23:どこの世界でも曲げたくないもの その9
パストゥールと名乗った狸の男は、左目を面白そうにくるりと回して三日月形に口角を持ち上げる。
片手に持ったままの仮面をポケットに入れ、くつりと喉を鳴らした。
差し出されたままの手は握手を促してるのだろうと右手を伸ばしかけ、ラルゴの声に制止される。
危険はないと言ったようなものなのに、握手はやはりまずいのだろうか。
伸ばしかけた手を引いて、確認をするためラルゴに視線を戻す。
すると眉間にしわを刻んだ龍は、嫌そうな声を出した。
「お嬢、男はみんな獣なんだぞ?簡単に手を出したら駄目だろうが。お嬢の可愛い手が穢れる」
「・・・・・・」
危険云々ではなく、思い切り私情を交えた台詞にこちらを見ていたリュールの瞳が半眼になる。おそらく凪も似たような表情をしてるだろう。
ひとつ嘆息して差し出されたままの掌を握りこむ。上下に振っても特に何かされるでもなく、最後にキュッと握られてから解放された。
狸の癖に上機嫌な猫のような表情を浮かべたパストゥールは、そのまま最初腰かけていたソファに座りなおす。
よく見てみるとその前には長方形の応接用らしき机があり、机の上には凪の写真が数枚、そしてリュールの写真も2枚ほど置かれていた。
無造作に武器を振るったラルゴが器用に写真を風圧で浮かせて空中でキャッチする。その際リュールのものだけえり分けて床に落としていた。
何気なく見ていたリュールの眉間がぴくりと動いた気がするが、それに気づいたガーヴがさっと動いて落ちた写真を拾って狐に手渡した。
いい子いい子と笑顔で頭を撫でるリュールの表情は優しいし、褒められて尻尾を振るガーヴの姿は微笑ましいが、彼らの関係には明確に上下が出来ている気がしてならない。
きっちりと躾が行き届いた犬。否、ガーヴは一応狼だったが、似たようなものだろう。
ふりふりと振られる尻尾を生ぬるい視線で眺めつつ、ラルゴが握っている写真をひょいと奪う。
凪よりはるかに運動神経も反射神経もいいはずの龍は、油断からかあっさりと奪われた写真が凪の手の中で細切れにされて石畳の上に落とされたのを見て奇声を上げてひざを折った。
いきなり下がった視線にラルゴの肩に手を置いて必死にバランスをとるが体が傾ぐのを止めれずにいたら、目にも止まらぬ早業で移動したリュールに背中を支えらた。
固い石でできた床の上に顔面ダイブしたらさぞかし悲惨な結果になっただろうから助かった。心からの謝礼を告げると、照れたように微笑んだ狐はそのまま凪の手を引いて立ち上がらせる。
「ふむ・・・実に絵になる。まるで一枚の絵画のようだ」
「あぁ・・・?」
「このような薄暗い部屋でも発光するような輝きを見せる肌理細やかな肌、柔らかな髪質。狐の若者は切れ長の瞳に物憂げな眼差し。影がある艶をもちつつ、それでいてこの虎の少女を見詰める眼差しは限りない慈愛に溢れている。たおやかでいてしっかり鍛えられた首筋から垣間見える筋肉。女性と見紛う美貌の持ち主でありながら、少女を軽く片手でも支えれる根底にある男らしさ」
「っ」
するりと伸ばされた腕を、リュールが嫌そうに弾く。
しかし随分と力が加減されたもので、相手の様子を見て動く姿に、ラルゴなら容赦なくもっと力をこめて弾き飛ばしていただろうと感想を抱いた。
いきなり断りもなく触れようとしてきた無礼な狸に苛立ちも警戒心も隠していないが、目上の年齢で、尚且つ杖を使って歩く相手を遠慮なく突き飛ばすには良心が咎めたらしい。
しかし。
「・・・パストゥールさん、バランス感覚宜しいですね」
「虎のお嬢さん、あなたは声すら麗しい」
「ありがとうございます」
カカン、と軽快な音を響かせて安易にバランスを取った狸は、凪のイメージによく合う笑い方で口角を持ち上げた。
随分と余裕があることだ。彼の動きは、どこかで見たことがある。
弱者に見せかけ、実際は違う。本当に身体が弱い人、あるいは運動が苦手な人間はあんな動き方はしない。
桜子の実家の道場に入り浸っていたのは伊達ではない。凪自身は自分でも考えられないくらいの運動音痴だが、見る目だけは無駄に肥えているのだ。
道場はもともとの門下生が事故などで怪我をしても通ったり、身体のリハビリがてら運動をしにくるお年寄りもいらした。
彼ら、ないし彼女らの動きは、どれだけの熟練者もどこかに違和感が残っていた。滑らかな動きをする操り人形を見るぎこちなさと言えばいいのだろうか。
どれだけ滑らかなものでも、生きていると感じるほどでも、人形の動きは何かが違う。
もっとも根拠は何一つない凪の直感だから反論されても質問されても上手く答えられる自信は欠片もない。爪の先どころか、ミジンコほども。
けど彼は違う。違うのはリュールだって気付いている。
凪が何もせず瞬きをしている間に妖艶でありながらも見るものを竦ませる鋭さを瞳に保ちながら、自然な仕草で身体を抱き上げ距離を取った。
片手は軽く握られ油断なく狸の動向を見据えている。凪ですら気づいたのだ、ラルゴすら認める実力派のリュールも違和感に気づいたに決まっている。
穏やかな微笑を唇に刷きながらも凪を腕に抱いたハンデを感じさせないさりげない動きで半身になり、美麗な声を響かせた。
「私を男として褒めていただけるのは光栄ですが、生憎男に褒められて狂喜するほど飢えてもおりませぬ。それ以上私たちに近づけば五体満足である保証は致しかねますよ」
「おや、警戒されてしまいましたか」
「大丈夫だぞ、リュール。そいつは自分が美しいと判断したものに対して見境はねぇが傷つけたりはしねえから」
「ええ、私は美しいものを鑑賞するのが好きなのです。今までも美しいと思える獣人は腐るほど見てきたが、あなた方ほど印象的な獣人はいませんでした。・・・どうです、その美しさ、私の元で永遠といたしませんか?」
「・・・・・・傷つけたりしない?」
「ああ。傷をつけたりはしねえよ」
「それで?傷をつけないでどうなさるのです?」
「保存するんだよ、美しいと思った姿のまま」
「ええ、私の元で美しさを永遠にするのです」
「悪趣味な」
「よく理解しています。ですが獣人は持ち合っていないものを欲しがるものです。卑しい性分ですがこればかりはいかんともしがたい。───あなたも、同じでしょう?」
抱きしめられている腕に力が入った気がした。
驚いて反射的に顔を見上げようとし、片手で目のあたりを覆われ視界を遮られる。
「おーおー、いい表情するじゃねえの。いつもその顔なら女に間違えられることはないぜ?女子供は寄ってこないだろうけどな」
「私は凄絶な美貌だと思いますがね。真の美人は怒り顔すら美しい。益々私のコレクションに欲しいですな」
「下世話な発言はそろそろお止めいただけますか?ナギ様とガーヴ君の耳と心がけ枯れます」
「勘違いされてるみたいですが、私は相互理解の上で同意のもとで行動を起こしています。同意がない獣人を無理やりなんて事はありませんので無闇に嫌わないでください。無理やりなど紳士のすることではない」
笑みを含んだ声。しかしどろりとした何かが見え隠れする。
凪の直感が警鐘を鳴らす。
───あの狸は、見た目以上に狸らし狸らしい。化かし合いや腹の探りあいは大得意そうだ。
イメージ的に狸と張り合いそうな狐のリュールを掌で転がす程度に腹黒い。リュールとて潜った経験値は少なくないはずなのに。
ああ、それとも。ただ単に相性が悪いのかもしれない。
ラルゴ相手にしてる時のリュールは腹黒いながらもどこか楽しげにしているけれど、この狸相手には嫌悪感が前面に立っている。
鈍感鈍感と言われることが多い凪だが、これでいて変なところで冴えていると定評がある。
これに関しては秀介と桜子以外にも親しい身内には認めてくれているので外れていない、と思いたい。
その優れた───否、優れているかどうかは微妙かもしれないが───直感が訴える、この狸は近づきすぎてはいけないと。
リュールもラルゴも敢えて仔細を口にしなかったが、凪とて言葉の外に含まれた意味くらいわかる。
何故、妖艶な狐がそれ以上深く掘り下げなかったのか。
厳つい龍が軽口に混じえて何を忠告したかったのか。
笑っている狸の顔がどうしてあんなにうすら寒く見えるのか。
相互理解。同意のもと。
言葉だけ切り取っても胡散臭い。深読みしてくれと言っているようなものだ。
彼が何を交換条件に差し出したかわからない。
普通はどれだけ美男美女だとしても、余程極めつけのナルシスト以外は己を永遠に保ちたいなどと考え付かないはずだ。
美しく保存する。その手段はいかようなものか知らない。知らないが保存された後どうなるのか、嫌な想像しか膨らまない。
その保存手段は何か。まっとうな手段を思いつかないのだが、こちらの世界には人を老いることなく永遠に保存する手段が一般的に出回っているのだろうか。
神様に貰った能力で調べてみても一般的とは思えない手法しか出てこないし、一般人が使う手法とも思えない。
相互理解の上同意を得たとしても、公平な条件であるとは限らない。
断れない理由をつけた上で、半ば恐喝まがいに条件を飲ませた可能性もある。
あんな嗤い方をするような獣人がまっとうな条件を突きつけるなんて考え辛いとは穿った偏見だろうか。
視界を覆っていた掌を、両手で掴んでそっとどける。
一瞬の抵抗の後、素直にあけた視野で一番に映ったのは、道化師のような表情の読めない笑みを浮かべた狸の男だった。
嗤っている。凪が好む笑顔じゃない。薄ら寒い表情に、はんなりと眉根が寄ったのを自覚する。
「リュールさん」
「・・・はい」
「早く用件を済ませて帰りましょう。美味しいお昼ご飯が待ってますよ」
眉間に刻まれた皺を人差し指でぐりぐりと解しつつ、口角を緩やかに上げれば、切れ長の瞳を微かに見開いた狐は柳眉を下げて苦笑した。
「そう、ですね。ナギ様は空腹でいらしたんですものね」
「こちらでお出しいたしましょうか?お二人にはダランの一流料理店にも負けぬ料理を振る舞わせて頂きますよ」
「一流料理店の料理が美味しいとは限らないんですよ、パストゥールさん。それに私、安くて美味しいお店を見つけるの好きなんです。自分の足で探すのも結構楽しいものなんですよ」
リュールから宝石を受け取り、交渉に入ろうとする龍の背中を見送りながら微かに笑う。
一流料理店の料理店に負けない料理を親しくもない相手に振る舞われるよりも、喧騒の中、気が知れた相手と賑々しく食事を摂る方が気持ち的にも美味しく感じるものだ。
したり顔で告げた凪に隻眼を丸くした狸は、ラルゴから差し出された宝石を控えていた兔の女性に受け取らせつつ、『そうですか』と瞳を細め頷いた。