21:現実は割とファンキーだ その2
これはもう人生で何度目になる恐怖体験だろうか。人ってここまで様変わりするんだと、呆然とした頭のどこかで考える。
細く白い腕は相変わらずラルゴを片手で吊るし上げ、苦しそうにもがく龍は尻尾をゆらりと一度揺らした。
開いた口が塞がらない状況だ。何しろ、凪はラルゴが身体的能力ではこの世界でも上位のヒエラルキーにいると考えていたからこそ、あまり怪力にも見えないリュールの思いもかけない攻撃に戸惑っている。
何かあったときに盾にするつもりで、ウィルの汚れ知らずの白い衣服をぐっと握り締めた。
「任せろ、俺は最強だ」
「それはそうでしょうとも」
この世界の神様なのに、最弱だったら嫌過ぎる。
裾を握りこんだだけでへにゃりと情けないまでに麗し過ぎる顔を崩したウィルは、癖になった仕草で凪の頭に顎を乗せてぐりぐりと動かす。
地味に与えられる頭皮へのダメージをため息を殺して堪えつつ、意識を敢えて逸らしていた二人に戻した。
「覚えておりますとも、ええ、忘れようがありません。あなたのその粗野な仕草に乱暴な口調、助平な眼差しに動きの早い手」
「おいおいおい、ちょっと待て!そんなこと言ったらお嬢が俺を勘違いするだろ!?」
「勘違い?勘違いなんて温い記憶はありませんね。あなた、姉上にも粉をかけていたでしょう?よく覚えておりますとも。他国出身の傭兵上がりの冒険者が護衛役として雇われた際、あまりにもしつこいと苦心なさったので『影』の私が表に出たんですから。ことあるごとにやれ『美しい』だの、『麗しい』だの情緒のない言葉を雨あられと降らしてくださいましたよね、『男』の『私』に」
「へぇ・・・」
「ち、違うぞ、お嬢!誤解だ!」
リュールの細腕を、ラルゴは軽く振り払った。
あまりの体格さ故に折れてしまったんじゃないだろうかと不吉な予感が脳裏を過ぎったが、反して彼は平然としていた。
どうやら腕が当たる前に自らラルゴを拘束している手を解いていたようだ。
慌てふためくラルゴの様子を酷く冷めた眼差しで睥睨し、酷薄な唇を開く。
凪の前では穏やかで柔らかかった声音が、龍の前ではツンドラ並みに冷えていた。
「どこに誤解があるのです?夜も更けた頃に気配を殺して人の寝床まで入り込もうとした愚か者はどこのどちら様でしたか?」
「いい女を口説くのは男の勤めだと思ってたんだよ、あの頃は!本気で嫌がる女相手に端からどうこうしようなんて考えちゃいなかったし、酒の相手でもしてもらえりゃいいな程度の浅い思いつきだぞ!?それを寝込みを襲われたと勘違いしたえらく『別嬪な野郎』に鋼糸で首絞められるし、ついでにあばらも二本折られ無抵抗なのに散々っぱら罵られ、男と女を勘違いして襲ったなんて情けない一生もんの弱みを握られて踏んだり蹴ったりだ。あれから美人を見ても『男』かもしれないと思って暫くの間軽くトラウマになったんだからな!」
「自業自得でしょう」
緋色の瞳を細めて呆気なく流したリュールの言葉に、思わず頷いてしまう。
必死に訴えるラルゴの言い分もなんとなくわからないでもないが、つまるところ夜這いして返り討ちにあった挙句、夜這い相手の美人が男。
凪の審判では、殴るか蹴るの暴行と罵倒を繰り出されても正当防衛だろう。
凪だって深夜親しくもない男が部屋にいたらなんらかの行動を起こす。撃退できないまでも抵抗はするはずだ。
たまたまリュールには相手を叩きのめすだけの力があって、たまたまラルゴが油断し過ぎていただけだ。
まあ現場を見てないのでどうとも言えないけれど、こういう時に常日頃の行動の結果が付いて回る。
優しく凛とした空気を持つ上品で淑やかなリュールと、兄貴肌だが笊の目が粗く下品と言わずとも羞恥心の在り処を尋ねたくなるようなラルゴ。
付き合いの長さで行けば龍の方に一日の長があるのに、だからこそ余計に狐の美青年の言葉を信じてしまう自分は、程よくラルゴと親しくなれたのだろう。
「そもそもお嬢お嬢と繰り返していらっしゃいますが、どなたのことをさしているのです。もしかしてナギ様ですか?ナギ様に向かって『お嬢』などと蓮葉な呼びかけをされているのですか?」
「蓮葉・・・」
今時時代劇でも聞かないような表現に、思わずぼそりと口が復唱していた。
凪には蓮葉より蓮っ葉の言葉の方が耳に馴染みがあるけれど、なんとなく女性に使われるイメージが固定されていたので違和感が沸く。
しかし意味的には別に女性の修飾語でもあるまいし、この使い方もありなのかと変な感心の仕方をした。
「あなた、確か私の国では座敷に芸者を連日呼び出して乱痴気騒ぎをしていましたよね?」
「───っ!!?ちょ、待て!お嬢の前でなんつうことを言うんだ!?」
「見てろ、凪。男はみんな野生の狼だ。これからはあの理性と本能が直結している駄龍には気を許すなよ」
「テメェも余計なことを言うな!そもそも俺は『龍』で『狼』じゃねぇ!」
「例えだ、例え。無知で無恥で無智なお前に教えてやるが、凪の世界じゃ男を『狼』に例えるんだ。あー、可哀想だな、凪と常識を共有できないってのは」
「常識を共有できなくても時間は共有できるからいいんだよ!そもそも無知なんて『同じ言葉』を三回繰り返すテメェのが無知なんじゃねえのか!!」
絶妙にリュールの身体で下半身を隠したラルゴ───いや、もしかしたらリュールが気を遣って下半身が目に入らないようにしてくれているのかもしれない───は、金目をぎらぎらと光らせて地団太踏みならウィルを指差す。
どうせ口喧嘩でウィルに勝てたためしはないのに、何故こうも言い返さずにはいられないのだろうか。
それより先に服を着なくては風邪を引くんじゃないのかと、頭から湯気を出しそうな勢いで抗議している。
「ラルゴ。あなた、それ以上は口を噤んだ方が宜しいですよ。恥の上塗りをしていますから」
「あぁん?」
「それと、早く服を身につけなさい。ナギ様の手前実力行使に出るのは控えておりましたが、これ以上不浄のものを見せ付けるようでしたら『切り落とし』ます」
町で見かける不良みたいに言葉尻を持ち上げて下から覗き込んだラルゴの威嚇も軽くいなして、にこりと極上の笑顔を浮かべた。けれど背中にはただならぬオーラを背負っている。
獣人の印象が覆されるのって案外あっという間だなとぼんやりとしながら、焦って浴室に姿を消したラルゴを眺めた。
扉が閉まる音が響いて彼の姿が完全に消えたあと、麗しの狐が振り返って首を傾げる。
そして一筆書きしたような眉をひっそりと顰め、艶やかな唇を持ち上げた。
なんだかよくわからないけれど、深く落ち込んでいた状態からは抜け出してくれたらしい。
美人は泣いていても美人だったが、リュールは笑っている方が似合うし嬉しい限りだ。
完全に心の闇を晴らすには時間が必要だろう。しかしラルゴのお陰で少しでも憂いとついでに鬱憤と鬱屈が晴れたなら、丁度良かった。
何しろ今までの短いながらも密接した付き合いの中で見たラルゴの打たれ強さは折り紙つきで、精神的にも肉体的にもこの程度では揺らがない。
しかもムードメイカーとして雰囲気を変える独特の空気を持つ彼は、哀しげだったリュールに怒りを使って元気をくれた。
怒るって作業は実はとても健全で力が要る行為だ。怒りをエネルギーに変換するのは一時しのぎで、またふとした瞬間に淋しさや悲しみが襲うのだろうとわかっていても、何週間も食と住まいを提供してくれた恩人が元気な姿を見せてくれるだけで安心する。
「ところでナギ様」
「はい」
「そちらの男性はどこのどなたでしょうか?」
小首を傾げた拍子にキューティクルに満ちた月白の髪がさらりと肩から流れ落ちる。
二人が傍近くにいると、同じ白に分類されてもやはり違う色味だと実感できた。
それは『赤い瞳』に関しても同じで、ウィルとリュールの色は似て非なるものだと改めて実感する。
なんて、現実逃避気味に考えたものの、目の前の狐の今まで知らなかった物騒な空気に誤魔化す方法を思いつけない。
いつの間にか両手の指に引っ掛けるような、目を凝らしてようやく見える細い糸の存在が凪の自称細やかな神経を圧迫した。
敢えて見せ付けているような気がするのは、気のせいだろうか。
きっと気のせいのはずだ。何故なら凪が知る『白狐のリュール』は、穏やかで淑やかで大人しく女性の見本となるような粛々とした雰囲気の獣人で、あんな笑顔で遠回しに脅迫するような存在じゃなかった。
「私、個人的には暴力を好まないのですけれど、女性に無理強いする男性が相手ならば話は別です。害虫以下の存在は早めに駆除するに限りますから」
「駆除・・・」
「さあ、教えてくださいませ。ナギ様を膝に乗せていらっしゃるそちらの男性は、どのような理由と根拠に基づき、心なしか脅えた様子のナギ様を抱えていらっしゃるのでしょうか」
脅えてるのはあなたの豹変の所為ですよ、なんてとてもじゃないけど口に出来ない。
めっきりと笑っていない瞳に、乾いた笑いを虚ろに零すと、背中の神様と前面の狐の無駄に緊迫した雰囲気に面倒なとため息を飲み込んだ。