23:どこの世界でも曲げたくないもの その8
意識をすると、なんとなくお腹がすいてきた。
凪は少食だがこちらの世界に来てから燃費が悪くなったので、食事の回数は間食を含めると4、5回に増えた。
失った体力や傷の回復力をあげるためのエネルギーとして使っているのと、食事が好きな凪への思いやりも兼ねていると異界の神は以前言っていた。
美味しいは可愛いと同じくらい正義。凪は日本を世界でも屈指の美食大国と思っている。
何しろちょっとした都心に行けば世界各国の料理を、それも大きめのデパートであれば店舗内で数か国渡り歩けるくらい適当な値段で楽に、なおかつ安全に食べれる国などそうそうないに違いない。
だがこちらの世界の食事事情も中々悪くない。あちらでは口にすることはなかった蛙の肉は、切り分けて串に刺してあれば鶏肉のように美味だったし、ゴムのような食感がすると聞いてた蛇の肉も、皮のゴムみたいな食感を置けば淡白な味は嫌いじゃない。
日本で冒険しようと思わなかったろうから、ある意味こちらの世界で凪の味覚の幅は広がった。
虫料理だけは今のとこ食べる予定はないけれど、爬虫類系なら意外と行ける気がする。屋台でラルゴに美味しいと勧められたものは虫以外は試したが、本当に美味しいものばかりだった。
サバンナの味覚がどれほど確かなものか知らないが、あのダイナスの作るパンを毎日食べてるならきっと美味しいものに慣れているはず。つまりはずれはないと信じたい。
オムレツ。ふわふわのオムレツ。実はこちらの世界でオムレツを食べた記憶が一度もない。
思えば卵料理はリュールの故郷でしか食べてない。卵ご飯も卵焼きも美味しくて懐かしかったけれど、ふわとろのオムレツも食べたい。
そんなオムレツにご飯が付けば完璧だ。ご飯と卵の組み合わせはシンプルながらに奥が深くて、オムライスは幸せのコンボだ。
オムライスにかけられているのはケチャップかデミグラスソースかトマトソースか。想像してたらさっきまでは平気だったのに、段々とお腹が減ってきた。
きゅるくるるるる・・・
壁を通り抜ける瞬間に情けなく尻すぼみする音がお腹から流れ、龍の腕がぴくりと震える。
視線こそこちらに向けられてないものの、凪を抱きあげてない方の手で口元を抑え何かをこらえるような表情をしていた。
太い眉の間に深い皺を刻み、ぐうと喉が変な音を鳴らす。それならそれでさっきのガーヴのようにいっそ笑い飛ばしてくれればいいのに。
ひょいと眉を持ち上げて金目を見上げれば、こちらを見てないくせに凪の様子に気づいたらしく、太い尻尾を大きく振った。
背後にいるリュールから不平の声が上がっているが、豪胆な龍はどこ吹く風と笑いをこらえるのに必死で気づいてもいない。
数回の忠告の後、それでもしつこく揺れる尻尾が邪魔だったのか、ダンっという大きな音の後、体が宙に浮きあがった。
「いっでぇぇぇえ!?」
「あら、痛覚はまだあるのですね。聴覚は衰えてらっしゃるようですから、こちらも鈍ってるのかと心配してしまいました」
なけなしの筋力を使って背筋を伸ばしラルゴの肩越しに背後の様子を確認すると、秀でた額を赤く腫らしたリュールが眦を淡く染め上げて太めの尻尾をおみ足の下に敷いていた。
その際抉るように捻りを入れるのも忘れない。
壁の厚さはラルゴが一歩踏み出してもまだ突き抜けれない長さだが、尻尾はまだ外に突き出ていた。邪魔な壁がない分自由に動いて、背後に立っていた狐に危害を加えてしまったのだろう。
気絶したままの狸の男は、ラルゴほどではなくとも力はありそうなリュールでも、移動させるのは大変だったろう。
意識を狸に取られていたら、思いがけぬ不意打ちを味方から喰らった、というとこだろうか。
自分から進んで荷物持ちを志願したでもなく半強制的にお荷物を押し付けられた上、不意打ちで味方から攻撃され、あげく幾度もの静止の声(おそらく発していた)を無視されれば腹も立つに決まっている。
特にリュールは出会いが悪かったラルゴに対して沸点が割と低い。傍から見ると仲良し喧嘩だし、ラルゴからしたらじゃれ合いの延長なのだろうけど、リュールの攻撃には若干本気が混じってる気がしないでもない。
げしげしと容赦なく尻尾を足蹴にしているリュールを眺めていたらふと視線が絡んだ。
僅かに瞳を見開いた美麗な狐は、ふわりとほつれた前髪を指先で素早く直しつつ何事もなかったと微笑みを浮かべる。
「ナギ様、どうかなさいましたか?」
「・・・いえ、何もございません。ラルゴ、早く行こう」
思わず丁寧語になってしまった。目が潰れそうな眩い笑顔からささっと視線を逸らしつつ、自分を抱き上げる腕をぺしぺし叩く。
踏みにじられた尻尾の先にふーふーと息を吹きかけていた龍は、凪に促されてさらに前に進んだ。
瞬間、視界が白で塗りつぶされ、瞬きひとつで闇へと解ける。
「お嬢、通り抜ける瞬間は景色が白く塗りつぶされるから目をつぶってた方がいいぞ。部屋の中を暗くされてたりしたら目がくらむ」
「そう、わかった。できればもう少し早く忠告して欲しかったけど」
言葉通りに眩んだ目をしばしばと何度も瞬かせる。瞼を閉じても視界が白い。暗闇でカメラのフラッシュをたいた後みたいだ。
掌で瞼の上から擦っていたら不意に体が傾いだ気がした。目を閉じたまま慌ててラルゴの体にしがみつけば、ばしりと何かを叩きつけたような音と共に浮遊感に包まれる。
微かな衝撃。誰かが息をつめた声と、ラルゴがふっと強く息を吐き出したのが同時に聞こえた。
「どいつもこいつも手癖が悪いな。俺みたいな文明人には考えられないぜ」
「ふっ・・・」
「おい、そこの鼻で嗤ったの。聞こえたからな。きっちり、聞こえたからな」
「あら、すみません。私、根っからの正直者なもので」
「嘘つくな、嘘を。お前が正直者なら俺は真人間だ」
「・・・誇大妄想はおやめくださいな。鳥肌が立ちましたよ」
『ほら、見てください』と声はするのだが、未だに暗闇になれない凪の視界ではうすぼんやりとリュールらしき人影が、ガーヴらしき人影に寄り添う姿がなんとなく認識できる程度だ。
もう一度目を擦ろうとしたら頭上から柔らかな声音で止められた。
「擦ったって視界は戻らねぇよ、お嬢。ゆっくり瞬きだ。大丈夫、焦る必要もない」
「───この状況で焦る必要もない?相変わらずの自信家だな、お前は」
聞き慣れたバリトンに続いた声は、今まで聞いたどんな声とも似た部分を見いだせないものだった。
金属の上に砂利を落としたような音と、スロウ再生させた低音の音声を混ぜたような、いかんとも表現がしがたい。少なくとも人間が出す声ではない。
獣人ならではの種族的なものなのだろうか。随分と個性的なものだ。
擦るのをやめて数度瞬きをし、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
ようやく眩んだ視界から薄闇になれた目には、周囲の状況が徐々に飲み込めてきた。
「・・・これはいったい、どういう状況?」
部屋の大きさは大体凪がとっている宿の一室と同程度より少し広いくらいだろうか。
カーテンはきっちり閉められているものの、遮光ではないらしく、室内を確認できる程度の光は入ってきていた。
暗闇と思ったのは移動時に目が眩んだのと、もともと裏通りのここら辺は太陽の光がさんさんと射し込む作りになっていないからだ。
事実、夜目に強いわけじゃない凪でも室内の状況を把握できる程度に光源はある。
見えないままでもよかった。
一瞬脳裏に浮かんだ言葉は、喉奥でかみ殺す。どうせ口に出してもせんない台詞だ。
凪を抱きしめた腕とは反対の手でどこからともなく己の武器を握ったラルゴが、凪から見て斜め下にいる男の首筋に武器の先端の刃物になった部分を突き付けている。
口以外を覆う仮面を身に着けた男は、首元に刃物を押し付けられても怯えるどころか、愉快そうな空気を発していた。
本気でこの状況が愉しんでいるなら随分と肝が据わっている。凪なら全身から冷や汗が流れる状況だ。あわよくば意識を失って現実逃避もする。
おそらくラルゴがわずかに手を引けば、男の動脈が切れて大量の血が噴水のように溢れるだろう。
ちらと視線だけで周囲を確認したら、足元に狸を敷いたままのリュールに向け兎の女性が何か構えかけていた。どうやら先ほどまでの大人しい様子は演技だったらしい。
近い距離なので険しく歪められた表情まではっきり見える。さっきまでのあれが演技なら、女って怖い。
攻撃が加えられそうになっていたリュールは、そんな兎の女性を一瞥しすっと瞳を細めた。
投網を握っていない方の手がかすかに動き、兎の女性が呻いて手に握っていた何かを床に落とす。からんと甲高い金属があたったような音が響いた。
同時に周囲の複数からも呻き声と似たような音がいくとも響く。
「こういう時お前の技は便利だよな。蜘蛛の糸みてぇに一気に絡めとれるし、必要とあれば切り落とせる」
「・・・簡単に仰らないでくださいな。蜘蛛の糸ほど芸術性の高い、優秀なものではありませんよ」
「謙遜だぜ。俺が知る中でもお前は有数の使い手だぞ。狸親父の子飼いを5人同時に止めたってんだからな」
「うち二人はガーヴ君ですよ。兎の女性も彼が半分動きを止めているようなものですし、後ろの猫の獣人も落としたようですしね」
「へぇ、やるじゃねえの」
「これくらいならな、俺様だって大丈夫だ。虎の方が強い」
「訓練された虎相手にタイマンでやりあう狼も珍しいけどな。もっともゼント相手じゃ形無しだったが」
「うっ・・・あいつは腹が黒い!」
「腹が黒いのは実力に関係ねえだろうが」
まったくもってラルゴの言うとおりだ。しかしガーヴの言うことも間違っていない。
親密な相手ではないけれど、王子様風美青年のゼントは爽やかそうな笑みの裏で悪事をたくらんでそうなタイプだ。
同じ端正な美青年で、ブラックな部分があるリュールとも似て非なる。
リュールはブラックなことを口にしても真っ直ぐな気質であるのに対し、ゼントはなんだろう、なんとなく粘着質なイメージだ。
しゃらりと音を鳴らして武器のダガーについているチェーンを構えなおしたガーヴは、勝利してるのに敗者の空気を醸し出しつつある。
苦笑したリュールがどこからともなく取り出した飴玉を、ひょいと彼の口の中に放り込んでいるのを羨ましいなんて思ってない。
「で、私はいつまでこの状態でいればいいんだ?」
「そうさな、とりあえずお前の子飼いを下げてもらおうかな。これじゃおちおち話もできねぇ」
「首筋に武器を突き付けられている私の方が、話ができる状態とは程遠いと思うがね。───手出しはしないと我々の血に誓おう。武器を下げてくれ」
呆れを含んだ声を出した男は、ぱちりとひとつ指を鳴らす。
その様子を確認したラルゴが周囲を見回し、持っていた武器を下して一歩下がった。
「もういいぜ。血に誓うって口にしたからには、こいつらは手を出さねえ。それが『掟』だからな」
「わかりました」
「手を放して大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。こいつらにとって血が持つ意味は重い。お前んとこの部族の誇りと同じだ」
「・・・わかった」
ラルゴの言葉に二つ返事で武装を解いたリュールに続き、ラルゴの説明でガーヴも武器を退けた。
ガーヴにダガーを突き付けられていた兎は表情を消し、すぐさま移動する。他にいくつかあった影も、リュールの足元にいる狸以外は同様に動いた。
「ようこそ、私の城へ。美しい者の来訪は歓迎する」
掠れた、不可思議な声音を出した男は距離を置いて正対することでようやく種族がわかった。
丸い耳とふわりとした尻尾はリュールの足元にいる男と同じ、つまり狸のものだ。
顔の半分以上を覆っていた仮面をはずし、おそらく笑みを浮かべた男は見た目に反して優雅な仕草で一礼した。
そっと顔があげられ、隠されていた顔立ちが暗闇に慣れた視界に映る。
右耳は千切れ、アシンメトリーにそろえられた髪に隠れない右の目には額から続く大きな傷跡。喉元もほとんどがやけどで爛れている。
左腕に比べて右の腕は極端に細く短く、二の腕を少し超えるくらいの長さくらいしかない。ソファに腰かけていたので気づかなかったが、立ち上がった時に右足の先が丸く削られた木の棒がさしこんであるようだった。
右の眉はなく、きりりと吊り上がった左の眉の下には切れ長の一重の瞳が眼光鋭くこちらを観察している。薄暗さから瞳の色まではわからない。
ゆるりと持ち上げた口角は三日月を描き、狸の癖に上機嫌な猫みたいな表情を浮かべて右手を差し出した。
「私は狸のパストゥール。お嬢さんのお名前は?」
「あ、凪と言います」
予想外に真摯な物言いに、思わずするりと返事をしてしまった。
ギャップルールだ。見た目は怖めの雰囲気なのに、中身が紳士。
差し出された手を握り返そうと右手を差し出すと、パストゥールと名乗った狸はひょいと眉を持ち上げる。
そして益々愉快そうに眇められた瞳を煌めかせ、彼はわずかに身を乗り出した。