6:閑古鳥が鳴くパン屋 その4
あっという間に売りさばいたパンがあった場所をうっとりと見詰める男をよそ目に、借りていたエプロンをさっさと畳む。
凪は秀介の家の居候だったので、アルバイトがない日は家事に勤しんでいた。
無理をしなくていいと秀介の家族は言ってくれたが、体力と筋肉はなくとも働くのは好きなので一切苦じゃなかった。
ちなみにたまに早く帰って来る秀介は、洗濯物を畳むたびに凪の下着について桜子と一緒に論議した。
下着を買うたびに三人でそれぞれのものを見せ合った自分たちは、思うに少しばかり特殊な幼馴染だったかもしれない。
畳み終えたエプロンを、パンが置いてあった台の上に乗せると、後ろから声を掛けられた。
首だけを回して振り返ると、そこには凪より頭一つは高い、虎の青年が居た。
さきほどパンを試食した一人だが、茶色の髪と同色の瞳が凪の思い浮かべる虎のイメージと合わなくて、なんとなく印象が残っていた。
仕事上顔を覚えるのが得意な凪は、身体ごと正面を向いて営業スマイルを顔に貼り付ける。
「今日はもう売り切れなんです。また明日、お願いできますか?」
「そうじゃなくてさ、良かったらこれから一緒にお茶でもどう?ちょうど仕事が終わったんだろ?俺、奢るよ」
「ちょっと待て!俺の方が先に目をつけてたんだぞ!」
「いや、僕のほうが」
「姉ちゃんは俺が誘うんだ!」
あっという間に囲まれて、ぱちりと目を瞬かせる。
一番若い子は十歳前後で、一番上は三十前半ぐらいの男性が、四、五人で詰め寄ってきた。
帽子やバンダナで耳が隠れている子も居るが、どうやら相手は全員虎の人らしい。
抱けても同族じゃないと発情しないの意味が目に見えて判った気がする。
凪は単純に行為について語っていたが、彼らに言わせるとそれ以前で、きっと『恋愛感情を抱かない』という意味なのだろう。
元の世界に獣人がいなかったので、動物と混ぜて考えてしまいがちだが、凪には良く判らない線引きがありそうだ。
本人をそっちのけで口喧嘩を始めた彼らを黙って観察していると、背後からけたたましい音が聞こえてびくりと身体を震わせた。
何事かと振り返れば、さっきまで上機嫌で魂を飛ばしていたはずの彼が、悪鬼のような形相で額に青筋を浮かべて隻眼を眇めている。
きっと今の音は、彼がパンを置いていた台に手を叩き付けた音だろう。
両手で掴むようにして置かれた掌が台を圧迫し、めきめきと微妙な音が聞こえてくる。
ぐるぐると呻るような低音は明らかに今まさに襲いますと訴えていて、高い位置から見下ろす男は犬歯をむき出しにして言葉を発した。
「いいか、お客さん。よく聞けや?」
『・・・・・・』
「うちの看板娘は箱入りだ。誘いたいなら、この俺を倒してから行くんだな」
にいっと持ち上げられた笑みは凄惨で、爽やかとか清々しいとか好印象とは正反対に位置している。
あまりにも殺気が篭められた視線に、それを向けられた彼らを見れば、びしりと両手を脇に添えてから、『はい!』と揃って悲鳴じみた声を上げて走って行った。
あっという間に人に飲み込まれた姿を見送り、そのままちらりと周囲を確認する。
騒動に興味を持ったのか足を止めていた人たちは、凪と視線が合うとぎこちなく逸らしてそそくさと去っていった。
どうやら凪も後ろの男とセットで危険人物になったらしい。
思わぬ展開に嘆息し、首を曲げて上を見る。
「あなた、私の父親ですか。なんです、その『俺の屍を超えていけ』みたいな発言」
「いや、別に屍を越えて行けとは言ってないぞ!ただ俺を倒してからじゃなきゃ認めないってだけで」
「私たちついさっき会ったばかりですよね?どうしてあなたの許可が必要なんですか?これから付き合いがあるかどうかも判らないのに」
「え!?ないのか?俺のパン、食うんじゃないのか!?手伝った報酬だって」
「いえ、それはいただきます。当然です。私、ロハは嫌いです。お金の関係はきっちりしとかないと、後々で響きます。現に秀介がおばさんにお金を借りたとき、利子がトイチで付いて、最終的にお小遣い全部没収されてましたし。あれは酷かった」
「そ、そりゃ大変だったな」
「ええ、大変そうでした。うっかり将来は金融業で一旗上げようかと目論む程度に」
「そっちの大変か?そこはシュウスケとやらを心配する場面じゃないのか!?」
「最新のエロ本買うために借金した馬鹿に同情の余地はありません」
「と、言うことはシュウスケとやらは男か。ああ、それはあれだな」
しょっぱい表情になった男は、なんとも言い難いなと顎に手をやり苦笑した。
随分と男の色気を感じさせる仕草だと思う。
こうして改めてみると、男はやはりとても怖い。
笑っていても発する雰囲気が常人と違うし、ある意味で華がある。
不細工じゃないが取り立てて美形でもない。ただ艶気がある男だった。
欠けた耳も、セットしてるのかいないのか微妙な長めのショートカットも、眼帯などで隠していない隻眼も、人によれば酷く惹かれるのではないだろうか。
もっとも普通の女であれば忌避する傾向にありそうで、実際そうだからこの店は味の割りに繁盛していなかったのだろう。
凪が勤めていたレストランに通っていたホストを髣髴とさせる。ちなみにホストは目の前の男より細身で、ワイルド系の美形だった。
雰囲気はラルゴと目の前の男を足して3で割って1足したような感じだ。
会うたびに違う女の人を連れているのに、女性が席を離れるたびに凪を口説く、ある意味仕事熱心な男で、他の綺麗系のホストたちと一線を画すオーラを発散していた。
ちなみに彼に惹かれる女性はやはり只者じゃない人ばかりで、凪でも知る大手アパレル会社の女社長や、世界を股に掛けるモデルや、とにかく一芸に秀でいて、気が強そうな美人ばかりだった。
大人になったら店に来いと名刺を貰っていたが、どうやら二度と会う機会はなさそうだ。
あんなのでも会えないと考えれば、少し寂しい気がしないでもない気がする。いや、そうでもないか。
「いいか、女には判らんかもしれんがな、男には色々あって」
「色々あると一緒にエロ本を見ようと誘うのですか?」
「そう、色々あってエロ本を・・・エロ本を一緒に見る!?ちょっと待て、お前シュウスケとどういう関係だ!」
「兄弟同然に暮らしていた同年の幼馴染です。物心付いたときには友達で、私の両親が亡くなってから彼の家に引き取られました。身長は私のほうが低いですけど、誕生日は私が先なんですよ」
「つまり、同い年の野郎にエロ本を一緒に見ようと誘われたのか!?しかも、同居人!!両親が亡くなったからって負い目があって言うことを聞かなきゃいけなかったのか!?」
「そういう上下関係はなかったですけど。でもたまに一緒に風呂に入ろうと誘われました」
「風呂!風呂だって!?おい、お嬢さん、女性に年齢を聞くのは失礼だってわかった上で言うけどな、一体何歳だ?」
「・・・17です」
外見年齢と精神年齢どちらで言うべきか迷ったが、結局実年齢で答える。
するとラルゴとはまた違った意味で怖い顔を益々怖くした彼は、ぐっと身を乗り出して顔を近づけた。
めっきり真剣な表情に、口を開くのも憚られて、つい反応を窺ってしまう。
「いいか、お嬢さん。お前、その家を出たほうがいい。明らかに狙われてるぞ。十代の男の考えることなんて、性欲しかないんだからな」
「・・・体験談ですか?」
「おう・・・って、お前何言わせるんだ!」
「勝手に言ったんでしょうが。エッチ」
凪の一言に、また耳と尻尾の毛をビビビと逆立てた男は、がちりと動きを止めた。
真っ赤になり冷や汗がだらだらと流れている。
獅子の人はこの男しか知らないが、すぐに毛が立つ種族なのだろうか。
力説するに従って近づいた隻眼をじっと覗き込んだままお見合い状態になっていると、我に返った彼は真っ赤になって口元を片手で覆い顔を背けた。
「とにかく、だ!そんなヤバイ男がいる家なんてすぐにでも出たほうがいい!行く場所がねえってんなら、俺の家に来ればいい!その、絶対許可なく変なことはしないし、俺が守ってやるし、それにほら、あれだ!お前がいたらパンが売れるしな!なんなら手伝ってくれるなら家賃もいらない!」
途中、許可があれば変なことをする気かと突っ込みたくなったが、あまりに必死に視線を逸らしながら言い募るのでタイミングを逃してしまった。
薄々感じていたが、目の前のこのパン屋の男は、見た目と違いとてもいい人らしい。
そうでなければどうして初対面の人間を心配し、居場所まで提供するだろうか。
見た目が怖すぎて誤解されるだろうが、不器用で少しぶっきらぼうで、ついでに大人な彼は、見た目以外はとても好青年だ。
凪の言葉を待つ間、落ち着かずに揺れる尻尾やそわそわとした態度を可愛いと思えてしまう。
どちらにせよ一月の間は桜子を待つためにこの街に滞在しなくてはいけない。
人を招くからには男の家もある程度の広さはあるのだろうし、無いと思うが万が一襲われそうになったら、ウィルから与えられた力を使えばいい。
毎日宿に泊まるのはお金が掛かるのでアルバイトを探そうとしていたけれど、宿代が浮くならば丁度いい。
手持ちの金を使わないだけでも十分な上、パン屋の仕事でずっと拘束されるわけでもないだろう。
大体の算段をつけて、どこか怯えるような眼差しを向ける男を見上げる。
「なあ、俺の家に来いよ。小さいが居心地は悪くないし、毎日お前のためにパンを焼いてやるし、しつこい男から守る腕は、これでもちゃんと持ってるし。───一緒に、暮らそうぜ」
まるでプロポーズのようだと、真面目な顔をして訴える男に笑いの衝動を辛うじて我慢する。
どうしてだろう。人は笑ってはいけない場面で、たびたび笑いの発作に襲われる。
男の脳内でストーカーの変態野郎に格付けされただろう秀介を思い、捻り切れそうな腹筋を総動員させた。
あながち秀介の執着はストーカー並かもしれないけれど、それを言うなら凪と桜子も同レベルだ。
そうじゃなければ、三人のうち誰か一人でも欠けたなら、一緒に世界から消えたいと望んだときに凪と桜子の内どちらかに躊躇が生まれただろうし、秀介は世界を渡る二人のために千年の地獄を選ばない。
盛大な勘違いをした男と秀介の顔合わせを見たい気もするが、この街に滞在する一月の間に叶うと面白い。
息を潜めて返事を待つ彼ににこりと微笑み。
「答えは勿論『いいえ』だ、クソッタレ!」
響いたバリトンに滲む怒りに、すっかり忘れていた相手を思い出し、渋い表情で固まった。