4:一つ目の街
漸く見えてきた街の姿に、うっすらと涙が浮かぶ。
少しばかり薄汚れた白石を積み上げて出来た城壁は、今や天国への門に見えた。
遠目に見える門番たちも、凪にとっては天使に等しい。
力尽きそうになる身体を叱咤して、比喩でなく足を引き摺りながらゆっくりと歩く。
肉刺が出来て潰れて血が滲む爪先だって気にならない、ただ漸く着いたと沸き起こる歓喜が全身を支配した。
「あれが、ダラン」
ぜいぜいと呼吸を拒もうとする喉を必死で叱咤し、マントすら重圧と感じる身体を気力で支える。
杖代わりにしていた木の棒に縋りつかねば立てぬほど、凪は心底消耗していた。
「おい、お嬢、本気で大丈夫か?」
「だい、じょぶ、です」
「いやいやいや、大丈夫じゃないだろ。大丈夫かって聞いたの俺だけど。あんた筋肉だけじゃなく体力もねえんだもんな」
手がすり抜けるのを知っているくせに、いつでも支えられるようにと隣に並んだラルゴを、腰を曲げて棒に捕まってるため、いつもより低い位置から見上げる。
ヒッヒッフーとまるで妊婦のような呼吸をする凪に、心配だと顔を顰める彼は、霞む視界の先で緩く首を振った。
ラルゴが三日と言った旅路を、精一杯努力したにもかかわらず、凪は五日もかけて歩いた。
現代っ子であり、自ら運動神経がゼロと自覚する凪にとって、この五日はまさしく試練だった。
一時間の山道ですら秀介や桜子の手を借りて漸く上りきったのに、舗装されてない道をローファーで靴擦れを堪えながら歩くのはきつかった。
木の根や石に躓いてこけること両手では足りず、あちこち打ち身や切り傷が出来ている。
しかも傷の手当をしようにもラルゴは応急処置程度の薬草は持っていても、絆創膏や消毒液などあるはずもない。
癒し関係の術も使えないと情けなく眉を下げて謝る彼に、こちらこそとろくて申し訳ないと、汗まみれになって謝罪したのは初日の夜だった。
この一日で意思を持たない干渉は有効だと嫌になるほど自覚させられ、もっと別の加護がよかったと疲れすぎて冴える頭で呻ったが、それをしても解決策は一向にない。
目の前でどんどん傷ついていく凪に比例して何故か落ち込むラルゴを慰めつつ、彼がせっせと与える回復の効果がある薬草を限りある食料と共に頂戴した。
どうやら凪が傷つくのを見ていられないらしいが、その効果がなくとも異常に傷が癒えるのが早いと気がついた。
何故、と考え、突き当たった推測に、じとりと眉根を寄せたのは二日目の昼。
もじもじと顔を赤らめてそわそわするラルゴを訝しげに問い詰め、『小用だ!』と叫んだ姿を見送りながら思ったのだ。
そういえば、この世界に来てから排泄行為をしたいと思わなくなったと。
数日かけて検証した結果、凪は排泄をしなくていい体質になり、食事は傷ついた箇所を癒すためのエネルギーとして使われているらしい。
普段ならラルゴから与えられた、彼の掌サイズのパンなど三分の一も食べれないだろうに、一個まるまる平らげた上に、さらに薬草を煎じたらしいお茶もおかわりした。
遠慮なく食べ続け、『排泄はしないのに食事は摂るんだな』と、悪気なく呟かれた一言は、何となく居た堪れなかったけれど。
ともかく一日で負った傷は深いものはなく、基本的に翌朝目覚めれば回復していた。
身体を癒すためか眠りも深くなり、以前なら目覚まし時計なしでも目が覚めたのに、今はラルゴの声がなければ中々目覚めれない。
もっともそれも今日、明日までだ。
目の前には大陸の首都があり、そこには柔らかなベッドやお風呂もある宿屋もあるらしい。
旅をする際に身体を綺麗にする専用の用具もあるらしいが、ラルゴは男らしく川があれば飛び込み、なければ適当に水で濡らした布で拭くか、二、三日なら気にしない、というタイプだったので、風呂の存在は喉から手が出るほど望んだものだ。
日本とは違うだろうが、それでも何でもいいから汗を流したかった。
「俺が抱いていければ早くつけたんだがよ、生憎すり抜けちまうからな」
「・・・お、そくなって、ごめ、ん」
「そこは気にしてねえけど、あんたが辛そうなのがきつい。まあ、でもあと少しだからよ。───俺が渡した腕輪、ちゃんと身につけたか?」
「は、い」
ひゅーひゅーと喉を鳴らしながら頷くと、よしよしと瞳を細めて頷く。
頭を撫でようとしたのか手を伸ばし、空中で止めて拳を握った。
五日間一緒にいて気がついたけれど、ラルゴは存外にスキンシップが好きなようだ。
見た目は厳つくて強面でも、典型的な子供好きなのかもしれない。
自分が年齢より下に見られる傾向が強いことを自覚してる凪は、漸く整い始めた息に、身体の筋を伸ばす。
手首にはラルゴから渡された、猫科の種族に見える腕輪に触れた。
銀色のチェーンが連ねられたそれは、涙滴型の水色がかった半透明な宝石が装飾されている。
女物にするにはごつく、本来はラルゴ用なのだそうだ。
こちらの世界で龍族は絶対的に数が少ないらしく、以前たまたま出くわした龍族の女たちにしつこいくらいに言い寄られ、その手段があまりに酷かったので知り合いに作ってもらったらしい。
これをつければ人間である凪にも猫耳と尻尾が現れ、本来の種族を幻術で上書き出来るとのこと。
実際細くて白い尻尾が視界に揺れ、触れたら頭の上に耳があった。
感触まで再現するのは余程腕のいい魔法使いなのだろうし、この腕輪の価値も凪が思うより上だろう。
けれど『人間の女』と知れたときの周囲の反応が判らないと諭すラルゴに、あえて外す勇気はなかった。
スカートの下で蠢く尻尾は少しばかり鬱陶しくても、いきなり注目を集めたりするよりマシだ。
「あ、顔はフードを被って隠せよ。お嬢は目立つから」
「うん」
「あと街では絶対俺から離れないこと。幾ら治安がいいって言っても目が届かない場所もあるし、広いからすぐに迷子になる」
「うん」
「いいか、絶対に俺から離れるなよ?そうだ、服の端を持っててくれ。俺から触れなくても、お嬢からなら触れるだろ」
「うん」
幼稚園児に言い聞かせる過保護な先生のようにくどくどと続ける彼の言葉に、一つ一つ頷いていく。
基礎知識はあってもこの世界は未知の世界だ。
さらに暫くここ数日で幾度も繰り返した応答を続け満足したらしい彼は、じゃあ行くか、と凪に服の端を掴ませた。
「その棒、いい加減に捨てろ。俺に体重掛けとけ」
「・・・重いよ」
「お嬢が重いわけねえだろうが。ほれ、さっさとしな」
「・・・うん」
何処から来た自信か知れないが、きっぱりと言い切ってラルゴは笑った。
人は見かけによらないと知らないのだろうか。
凪の場合は見た目どおりに貧弱で軽いが、彼が人に騙されないか少しだけ心配になる。
握っていた棒を手放し、代わりにラルゴの簡素な鎧からはみ出た元は白かったのだろうシャツを握りこむ。
途端にぱあっと顔を輝かせた彼に首を傾げつつ、誘われるままに目の前に見える初めての街への一歩を踏み出した。