6:閑古鳥が鳴くパン屋 その3
健康的に焼けた肌をした男は、顔を赤らめたまま動かない。それどころか呼吸をしているのかすら怪しい。
瞬き一つせず驚いたように目を見開いたまま人形のように固まっている。
「手伝いはいるんですか、いらないんですか?」
「え、あ、その、いいのか?」
「よくなければ聞きませんよ」
「じゃあ、た、頼む」
きつめの声を出せば、漸く拘束が解けたのか、ぎこちなく掠れた声を出しながら視界の暴力にもなっていたエプロンを脱いだ。
ラルゴのマントを露店の中の適当な場所に置いてから受け取った真っ白なエプロンは、裾がふりふりなだけでなく胸の前に大きなリボンまでついている。
何を根拠にこんなものを選んだのか知らないが、彼には大分小さかったそれは、凪には少しだけ大きかった。
余った腰紐を後ろで大きめに結び、邪魔な髪をどうしようかと思案し、男の頭のねじり鉢巻に目を留める。
「それも貸してください」
「それって?」
「頭に巻いてるそれです。髪が邪魔なので縛りたいんです」
「俺が使ってたのでいいのか?その、女の子がつけるには、あんまり綺麗じゃないと思う」
「構いません、髪を括るだけなので。さっさとください」
ぐいっと手を出すと、暫しの躊躇の後おずおずと差し出された。
明らかに向こうのほうが見た目は怖いのに、何故かとても素直に従ってくれる。
落ち着かない尻尾がゆらゆらと揺れるのを眺めながら、右サイドで手早く三つ編みにした髪を手ぬぐいで結んで垂らした。
鏡がないのできちんと整えられないのが難点だが、露店の後ろの家の窓ガラスに映った姿で乱れはないか確認する。
接客をする上で身だしなみはとても重要だ。
凪のアルバイト先は所謂高級と冠が付くレストランだったので、シャツの乱れどころか、制服のリボンの結び方すら気を使った。
お陰さまで商売繁盛で笹持ってこい、状態だ。
普通より高額なアルバイト代のためなら、スマイル0円を振りまくくらいなんでもない。
毎月の仕事ぶりがそのまま自給アップに繋がる、ある意味シビアでとてもナイスな実力主義だったお陰で、仕事中の凪はやれば出来るを合言葉に、学校では見せない顔を作っていた。
特待生である以上勉強は欠かせなかったが、アルバイト申請は家庭の事情も込みできちんと受理されていたし、極稀に教師が来て接客態度を褒めてくれることもあったくらいだ。
デパ地下の販売員のようなことはしたことがないが、なんとかなるだろう。
売れなければおかしいと思うくらい、ここのパンは美味しかったのだから。
「さて、それでは商品を売るに当たって幾つか確認とお願いがあります」
「・・・ああ、もうお前さんの好きにしてくれ」
「話を聞かずに許可していいんですか?」
「どうせ元々売れ残るのが基本だからな。無駄にするよりマシだろ」
「そうですか。では、ここにあるパンを一口サイズに切ってください。トレイになるようなもの、ありますか?」
「ああー・・・これでいいか?」
差し出されたクリーム色のトレイは、パンの屑が付いている。
きっとここまでパンを持ってくるのに利用したのだろう。
頼んだとおりに一口サイズに切られたパンを乗せ、よいしょと持ち上げる。
凪には少しトレイは大きかったが、持てないほどではない。
「このパン、一律200ビルでいいんですよね?」
「ああ」
「残り何個ですか?」
「27個」
凪が食べた分と今一口サイズに切ってもらった分を合わせて30個あったことになる。
それだけで純利があるのかと少しだけ考えたが、経営は凪の管轄じゃない。
とりあえず目の前にある分を売るのに集中すればいい。
「了解しました、店長。行ってきます」
「て、店長!?」
店の主なので店長と呼んだら、目が飛び出るんじゃないかというくらい驚いた男は、裏返った声を出した。
先ほどからどもったり、きょろきょろと視線を彷徨わせたり、何処となく落ち着かない上に挙動不審だ。
もし凪の傍に桜子や秀介が居たら、すぐさま警戒モードに移行していただろう。
幼馴染たちを想い少しだけ寂しくなった感情を、首を振って振り払う。
そうして素早く営業スマイルを貼り付けると、道の中心に向かって声を張り上げた。
「ただいま美味しいパンの試食を行ってます!宜しければ一口いかがですか?ふわふわもっちりな柔らかい生地に、濃厚なミルクとバターの薫り。一口噛むごとにほんのりと口内に甘さが広がって、優しい味は病み付きになりますよ」
突然の声に、通行人の何人かが足を止めてこちらを振り返る。
無料試食が珍しいのだろうか。
ぎょっと目を見開いたあと、ぽかんと口を開けてこちらを眺める。
販売とは何も関係がないが、この手の反応は元の世界でも経験してきたので、ことさら作り笑顔を深めた。
仕事がなければ無視だが、今の凪はアルバイト中だ。つまり接客の仕事中。
仕事は何かを得るために行うもので、きちんとこなすのは当然だ。
「ただいまキャンペーン中ですので試食は無料ですよ!」
桜子に太鼓判を押された営業スマイルには自信がある。
蛇、鹿、犬、熊と、他にも色々な種族どころか、老若男女様々な彼らにトレイを向けた。
最初に金縛り状態から解けたのは、桜色の頬をした可愛い黒猫の子供たちだった。
ぴこんと耳を立て尻尾をくねらせながら、こげ茶色の瞳をきょろりと向ける。
腰ほどの高さまでしかない、恐らく兄弟だろう男の子と女の子にしゃがみ込んで視線を合わせると、すっとトレイを差し出した。
「美味しいよ、どうぞ」
「ありがと、おねえちゃん!」
「あいあとー!」
小さな掌がパンの欠片を掴むのをほのぼのと見守る。
獣人の年齢はよくわからないが、多分4、5歳くらいだろうか。
一口大に切ったのにまだ大きいのか、必死に口を動かす姿がとても可愛いく、幼い頃の自分たちと重なる。
桜子と秀介とは物心付いたときからよく一緒に行動していたので、買い物に連れて行かれてはデパートの試食コーナーで三人で色々食べていた。
ちなみにこういう子供の場合、試食後美味しければ大抵自分の親を探して連れてくる。
もしくは子供が勝手にうろついているのを親が捜してやってくる。
今回は後者のようで、若い猫の女性が息を切らせてやってきた。
「こら!あんたたち、何してるの!」
「あのねー、おねえたんがこえくえたの!」
「ママ!このパン、いつものとこよりおいしいよー」
「くれた?どういうこと?」
「売り出し中のパンの無料試食を行ってたんです。宜しければお母さんもいかがです?」
「え?でも、うちはもう子供が」
「遠慮しないでください。お配りして味を知ってもらうためなんですから」
ぱちりとウィンクすると、驚いたように瞬きを繰り返した彼女は、凪の笑顔に釣られたように微笑んだ。
どうして子供がパンをもらえたか理由を知り、少しあった警戒心を解いてトレイの上のパンを掴んで租借する。
考え込むようにして味わっていた顔は、徐々にじんわりと綻んできた。
「やだ、本当に美味しい!これお幾ら?」
「一つ200ビルです。試食にも使っちゃったし限定で販売してるので、あと27個しかないんですよ」
「限定品なの!?どうりで美味しいと思った。やだ、これ欲しいわ」
「ありがとうございます、どうぞこちらです!店長、お客様ご案内です!」
「へぇ!?」
「『へぇ!?』じゃありません。動かないならどいてください。幾つご入用でしょうか」
「そうねぇ、うちは家族五人だから、とりあえず五個お願いできる?」
「はい、ありがとうございます!初めてのお客様なので、一つおまけしときますね」
「いいの!?」
「代わりにまた来てください。店長は毎日パンを焼いてますから」
「ええ、勿論!こんなに美味しいんだもの、常連になるわ!」
好きにして良いと言われているので、言葉どおり許可も取らずに好きにおまけする。
これは先行投資のようなものだ。毎度おまけする訳にはいかないが、最初の一回は店への印象もいいし、今後を考えれば損にはならない。
箱の中から束を解かれていない袋を取り出し、紙で包んで手早くパンを詰めていく。
笑顔で受け取ってくれた猫の人にもう一度礼を言い子供たちに手を降ると、その光景を呆然と見ていた周囲の人にトレイを向けた。
「試食、いかがですか?」
『限定品』と銘打ったパンの売れ行きはとても好調で、売り切れたあとに残った試食品を配ったときも好感触だった。
僅かな時間で全てを売り払った凪は、パンが売り切れても集まる客に営業スマイルを向けながら、呆然としたままの男に視線を送る。
「店長、完売しました」
「・・・ああ」
魂が抜けたような表情で返事をした男に、作り物ではない笑顔で小さく笑う。
目が合うとまたビビビビっと尻尾と片方が欠けた耳の毛を逆立てた彼は、暫くの後街中に響くのではないかと思える声量で快哉を上げた。