23:どこの世界でも曲げたくないもの その4
その後、揉めているラルゴとリュールを余所に、苦笑を浮かべたダイナスが『じゃあ明日』とさり気無く日付を指定してきたのに頷いて、パン屋の傍を離れる頃には宿屋を出たときより太陽は随分と高いところに位置していた。
ふと隣を見上げれば、右頬を少し腫らしたラルゴと視線が絡む。情けなく眉尻を下げた彼は、罰が悪そうに視線をそらした。
つい先ほど俺様発言をして、格下と断じたような相手に速攻でぼこぼこにされたのはさすがに少し気まずいのだろう。
凪は本来狐の戦闘力がいかほどのものか知らないが、女性と見紛うような美貌をもつ一見儚げな麗人のリュールの腕前は確実に相当なものだと思う。
少々ものをぶつけられたくらいでは傷一つつかないはずの浅黒い肌はしっかりと腫れあがっていて、どれだけ力を入れればこうなるのかと少し遠い目になった。
しげしげと見詰める凪の視線に気付いてるだろうに、それでも繋がれた手はしっかりと握りこまれていて、まるで逃すまいとしているようだ。
そんなに力を篭めていないけれど、決して凪の力では振りほどけそうにない絶妙な力加減。いかにもラルゴらしい、雑なようでいて繊細な掴み方だった。
「ラルゴ」
「・・・ん?」
「顔、大丈夫?痛そうだけど」
「───大丈夫だ、このくらい。むしろリュールの手の方が痛いんじゃないか?」
強がりなのだろうか。微かに眉間に皺を寄せて不機嫌そうに目を眇めたラルゴは、ゆらりと太い尻尾を揺らす。
するとちょうど後ろにいたガーヴに当たったのか、悲しい鳴き声が後ろから聞こえて、次の瞬間隣から野太い悲鳴が漏れた。
いきなり動きを止めたラルゴに、ぐんと身体が引っ張られバランスを崩しかけたが、危ういところで後ろから支えられ難を逃れる。
柔らかに薫るほのかな甘い香りはリュールが故郷にいたときに好んで焚いていたお香の薫りだ。
背中からじんわりと伝わる温もりに安堵した凪をよそ目に涙目になった龍は、空いている手で必死に自らの尻尾を手繰り寄せていた。
いったい何がどうなったのだろうか。
ぱちりと一つ瞬きして自分を支えている狐を見上げると、それはそれは優しげな面持ちで彼はにこりと微笑んだ。
「他獣人様にぶつかっても謝罪一つ出来ない龍に、教育的指導を施したままですよ。ガーヴ君は先ほども痛い目を見たばかりだというのに、計ったように同じ箇所に尻尾をぶつけるなんてなっていませんもの」
「・・・・・・」
あくまで穏やかにゆったりと囁くリュールの台詞に誘導されるよう、彼の隣を歩いていたはずのガーヴに視線を向ける。
大柄な龍が背中を丸めているお陰でちょうど姿が隠れていた狼も視界に入り、顔を抑えて悲しげな声を上げているのに眉を持ち上げた。
なんだろう。記憶にある限りガーヴは決して鈍くなかったし、むしろラルゴをもってして筋はいいと聞いていたはずなのに、こちらに来てからずっと貧乏くじを引いている気がする。
へにょりと折れた三角の耳すら哀愁を誘う姿に思わず身体を移動させて頭を撫でると、年齢より上に見える整った顔でうるうると瞳を涙でうるませた年下の少年は、凪の服の裾をがしりと掴んだ。
「・・・痛い・・・」
掠れた声で訴えられると、さすがに同情も沸いて来る。彼の場合、基本本人は何も悪くないのに、地味に行動が空回りしていると言うか、無駄にラルゴに虐げられてると言うか、生傷が絶えない気がするというか。
根っこが素直で明るいガーヴは、こちらに来てからすぐの頃より随分と自分らしく戻ってきたものの、それでもまだラルゴなどの一定の獣人を相手にすると萎縮傾向にある気がした。
凪がいない間にどんな目に合ったのか。尋ねる気はないので想像しか出来ないけれど、おそらく骨の髄まで上下を叩き込まれてしまったのだろう。
「俺のが痛ぇよ!リュール、テメェ今全力で俺の尻尾踏み躙りやがったな!?」
「・・・あなたの顔を殴ると私の手の方が無事ではすまないと、あなた本人も仰っていたでしょう?私はあなたと違って痛い目にあって歓ぶ趣味はありませんので」
「獣人聞き悪いこと言ってんじゃねえぞ!?俺がいつ痛みを歓ぶ趣味を持ったってんだ!」
「あら?ことあるごとに獣人に嬲られるよう誘導されるので、てっきり痛みを望んでるのかとばかり・・・」
「・・・っ、何も知りませんみたいなキョトンとした顔作っても俺には通じねえぞ、この真性が!さてはお前、隙をついてお嬢にまで魔の手を伸ばそうとしてるんじゃ・・・」
「───あなたこそ獣人聞きの悪いことを仰るのはやめていただけませんか。ナギ様とガーヴ君の耳と心が穢れます」
大仰なまでに反応したラルゴを見て、侮蔑的な眼差しを隠しもしないでリュールは口元に手をやった。
以前の服装なら、ちょうど袂で口が覆われるような仕草だが、だぼっとしたラルゴの服ではいささか格好がつかない気もする。
それでも本来の素材がいいのでだらしなく見えないのは凄い。
喧々囂々と場所を弁えずに仲良し喧嘩をする二人は気にしてないようだが、凪としてはそろそろ身体に突き刺さる周囲の視線にも痛みを感じ始めていた。
今、歩いているのはいつも通る人が多く明るい大通りではなく、建物の間隔が狭く人通りも少ない、いわゆる裏道と呼ばれるものだ。
建物の影になり光もほとんど入ってこないので、朝だというのに遮光カーテンをひいた室内みたいに薄暗い。
ありがたいことに凪はそこまで夜目が利かないわけではないけど、きょろりと視線を彷徨わせても誰か見つけることは出来なかった。
積み重ねられた木箱の隙間から鼠が一匹姿を現す。さらにそれを追いかけて薄茶けた猫が走り出し、なんとはなくそれを見送った。
姿は見えねど気配は感じる。なんとなく嫌な感じだなと思いながら、ずっと繋がれたままのラルゴの大きな掌を掴む手に少しだけ力を篭めた。




