閑話【神の愛し子】
ラルゴ視点です。
その日、ラルゴの機嫌は大してよくなかった。
正確に言えば、眠っていたところを叩き起こされ、ダランで拠点にしている家から追い出された頃から、機嫌は下降線を辿っている。
ちなみに追い出したのはその家の家主だ。
少しばかり変わり者だが、同じく住み着いている数人の悪友も含めて気の置けない仲間でもある。
ラルゴを追い出した相手は家主だが、家を買う金は仲間たちと平等に分けた。
なので権利は対等なはずで、この理不尽な凶行は、先日まで受けていたギルドの断れない伝からの依頼である『お嬢様』の護衛と同じくらい腹立たしい。
しかしながら哀しいことに、家主は家事一切を一手に引き受けている。
逆らえば家に帰ったときに用意されてる食事や風呂、さらに溜まった洗濯の処理をしてもらえなくなってしまう。
そう考えると、夜中に叩き起こされ必要な薬草を取って来いと命令されても、天秤は情けなくも傾いてしまうのだ。
ダウスフォートの首都ダランからラルゴの足で五日ほどの奥まった森にある薬草は、今まで何度も取りに行かされた。
ある程度の腕がなければ生きて帰れない獣の巣窟で、普通の獣人なら難易度の高いここは、往復で軽く一月は掛かる。
並の冒険者なら傷だらけで辛うじて帰る道のりを、ラルゴは無傷で歩いていた。
予定ではあと一日ほどで家に帰れる。
風呂やベッドに思いを馳せていた中、思わぬ雨に足止めされた。
しばらくは濡れるのも構わず歩いていたが、雨脚が徐々に強まり、ついに断念して木の下で雨宿りを始める。
枝振りが立派で葉が生い茂っている木は丁度屋根代わりになり、時折ぽつぽつと落ちてくる雨粒はマントを被って防いだ。
ある程度の金を持つラルゴの装備は、どれも魔法でオプションが掛けてある。
体を包むマントも、防水、耐火、防風に優れた特注で、大柄なラルゴに丁度いいサイズだ。
暫くの間ぼうっと雨を見ていたが、何もすることがないのに行動派のラルゴはすぐに退屈になった。
くあっと欠伸を一つして、身体をリラックスさせ木に凭れる。
何かあれば本能が察知いてすぐに目は覚める。己の武器である斧と槍を合わせたような武器のポールアームを利き手に握り、ラルゴはゆったりと息を吐き出し瞼を閉じた。
覚醒は唐突だった。
いきなり隣に現れた気配に、勢いよく上体を起こし飛びずさる。
殺気を向けられたわけじゃない。だがあまりにも不自然な気配の出現に、培った経験が警戒を促した。
凭れていた木から一跳びで離れたため、小降りになった雨がしっとりと身体を濡らす。
武器を構えたまま生まれた気配に視線をやり、ぴくり、と赤龍の証である尻尾が揺れた。
旅に慣れたラルゴですら見たことがない、上等の布で作られた繊細な衣装の衣服を纏い現れたのは、華奢な女の子だった。
予想外の展開に驚き、息を呑んで様子を見る。
だが暫くしても全く動かず、胎児のように丸まっているのが気になり、武器を持ったまま徐々に近づく。
何が在ってもいいように身体の緊張は解かなかったが、まもなくそれが杞憂だと知れた。
そこに居たのは、見たこともないような、否、実際に初めて見る種族の女だった。
雨に濡れ古いコインのように鈍い色で輝く緩やかな髪は、繊細で小さな顔の周りに少し乱れて広がる。
肌の色は抜けるような白で、青い血管が透けていた。触れたらさぞや、と思わせる美しい肌理細かさに見惚れ、顔をぐっと近づけた。
すっと一筆書きしたような眉、淡く染まるまろい頬、髪と同色の長い睫毛に、ちょこんと上向きの鼻とふっくらした柔らかそうな唇。完璧な位置にパーツが並べられ、うっとりと魅入られる。
そのまま視線を身体に沿わせ、掌に簡単に収まりそうな膨らみや、スカートの端から覗く細く長い足、片手で二回りできそうな腕に、白魚のような指先まで、文字通り頭の天辺から爪先まで観察した。
濡れた土に寝転がることで、髪に草や枝が絡んでも、彼女の何を損なうでもない。
むしろ少し汚れたアンバランスさが、堪らなく庇護欲をかき立てた。
ラルゴは、目の前の少女を知らない。
けれど目の前の少女が何であるか、本能に訴えられて、明確に悟る。
「・・・これが『神の愛し子』」
どんな名匠でも作り出せないような、完璧な美貌を兼ね備えた少女は、確かに神に愛されるに足る。
今まで会ったどんな女とも重ならない面影に、熱の篭ったため息を吐いた。
彼女は龍にあるはずの特徴は見受けられないのに、心が掻き立てられて仕方ない。
むしろどんな女との経験よりも、今、目の前に存在している少女こそが魅力的で、どうしようもない衝動に、簡素な鎧の上から胸に手を当てた。
普通なら異種族にこんな感情を抱くのは可笑しい。
世界には様々な種族があるが、性欲は沸いても、根本的に他種族の女を欲するなんてまずありえない。
女の身体をしているから抱いても、それは捌け口でしかない。
猫は鷹と結婚しない。龍は狼を愛さない。動物ですらそうなのだから、獣人の間でもそこには種族という完全な壁が立ちはだかり、国や大陸を跨いでの常識だ。
だから本来なら他種族の女にこんなに心が熱くなるラルゴは異常だが、それでも目の前の存在ならば、と誰もが理解するだろう。
『神の愛し子』。
数百年、あるいは千年単位で送られてくる異世界人。
例外なく女性である彼女たちは、この世界の獣人の男の全てから求愛を受ける資格を持っている。
「伝説の、『人間の女』」
微かに上下する身体に、瞳孔が縦に開いた瞳を細める。
触れたいと願うままに伸ばされた腕は、もうすぐ届きそうだった。