21:現実は割とファンキーだ その3
にっこりと笑顔のまま反論を許さぬ麗人を前に、ひやりと汗が滲み出る。これが噂の冷や汗というものだろうか。
有無を言わせない空気が肌をぴりぴりと刺激して痛みすら感じるようである。
悪いことは何もしてないのに、そっと視線が彷徨った。こういうとき頼りになるはずのラルゴは、焦り過ぎているのか風呂場で大きな音を立てて中々出てこない。
『あいた!』とか、『あー!』とか、『下着がねぇ!?』とか、若干突っ込みたくなる奇声を上げていた。
役立たず。ちらりと脳裏を過ぎった言葉を責めないで頂きたい。誰だって同じ状況に置かれれば、身代わりが欲しくなるだろう。
前門にはにこりと艶やかな笑顔を浮かべた、見惚れんばかりの麗しい美女───と紛うばかりの狐の美青年。
後門には近すぎる所為でほとんど表情が読めないが、何とか認識できる口角の釣り上がり方から、おそらくニヤニヤといつもどおりの意地が悪い笑みを浮かべてるだろう異界の神様。
空気のように透明になって逃げ出したいと願うものの、がっちりと腰に回された腕が自由を許してくれるはずもなく、さり気無くもがいても文字通りの無駄な抵抗でしかなかった。
挙句の果てに、ウィルに掴まれた状態で抗えば抗うほど、いつの間にか手が届きそうな距離に立っていたリュールの微笑みが深くなる。
「・・・ナギ様?お答えくださらないのですか?」
「だってよ、凪。どうする?俺とお前の関係、教えてやらねぇのか?」
「誤解されそうな言い方、止めてください」
「ああ、やはりナギ様に付き纏う蛆虫なんですね?私が知りうる誰よりも愛らしく可憐な存在です。艶やかに芳しく咲き誇る華に虫が寄るのは無理がない話。ですが、華が萎れる前に、いいえ、害される前にさっさと駆逐しなくては」
「なんだ。案外話が通じるな、お前。確かに凪は可愛すぎるのが唯一の欠点なんだよな。払っても払ってもすーぐ虫が寄ってくる。そのくせ本人は変なところで鈍いし、自分がどれだけ可愛いかってのも自覚してないし・・・一人にさせたらすぐに食われちまうぜ、絶対。いいか、凪。男は全員獣だ。何かあったら容赦なく急所を蹴り上げろ」
「そう、急所を蹴り上げてしまいなさいなナギ様。気色悪い感触があるかもしれませんが、力が弱い婦女子にも可能な有効な手段ですよ」
「そうだぜ、凪。いざとなったら遠慮なくやっちまえ」
耳で拾うだけなら、前者と後者の会話は滑らかに繋がっているような気もするが、間に挟まれた凪は否応なしに空気を読まされて気付いている。
笑顔のまま夜叉を背負ったリュールは、明らかに凪を抱きしめたままのウィルを指して断言していた。
完全にすれ違う会話に気付いているのか、いないのか。おそらく彼にはどうでもいいのだろう。
視線が完全に床に向く。居た堪れない空気が辛い。多少露出が激しくても許すから早く出てきてラルゴと祈ってみるが、こんな願いを神様が聞いてくれるはずもない。
悲しいことに、この世界の誰よりも骨身に染みて凪が一番理解してる内容だった。
「いいですか、ナギ様。嘆かわしいですが麗しい華に惑わされる虫は世の中に数多く存在します。柔らかで華奢な花弁も、あわやかで慎ましい佇まいも、甘やかで惹き付けられる香りもナギ様の魅力の一つです」
「・・・・・・」
「しかし愛らしいだけでは無粋な輩は撥ねつけられません。綺麗な花には棘がある。自衛をする手段を持ち得なくては、いざという時に困るのはナギ様ですよ」
「こいつの言う通りだぞ?不埒な男は踏みつける───いいや、踏み躙るくらいで丁度いい。二度と立ち上がれないくらいに手酷く振ってやれ。手始めはあの龍でいいな、木っ端微塵にダメージを与えるのに力を貸すぞ」
リュールの過大評価に、照れるより先に呆れが来る。
どこをどう見たら凪をそんな風に表現できるのだろうか。女性を『花』に例えるのは珍しくなくとも、ここまで美辞麗句を並べ立てられるとむしろ心苦しくなってしまう。
しかし恐縮する凪とは正反対に、背後でぴったりとくっついているウィルは機嫌よく頷いていた。
ひやりと室内の温度が下がった気がする。どれだけ獣人の神経を逆撫でするのが上手いのだろうと、眉間に皺が刻まれた。
「・・・ならば是非力を貸していただきましょうか」
低い、否、低過ぎる声が耳を打つ。一瞬誰の声かわからなかった。そして勝手に脳みそが悟ってしまう現実もわからないふりをしていたかった。
だがこの部屋には今のところ、未だに風呂場で騒いでいる龍以外に、自分を除けば二人しか居ない。否応なしに消去法を当てはめざるを得なく、ゆっくりと顔を持ち上げれば、瞳の色を濃くしたリュールとばっちりと視線が絡んだ。
まさしく狐に睨まれた蛙。折りよくリュールは本物の狐だし、この世界に蛙の獣人なんているのかなと、思考が軽く現実逃避し始める。
笑っているのに笑っていない。笑顔ってこんなに恐怖を煽るものだったんだと実感しつつ、無意識の内に愛想笑いが浮かんでいた。
引きつる笑みを浮かべた凪に、安心させるよう一つ頷いたリュールは、角度によって光を反射する細い糸を握りなおす。
よく見てみれば先端に小さな輪っかがあって、そこに指を入れて糸を操っているようだった。
「糸使いか。また珍しい武器を選んだものだな」
「技術は要しますが持ち運びには便利なんですよ。この糸は特別製で岩も簡単に切り裂けます」
「岩も切り裂けるのは糸が特別なだけじゃなく、使い手の技術も秀でているからだろう?大したものだ」
「お褒めに預かり光栄ですよ。この切れ味を味わってみますか?」
舞を舞うような優雅な動きだったが、気がつけばすぐ横にある神の首にはしっかりと糸が巻かれていた。
ラルゴの動きにすら付いていけたのに、糸がどうやってウィルの首に巻きついたのか目で追うことができなかった。
それはおそらく、スピードもさることながら、可視するには糸が細すぎた所為でもあるだろう。
以前時代劇に出てくる登場人物が糸を使って世の中の悪にお仕置きしていたが、まさか本当に実在するとは知らなかった。
しかもあちらは締め付けるだけだったのに、こちらの糸は先ほどラルゴにも告げていたように肉体も切り落とせるらしい。
もしかして骨を絶つことも可能なのだろうか。だとしたら見た目と違い随分と強力な武器なんだなと、無表情で眼前の凶器から視線が放せずに硬直していると、ウィルがくつりと機嫌よく喉を鳴らして笑った。
「そういう短気なところ、お前はあいつに似てるな」
「・・・あいつとは、姉上のことですか?もしやあなたは私に放たれた追っ手で、ナギ様を獣人質にしているとでも?」
「麗しく大人しそうな見た目や穏やかな雰囲気と相反して短気。日頃は押さえていても、実は喜怒哀楽に非常に波がある激情家」
「───姉上は短気でも激情家でもありませんよ。冷静に局番を見て自らが進む道を選んでいらっしゃる、素晴らしいお方です」
「俺が言ってんのはそいつじゃない。遥か昔、狐の一族にまだ『白』が生まれていなかった頃、金色にも見える鮮やかな毛並みの仲睦まじい、それ故に悲劇を生んだ姉弟が存在した。お前は───姉のほうに性格がそっくりだ」
何気なく告げられた言葉に、リュールはひゅっと息を飲み込む。聡い彼は、これだけで目の前の不審な男が誰を指して語っているか、気付いたのだろう。
何か変わったことをしたように感じなかったけど、ウィルの首に巻かれていた糸が手品のように解けて落ちた。
完全に捉えたと確信していたのだろう。力を失って落ちた糸の行方に、リュールは更に驚きの表情を浮かべる。
落ちた場所は、ベッドの上。それもただのベッドではなく、凪とウィルの身体を通したその下に、力なく垂れている。
どういう事だと混乱と警戒を交えた眼差しでこちらを見詰める彼は、けれど武器を構えたりしなかった。
「そうそう、大人しくしておけ。凪に触れるかもしれない状況で二度も武器を向けられたら、温厚な俺でも我慢しない。一度目はお前の先祖との約束で見逃してやったけど、気紛れが何度も続くと思うなよ。なー、凪」
「だから一々私も交えてひと括り、みたいな語り方やめてもらえますか」
とりあえず、珍しくもウィルが寛大な部分を見せてくれたのに内心でほっと胸を撫で下ろす。
これが小学生並に犬猿の仲を繰り広げているラルゴが相手なら、とうに血を見る騒ぎになっていただろう。
得たいの知れない生物を眺めるようなリュールの眼差しは、凪ではなくウィルに注がれていた。
構えていないものの、武器から手が離れることもなく、警戒心が解かれたわけじゃないのも伝わってくる。
しかしそこでも空気を読まない神様は、踊るような口調で楽しげに続けた。
「こんなもん、俺にも凪にも利かねぇな。俺たちをなんだと思ってるんだ?」
「あの、ひと括りにされるの嫌なんですけど」
「俺たちは、誰にも解かれぬもので結ばれているんだぜ?」
「だから、ひと括りは・・・はぁ」
「いいか、教えてやる。俺たちはな」
もう突っ込むのにも面倒になって最後はため息になる凪とは違い、ウィルのテンションは何故か上がっている。
何がそんなに楽しいのだろうか。すっぽりと腕の中に収めていた凪を、ぎゅっと痛みを感じない程度の強さで抱きしめた。
「なんと俺たちは相思相愛だ」
「なんでやねん」
この状況で一切合財空気を読まずに行った突込みを、凪は後にこう語る。
人は予想以上のプレッシャーに長時間曝され続けた場合、押さえ込まれた抑圧が弾けて、思いがけない全力の突っ込みに変換されるものなのだと。
ちなみにこの凪の訴えは、凪を尊重してくれる幼馴染をはじめ、ほとんどの相手に同意を得ることができなかったものの、ぽんぽんと肩を叩いて同情してくれる獣人は幾人かいて、それならもっとまったりした生活をおくらせて欲しいと嘆息するのは、今よりももっと先の話だった。