6:閑古鳥が鳴くパン屋 その5
ぐいっと身体が持ち上げられ、視界が一気に高くなる。運動神経がない凪は、当然のことながら反射神経も悪い。
後ろから片手で腰を掴まれて、抵抗の間もなく何か太いものに座らされた。
声で相手が誰か判ったので、掌がすり抜けることもなかったのは幸いだ。
もし条件反射で拒絶していれば、初対面の相手の前で、『怪奇・すり抜ける女』となってしまうところだ。
隻眼を丸くし、ぽかんと口を開いている男は、驚きすぎて声も無いらしい。
実際凪も驚いてる。声を掛けられるまで、ラルゴの存在には一切気づいてなかったのだから。
「お嬢!何勝手に一人行動してんだ!店についてお嬢が居なくなってんのに気づいて、俺がどんだけ心配したかわかってんのか!?」
「ッ」
頭ごなしに怒鳴られて、びくりと身体が強張る。
肩で息をして、必死に呼吸を整えながら、流れる汗も拭わずにラルゴは金色の瞳で凪を射抜いた。
「この俺がいつ居なくなったかわからなかったんだぞ!?冒険者としてそこそこ名が知れてる、この俺が、だ!どんなヤバイ奴に浚われたかって、俺が、どんな思いで───ッ」
「ごめんなさい」
謝罪はするりと口を付いて出た。
ラルゴが心を砕いてくれているのは気づいていたが、まさかこんなに余裕をなくして凪を探すと思ってなかったのだ。
汚い話をすれば、ラルゴと凪の関係は、彼の親切心につけ込んだ雇用関係になる。
倒れていた女を見捨てれないくらい親切なラルゴなら、常識がなく面倒な雇用主でも見捨てないと、そう考えたから利用した。
凪はこの世界の基礎知識はあるけれど常識はない。判断基準は元の世界の常識で、だからこそ協力者が欲しかった。
無事に桜子や秀介と再会できるまでの間、中継ぎで知恵を与えてくれる人を望んだ。
誰でもよかったけど偶々近くに居たからラルゴにした。それだけだったのに。
「ごめんなさい、ラルゴ」
本当は、彼の姿が遠ざかったとき、このまま別の人を探そうか、少しだけ迷った。
面倒だと、思ってしまった。
ラルゴはとてもいい人だが、先ほどの龍の女の人を見て、素直に巻き込まれたくないと思った。
良くも悪くも自分の感情に素直すぎる人が過去の経験からどうしようもなく苦手で、あの龍の女の人のような相手と付き合わなければいけないなら、ラルゴを切り捨てようとした。
薄情だと思う。これほど親切にしてもらっていて、それでも嫌だと我を通そうとしたことは、恩を受けた人間として最悪だ。
自己嫌悪に陥りつつ、顔を流れる汗をワンピースの裾で拭う。
付き合いは浅いが、この五日で彼がこれほど消耗しているのは初めてだ。
凪が倒れそうな山道でも全く息すら乱さず歩いていたのに、こんなになるまで探してくれた。
言葉より有言な態度に、心から謝罪する。
「・・・勘弁してくれ、マジで。本気で肝が冷えた。頭が冷えた今なら判るが、店に入って暫くするまで、俺はあんたの存在すら思い出せなかった。あんたが望まなければ干渉できないって、多分そういうことなんだ。二度目は止めてくれ。何かあるなら口で言ってくれ、俺を切り捨てるな」
「ごめんなさい」
上気した、張りのある少し固い頬を摺り寄せられ、汗ばんだそれを受け入れる。
漸く息は落ち着いても、まだ汗は流れていて、もう一度ワンピースの裾で拭った。
「あー・・・なんか盛り上がってるとこ悪いんだけど」
「あぁ?」
「そんないかにも警戒した声出すなよ。お前さんがこのお嬢さんの保護者か?」
「保護者?・・・・・・まあ、そんなとこだ。んで、俺のお嬢にプロポーズしてやがったテメェは、どこのどなたさんだよ」
正真正銘の呻り声を上げながら器用に言葉を発したラルゴは、目の前の明らかに只者じゃない男に、ばしんと地面に尻尾を打ちつけた。
感情に素直な尻尾の動きに、彼の怒りは獅子の男にも向けられていると知り少し焦る。
『守る腕はある』と言っていても、パン屋が本職の男がラルゴに勝てると思えない。
それなのにラルゴの言葉に赤面した男は、欠けた耳を伏せてだらだらと汗を流し始めた。
「ぷ、プロポーズ!?」
「どう聞いたってそうだったろうが。テメェは獅子だろ?なら今は虎のお嬢に惹かれてもおかしくねえ、違うか?」
「・・・獅子が虎に惹かれてもおかしくない?どういう意味?」
「稀に他種族でも結婚する輩は居る。獅子と虎なんて子供も出来るし、珍しいが全くないわけじゃない。例外ってのは常に存在するんだぜ、お嬢」
凪の頬に手を当てて瞳を眇めたラルゴは、極めて機嫌が悪そうだった。
心配で心配で向けた凪への怒りと違う種類の苛立ちを、獅子の男に向けている。
しかしながらラルゴの凶悪な視線に曝されても、男に反応する余裕は無さそうだった。
忙しなく尻尾を揺らし、耳をぴく付かせて隻眼を彷徨わせている。
落ち着かない様子に、彼は自分の言葉がどう聞こえるか今自覚したんだと知らせた。
それにしても獅子と虎で結婚する場合があるなんて思わなかった。
確かにもとの世界でも父がライオン、母が虎のライガーや、逆に母がライオンで父が虎のタイゴンが存在するが、それは人工の産物だったはずだ。
その上生まれた子供は基本的に生殖能力を持たなかったはずで、稀に雌の子孫を残すことがあっても、その次の世代は無理だと聞いたことがある。
野生の虎やライオンが互いを番とすることはないのに、獣人だと違うらしい。
やはり凪の意識する動物とずれがあるようだけれど、馴染むには時間をかけて教えてもらうしかない。
真っ赤になって黙り込んだ男をじっと見詰めると不意に視線が絡み、更に顔が赤くなった。
「ち、違う!違うぞ!プロポーズとか、そんな大それたことは考えてなかった!」
「その割りに『男から守ってやる』だの、『うちに来い』だの『お前のために毎日パンを焼いてやる』だの言ってたよな?それがプロポーズじゃなくてなんだってんだよ」
「ぐあぁぁああ!!もう、マジで勘弁してくれ!」
「『一緒に暮らそうぜ』ってのもあったな。それでどこがプロポーズじゃねえんだよ?ああ?つかそもそもテメェは誰だよ!お嬢、こいつの名前は!?」
苛立ちも露にもう一度尻尾を地面に打ちつけたラルゴは、犬歯をむき出しにして凪に問いかけた。
凪を腕に抱いてなければ今にも飛び掛ってしまいそうな凶悪な顔つきで男を睨んでいる。
視線だけで人が殺せるなら、あの男はもう死んでいるだろう。
それくらいラルゴの怒りは凄まじく、なのに羞恥心で気づかない獅子の男はある意味天晴れだ。
肝が据わってるのか、鈍感なのか。はたまた余裕がないのだろうか。
きっと一番最後だろうと思いながら、ラルゴの疑問に答えるべく口を開いた。
「知らない人」
「・・・はぁ?」
「ついさっき会ったばかりの関係」
「・・・・・・」
無言の後、ラルゴは腰にさしていた武器を片手で持った。
金目に縦に走る瞳孔が開き、喉からは威嚇音が流れる。
武器を向けられた男は流石に羞恥心から自我を取り戻し、驚いたように瞳を丸めた。
「変質者めが」
今まで聞いた中でも一番低音で囁いたラルゴは、死刑執行を宣言する裁判官のように重々しい空気を発していた。