピールも割りと激しい。
相手が桜子なので極度の拒絶も出来ず、結局毎日供寝をしてしまっている。
流されている現状にふつふつと焦りを感じなくもないが、断ればあの美少女だった頃と寸分違わぬ瞳を潤ませるのだからどうしようもない。
「・・・おい、サク。俺のお嬢から離れな」
長い腕を伸ばして凪を囲おうとしていた桜子の動きが止まる。
彼女(彼?)の腕を掴んで動きを止めたのは、浅黒い肌をして赤毛の髪を短く切った『龍のラルゴ』だ。
凪からすれば遥か上にある桜子の目線より、彼は優に上をいく。多分、2メートルは超えているだろう。
ボディービルダーとは違い実用的に整った筋肉を惜しげもなく晒し、上半身は深紅のベストのみで下はゆったりとした白のパンツを履いている。
体のそこかしこに傷跡が残り、彼の潜って来た修羅場を容易に想像させた。
ポールアームと言うらしい武器を常に携帯している彼は、その槍とも斧とも言える不思議な武器について凪に説明してくれたが全くついていけなかった。
一見すると強面の顔は、眉が太く金眼が印象的で、よく見ると精悍に漢らしく整っている。
「そうですよ、サク。ナギ様は将来は私の嫁御となられます。馴れ馴れしくしないでくださいな」
涼しげなテノールで告げた彼は、真っ白な髪を肩を越すあたりで切りそろえ、赤い瞳をスッと細めた。
一重の瞳と絶妙な配置で並べられたパーツが妖艶な彼は、『狐のリュール』。
一見すると女性的でもある美貌を持つ彼なのに、やはり身長は桜子と同じくらいかそれ以上ある男性だ。
身に纏う衣装は凪と同じでパンジャビドレスのようなものなのに、男でもしっくりと似合っていた。
緩く弧を描いた唇と流し目が壮絶に色っぽい彼は、凪を見詰めて淑やかに微笑む。
「あはは!何言ってるんですか、リュールさん。ナギちゃんは俺のお嫁さんになるんですよ?リュールさんなんかのお嫁さんになったら、小さくて可愛いナギちゃんが色んな意味で壊されちゃいそうですし、俺のほうが大事にしますもん」
一見すると爽やかそうな笑顔を浮かべてその実毒の篭った台詞を吐き出したのは『虎のゼント』。
キラキラと輝く少し癖のある金色の髪に、空を映したような蒼い瞳。恭しい気品漂う仕草が標準装備でありながら、どこか獰猛なものを秘めている。
ラルゴほどではないが彼も鍛えられた体をしており、俗に言う細マッチョだ。
基本は笑顔で真っ白に見え、中身が真っ黒なのが彼の特徴だと最近知った。
しかし今のところその黒い部分は凪には向かってないので気にしない。
「なーに言ってんだよ。ナギは俺様のもんだしな。俺様が守ってやるし、俺様の子供をぽんぽん生むんだ。んで一生俺様と添い遂げるんだぜ」
真っ黒なオーラを撒き散らすゼントを気にせず、こちらは裏表ない笑顔を浮かべた彼の名は『狼のガーヴ』。
灰色に近い銀色の髪は左右非対称で分けられ、覗く瞳は琥珀色だ。
悪戯っぽい表情が似合うガキ大将タイプの彼は、身長は伸びても心は少年のままを地でいっている。
俺様なんていう一人称を使う存在が小説や漫画以外で存在すると思ってなかった凪からすれば、彼の存在はある意味で特異だ。
喜怒哀楽は激しいがその分素直で気前もいい。
「主のような子供の嫁になればナギ殿も苦労するはずよ。彼女には俺のような男こそが相応しい」
眇められたこげ茶の瞳は射抜くようにガーヴを眺める。
同色の髪をベリーショートにしている彼の名は『鷹のラビウス』。
肌の色はラルゴほどではないが浅黒く、身長も彼についで高い。
ニヒルに口元を歪め大人びた雰囲気で腕を組む彼は、男としての色気が溢れていた。
鋭い視線をガーヴに向ける一方で、蕩けそうな甘い笑みを凪に向けてくる彼は、桜子と同じで基本は表情の変化が乏しい。
ちなみに彼らは『人間』のような見目をしているが『人間』ではない。
名前の前につく種族名が彼らの本質を表し、ひょこひょこと見え隠れする尻尾や耳などがそれを表している。
ラルゴの腰からは爬虫類的な赤い尻尾が生えて床をびたんびたんと打っているし、リュールやゼント、ガーヴにはそれぞれの種族の耳や尻尾が揺れてるし、ラビウスの背中には大きな鷹の羽が生えていた。
共通点は美丈夫で強いという部分だけで、他には彼らに重なるもの何もない。
否、一つだけ強烈に困る共通点があった。
何をトチ狂ったのか知らないが、彼らは全員漏れなく凪に惚れている。
それはもう恋やら愛やらを通り越した勢いで。
凪の言葉を音色とし、見惚れるばかりに右から左へと意味を聞き流してしまうくらいに。
ありえない勢いで異世界トリップなどと言う経験をさせられた現在の凪の苦労の九割がたは、彼らで作られている。