22:夜が過ぎたら朝は来るもので その5
涙を流してしがみ付くままのガーヴを剥がすのを諦めたラルゴは、武器にしているポールアームも仕舞ってこちらを睨み付ける。
決して凪が向けられるものではないが、視線は氷河期のブリザードの如く冷たく寒々しい。
この状況で空気を読まずにくっつき虫と化したガーヴの肝も結構据わってると改めて感心しつつ、呆れた眼差しを向ける警邏の獣人に小首を傾げた。
「───ここから私はどうすればいいでしょう?」
「どうすればいいって聞かれてもな・・・」
心底困ったように眉根を下げた男は、どうやら山羊の男らしい。
薄く紗のかかった灰色とブルーが混じったような不思議な髪を肩を越す程度まで伸ばし、右側で皮ひもを使って結んでいる。
鋭角的な瞳は強い印象を与え、取り立てて秀でた顔立ちではないものの一度見たらなかなか忘れられない雰囲気を持っていた。
「あたしと一緒に朝ごはん食べればいいわよ!どうせここはあたしたちの管轄じゃないし、さっき連絡しておいたからこの地域の警邏隊が誰か来るでしょ」
そしてもう一人の忘れられない存在が、当たり前の仕草で飛びついてこようとしてすげなくラルゴに払われた。
さすがに男相手にするような強さではないものの、女相手にするには微妙なところだ。
思わず視線でたしなめると、ひょいと肩を竦めて視線を逸らされた。
「もう、邪魔しないでよ。あたしはハニーちゃんと一緒にご飯食べるの」
「邪魔するに決まってんだろ。前にお前の相手をさせられてお嬢がどうなったか忘れたのか?」
「?」
銀色の耳をぴくりと動かした狼は、不可思議そうに瞳を瞬かせる。
同色の瞳の瞳孔はまん丸になり、何かを考え込むように顎に指を当てた。
「怒ってる?」
こてり、と小首を傾げた美女は、まったく悪気がない。
悪気がない、或いは悪意がない。そういうのは時に前者の二つよりも性質が悪い場合があるが、彼女はまさしくそれに当たるだろう。
しかし彼女に対する答えは一つしかない。
「怒ってませんよ」
「本当?」
「お嬢、無理しなくていいんだぜ?」
「本当に怒っていません。怒る理由もありませんから」
吐息が触れ合わんばかりに顔を近づけた美女───サバンナに苦笑する。
そう、初めから怒ってなんかいなかった。怒るほど余裕もなく、憤るほど隙間もなかった。
ただ怖かっただけだ。
凪が目の前に居るのに、『凪』を『凪』として認識しない人物の登場が、自らの本能を根源から揺るがすくらいに怖かった。
そこまで考えて未だに捕らわれている自分に自嘲の笑みを浮かべる。
どうも普段よりもネガティブな思考に捕らわれている気がしてならない。
いや、実際にそうだろう。自慢じゃないが自分を一人で支える自信は持ってない。
誰かが凪を見なくても許容できるのは、我慢できるのは、大切な幼馴染の二人がいてくれるから。
いつでも凛と背筋を伸ばして強い眼差しで前を見据える綺麗な桜子。
いつでも明るくてポジティブで元気で、いるだけでこちらにも明るさを別けてくれる強い秀介。
胸に思い浮かべるだけで淋しさが募り、早く彼らに合いたいと心が願う。
二人の様子を脳裏に思い描いていると、不意に慰めるように頭の上に掌が置かれた。
くしゃくしゃと柔らかく髪を撫でる仕草は覚えがあるもので、ふと顔を上げると淡い苦笑を滲ませたラルゴと視線が絡まる。
「やっぱ、怒ってんじゃねえのか?」
「・・・どうして?」
「悪い、言い方を間違えた。凹んでんだな、お嬢は」
「・・・・・・」
見透かされて、僅かに瞳を見開く。
ラルゴを信頼している自覚はあるものの、ほとんど無表情に近いと学校では言われていたのに、幼馴染やその家族以外でこんなに感情を読み取る存在は初めてだ。
「嫌なら嫌って言えばいいんだぞ。俺が通す」
「嫌なんかじゃないわよね?あたしが行きつけの店で驕ってあげる。ふわふわのオムライスがすごく美味しいのよ」
「・・・・・・・・・・・・無理です」
物凄く逡巡したものの、結局諦めて首を振る。
何故なら宿の中には未だに寝ているだろうリュールが居て、彼を置いて朝食を楽しむなんてさすがに出来ない。
目を覚まして誰も居なければ淋しいだろうし、折角なら一緒にご飯も食べたい。
「いいじゃない、ハニーちゃん。行きましょうよ」
「・・・しつこくするな、サバンナ。どうせ今日中には事情聴取を取らせてもらうんだ。あんたたちには悪いが、朝食後に時間をくれないか?俺たちも仕事なんでな」
「決着がついてるだけに意味はねえと思うけどな。でもお嬢はそのオムライスに興味があるんだろう?」
「・・・・・・」
「昼食時ならかまわねえぜ。待ち合わせ場所はここ。そうだな、街の真ん中の時計塔の鐘が十二回鳴ったときにでどうだ?」
「了解した。それでは」
「いやよー!あたしはハニーちゃんと行くの!」
「っ!了解、した!お前はこっちで後片付けだ!引継ぎもあるしもう一仕事するぞ!」
ずるずると襟首を引き摺られていくサバンナを傍目に、未だに凪に引っ付いたままのガーヴにラルゴが絶対零度の視線を向ける。
「お前はいつまで居るんだよ」
「俺様の場所はナギが居る場所だ!」
「あぁ?」
「っ!?ナ、ナギ、そうだよな!」
「うん、そうだね。長い間留守にしててごめん。ご飯を食べながら今まであったことを話そうか」
凪の首に両腕を回してしがみ付いたままのガーヴは、琥珀色の瞳を煌かせてぶんぶんと頷いた。
三角の耳がぴこりと立って、尻尾が振られている様はいかにもイヌ科の生物で可愛い。
思わず頭を撫でれば不満げなラルゴのため息が聞こえて、それに過剰に反応するガーヴの姿に、何となくこの数週間の関係が見えるようだとはんなりと微笑した。