22:夜が過ぎたら朝は来るもので
頬に触れる柔らかな感触と仄かに香るお日さまのにおいにうっとりと寝返りを打つ。
意識が徐々に浮上しているのを感じつつ、まだ寝ていたいと訴える脳みそに従って枕を抱え込むと俯けになった。
枕に顔を埋めると呼吸は少々し辛いけれど、いつでもふかふかな枕の感触が堪能できて結構好きだ。
自然と口元が綻んでくるのを感じながら、日ごろは眠っている根性を掘り起して二度寝を決行しようとしていると、ふと変な音が耳に付いた。
「はっ、はっ、はっ、はっぁ」
暑苦しく、忙しない呼吸音。まるで真夏に日差しを避ける場所もなく、直射日光を浴びながらぐったりしている犬を彷彿とさせるそれに、自然と眉間に皺が寄った。
凪が部屋を借りているこの宿に、確か飼い犬はいなかったはずだ。そもそもこの世界の獣人が動物をペットとして飼うのだろうかと疑問もあるし、少なくとも今のところそんな様子は目にしていない。
飼い犬を連れた犬の獣人、なんて想像すると割りとシュールだ。凪の唯一の知り合いの犬の獣人は冒険者ギルドのアミだが、彼女は何かペットを飼っているのだろうか。
次に会う機会があれば聞いてみようと心に決めて、いつまでも耳元で止まないあらぶる呼吸に嘆息した。
「・・・帰って来たの、ラルゴ」
「あ、あ・・・っ、なんとか、なっ、ったく、ほ・・・とに、疲れ、た」
枕に顔を置いたまま向きだけ変えれば、ぜひゅーぜひゅーと必死に酸素を吸い込んで二酸化炭素を吐き出す龍の姿。
地黒の肌は紅潮し、額から汗が絶え間なく滲み出る。どうやら体中に汗を掻いてるらしく、手を付いた場所もじわりとしみが出来ていた。
寝起きでぼんやりとしていた視界がゆっくりと定まってくると、熱い吐息が吹きかかる距離にじんわりと眉間に皺が刻まれる。
これはあれだ。
「ラルゴ」
「ん?」
「変質者みたいでちょっと嫌」
「はぁっ!?そりゃないぜ、お嬢」
「お風呂入ってきたら?傷の手当、するから」
「手当て・・・お嬢の手当て・・・ん、わかった!風呂行ってくる!」
手当てと聞いて何を思い浮かべたのか、太い尻尾を音を立てて持ち上げたラルゴは、にかっと笑うと風呂場に続くドアに向かった。
スキップしそうな勢いで機嫌がいい。カーテンから漏れる薄い光でも認識できる程度に切り傷やかすり傷があったようだが痛みは感じてないようだ。
運動神経が鈍い凪は、大きな怪我を負うことはないものの、普通に生活していても割りと小さな生傷は絶えない。
経験上、ああいった傷が地味にじくじく痛みを訴えると思うのだが、ラルゴは欠片も気にしている様子がなかった。
龍ともなると痛覚のあり方も違うのだろうかと疑問を抱きつつ、腕立ての要領でうつ伏せにしていた状態を持ち上げる。
勿論、非力な凪に腕立ては一回も出来やしないので、膝を曲げて四つんばいになって足の力も使った。
それだけで微妙に疲れて脱力感も覚えるのだから、本当に大概だと自分でも思う。
このままもう一度ベッドに突っ伏して寝てしまおうか。
眠い、眠いと額を枕に押し当てて、小さく欠伸を噛み殺す。布団から漂う甘い誘惑にぐらぐらと暫く理性を揺らしていると、間もなく選択肢が削られた。
「お嬢!上がった!」
「・・・早いね」
「そうか?普通だろ。それより傷の手当、痛くて痛くて倒れそうだ」
「・・・・・・・・・」
嘘くさい。黙っていれば整っている顔を怪しいまでに崩した龍は、大袈裟に小指の先ほどの小さな傷を摩った。
しかし軽く羽織った半袖から伸びている右腕に走る傷の方が余程痛そうだ。
引っかき傷だろうか。巨漢の龍の腕に走るみみず腫れは、実に凪の二の腕程度の長さを保っている。
普通ならあれを痛がるはずなのに、何故顔の傷を強調するのか。
軽く呆れながらも、本人が平気そうなら別に構わないかと首を振った。
冒険者、なんて生業をしているラルゴと違い、凪はどこまでも一般人。傷の手当と言っても応急処置すら的確に出来る自信はない。
自分の手当ては手抜きになりがちだし、武道を嗜む幼馴染たちは気がつけば凪の手を借りるような大きな怪我はしなくなっていた。
医者でも看護師でもない凪には怪我の良し悪しなど深い意味でわからないが、経験豊かなラルゴは違うだろう。
「顔と、腕と、他には傷はない?」
「あー・・・っと」
「正直に答えて。必要なら病院に行こう。ああ、でもこの世界に病院はあるの?」
「『ビョーイン』は知らねぇけど治療院ならあるぜ。怪我とか病気を治すとこのことを聞いてんだよな?」
「うん」
「なんだ、お嬢怪我でもしたのか?見せてみろ」
デレデレと崩れた表情から、一気に真剣みを増したラルゴは、凪の腕を軽く引いた。
それだけで危うく顔面から床に落ちそうになるのを支えてもらい、床との顔面キスをなんとか回避しつつ近くにある金色の瞳を至近距離で覗きこんだ。
「いや、怪我をしたのは私じゃなくてラルゴでしょ。言っておくけど、私は応急手当も満足に出来る人間じゃないよ。小さな傷の手当はしたことあるけど、骨折や刺し傷は適切な治療は出来ない」
「俺は骨折も刺し傷もないぞ?」
「───隠してない?」
「ああ」
「嘘はついてない?神に誓える?」
「いや、神には誓えないな。最近になって神様とやらに見返りを求めるのは止めたから。けど・・・ありがと、な」
ぽり、と指先で頬を掻いたラルゴは、普段の良くわからないテンションではなく素直に照れているらしい。
短い付き合いの中で色々な表情を豊かに見せてくれる彼にしても珍しいものだ。
感謝されるどころか、『神様を信じない』発言を軽くしたラルゴの不心神を煽った元凶そのものなのに、変な龍だと思う。
けど、彼が変な龍でよかった。嘘をつかないと『神様に誓わない』からこそ、ラルゴを信じられる。
へそ曲がりで天邪鬼な考えだけど、笑ってしまうくらいの本音だった。
何しろあちらの世界では基本無神論者だった凪に強制的に神様の存在を認めさせた存在は、無防備に信望するには恐ろしすぎた。
あるいは人が神に対して過剰な期待をし過ぎるが故にそう感じるのかもしれないが、あれだけ一方的に好き放題殴られボコられ罵られた上で尊敬していたらただのMだろう。
「ところで」
「ん?」
「全然話は変わるんだけどガーヴはどこに居るの?昨日から姿を見ないんだけど」
「・・・チッ、気付いたか。忘れてていいのに」
「いや普通に気付くでしょう、一日待っても戻ってこないし」
斜め後ろ方向に顔を向けて舌打ちした姿に、思わず突っ込んだ。一応言い訳しておくと、宿に戻った時点でいないのは気付いていた。
ただもしかして出かけてるか、あるいはこの短期で冒険者としての仕事に付いたのかとラルゴに後で話を確認しようと思っていたら、彼が飛ばされたのだ。
一緒に持ち込んでいたガーヴ専用の武器もなかったし、平然とした様子を崩さないラルゴの態度から大事ではないと判断していたが、ひょっとするともう少し早く確認すべきだったろうか。
じとりとした眼差しで無言の訴えを続けていると、片手で凪を支えたまま降参するように空いてる手を上げた。
『後で案内する』と心なしか不貞腐れて告げた龍を見る限り、無事ではあるようだ。
しっかり面倒が見れないのに何かと拾うべきじゃないとつくづく反省しつつ、こればかりは流されないようにしっかりと約束を交わした。