21:現実は割とファンキーだ
毎度のパターンだが、瞬きする間に景色は変わっていた。
どこか懐かしい郷愁を感じさせる和風の建築物は姿を消し、気がつけばダランで見慣れた宿屋の一室のベッドの上に腰を掛けている。
しかし柔らかくてバネが利いたベッドの感触は直接伝わってこない。男の───と神様を表現していいのか微妙だが───硬い筋肉を太腿の下に敷いたまま、うんざりとため息を吐いた。
持ち主なんて考えるまでもない。腰に腕を伸ばしてぬいぐるみのように凪を抱きしめる相手など、思いつくのは一人だけだ。
「・・・すみません、苦しいんですけど」
「おう、大丈夫だ」
「何を持ってしてあなたが大丈夫と断言するのか、意味がわかりません」
「まあ、俺だからな」
「・・・・・・」
相変わらず、俺様、何様、神様一直線のウィルに、もう一度深く深くため息を吐く。
目の前でほろほろと涙を零す麗人の姿があっても、彼の世界には凪一人しか映っていないらしい。
床に直接座り込んだリュールは、虚空を見詰めてただただ涙を零し続ける。
まるで泣いている本人は自分が泣いてることにすら気付いていないんじゃないだろうかと、そう思わせるくらい、無表情で大粒の雫を流し続けた。
綺麗に尖った顎を伝って、艶やかな着物に染みが出来ていく。
無意識なのだろうか。ウィルとよく似ていて、傍に居るとまったく違うとわかる、白い髪の、ひと房だけ編みこまれた三つ編みをずっと指先で弄っていた。
頭の天辺にぐりぐりと押し付けられる顎の感触に、将来毛が薄くなったらこいつの所為だと決め付けながら、黙って目の前の美しい狐を眺める。
静かな時間が流れた。この部屋のカーテンは二重構造になっていて、普通のものの下に薄手のレースのものが使用されている。
零れる日差しから察するに、おそらくサーヴェルにいた頃からそんなに経っていない。神様スペックというべきか、ウィルに転移されると時間の概念なく長距離移動できるらしい。
以前国民的某アニメでワープの説明をしていたが、あれは長距離の空間を捻じ曲げて短くしてつなげていると言っていたけど、彼の扱う力はそれと同じものなのだろうか。
考えても詮無い、答えを求めていない疑問を暇つぶしにして、ひたすらリュールが動くのをずっと待っていた。
「この結い紐は」
ごろごろと喉を鳴らす猫みたいに機嫌がいいウィルが首筋に懐き倒してくるのを片手でガードしつつ、ようやく何かを話す気になったらしいリュールを見詰めた。
長くて細い、男性なのに白魚のとつけたくなるような綺麗な形の指は、自らの髪につけた、紫と赤を基準としてグラデーションを描く二本の結い紐に触れる。
「姉上がてづから私に作ってくださったものです。執務でお忙しい時間を割いて、裁縫に関してはとても不器用であらせられるのに、一本一本ご自身が選んだ紐を組み合わせて、私のために作ってくださった。だから私も、同じように、姉上のために結い紐を作りました。───見た目が違うといけないからと、互いに二本作った内の一本を交換して、何があっても絆が解けないようにと、その証明として身につけていたんです」
おそらくリュールにとってのイリアは、唯一で最後の彼の家族だったのだろう。
傲慢で自分しか見ていない父親が大切な弟を必要以上に攻撃しないよう、彼の言葉の機先を制して上手く丸め込み、被害を最小限に留めた。
幼い頃は庇っていたのかもしれないが、あの分だと庇えば庇うほどリュールへの風当たりは強くなっていたのだろう。
幼くも賢い少女は、だからこそ手を変えて大切な弟を守ろうと全力で心を砕いた。
今回だってそうだ。姿を現した凪を『始祖』と崇めながらも、狐の一族にとって絶対的な存在だろう『九尾の白狐』相手に、連れて行くという言葉がたまらなくて、国主という立場も、自らの危険も省みず問いかけた。
それがどれだけ恐れ多い行為なんて、かの一族の実態を知らぬ凪には計り知れない。
イリアは凪が本当はどんな存在か知らない。実は始祖なんて関係ないただの一般市民であるのも、はったりを利かせるだけで震える小心者であるのも、あれがいんちきに近いやり口でこなしたビックマウスのようなものだとも知らない。
現れた伝説の存在に臆しながら、それでも弟が消える恐怖に全身を震わせて、必死の思いで真っ直ぐに瞳を向けてきた。
『弟』を、『連れて行ってしまうのか』と。
今にも泣きそうになりながら、ギリギリのところで必死で堪えて、大好きなものを我慢する子供みたいに拳を握って、腹の底から掠れる声を捻り出した。
彼女は特別に愛しく思うからこそリュールの手を放したのだ。
黄金の鳥かごに囲われたままでは、自由に飛び立てるはずの彼が空を見上げるばかりだと、胸に抱いた憧れに気付かぬ振りをして、自らを誤魔化して生きていくばかりだと、気づいていたから我慢した。
『魂吾じゃない』。そんな単純な台詞を吐きすてるだけで、国主としての英才教育を受けてきただろうイリアは、尻尾の逆立てるほど動揺していた。
こちらの世界では尻尾で感情を表すのは、子供じゃない限り恥ずかしいことだと常識が追加されている。
感情の制御に優れてるはずの、彼女の本心がそこに表れていた。
『奪われたくない』『置いていかないで欲しい』
胸を縛るのは魂吾を失って一人で生きていく未来で、哀しさと恐ろしさに身が包まれる。
けれど同時に『自由になれ』『好きに生きろ』と心から願うから、ぐるぐる巻きにして鎖で繋いでおきたい、どうしようもない感情を押し殺した。
『息災で』
最後に耳の届いたたった一言に万端の想いを篭めて、二度と会えない魂の片割れに今生の別れを囁いた。
月白の三つ編みに混じらせて幾重にも織り交ぜた結び紐に触れて、ほうっと吐息を零す。
ほろほろと涙は止まらない。寂しい、淋しいと泣いている。
本当に綺麗な泣き顔だった。泣いてることを意識してないからか、まるで一枚の絵画のようだ。
大の男が涙を零してるのに抱く感覚でもないだろうが、泣いても美人なんて凄いと感心してしまう。
「ナギ様・・・」
「え?」
「自分で選んだ人生なのに、どうしてこんなに哀しいのでしょう。胸に穴が開いたように物足りなくて、可笑しな気分です。魂吾なんて必要上呼んでいるだけだと、そう考えていたはずですのに」
不思議ですよね。呟いた彼の微笑みは、風が吹けば飛んでしまいそうなくらい儚げだった。
そして次いで現れた『暴風』は、どこかに飛んで行けと言いたくなる位空気を読んでいなかった。
「おっじょーう!お嬢お嬢お嬢!お帰り!やっと戻ってきたんだなぁ、俺、淋しかったんだぜー!!」
寝室と続きの扉をドバンとばかりに開けたのは、懐かしい───と言うほど離れていないけど───龍の人で、湯上り姿を隠すでもなく両手を広げて歓喜を表す。
元いた世界の学校の帰り道にいたりしたら、迷いなく110通報をする格好だ。本当に彼は羞恥心と縁遠いらしい。
たおやかで穏やかな風体のリュールと同じ性別とは思えない。どどどどっと勢い良く駆け寄ってくる全裸のラルゴに軽く引いていると、見知った相手が得体の知れない生物に変わった。
「お嬢ー!おじ───っぶはぁっ」
後一歩で凪までたどり着くというところで、何かに弾かれるようにラルゴらしき獣人は吹っ飛んでいった。
そのまま壁にぶち当たり、ずるずると背中から崩れ落ちる姿を見て、軽く瞳を眇めて首を振る。
しかし凪の瞳には、ダメージに呻いているラルゴの正確な様子は確認できなかった。
何故なら。
「何しやがるんだよ、このすっとこどっこい!」
途中からずっとヘリウムガスを吸ったような、テレビで機密事項に関わる質疑応答をするために音声さんに編集されたような声で叫んでいる彼は、見た目にもバッチリ編集されていたからだ。
顔と下半身にモザイクがかかった状態で蠢く姿は、まるきり動く卑猥物そのものだった。いや、もう露出狂の変質者の動向を生中継されてるみたいだ。
完全にシリアスな空気をぶち壊した龍は、おそらく自らの行為を邪魔したであろうウィルに向かって指を指してがなりたてる。
頭上で小学生のようにやり返すウィルの言葉も耳障りな音として右から左へと流していたら、不意に視界の端でゆらりと揺らめく影があった。
ふらふらしながらそれでも立ち上がった『彼』に、大丈夫かと思わず手を伸ばしかけたら、突然目にも止まらぬ素早い動きで移動を開始する。
唖然として行動を目で追うと、先ほどよりも数段五月蝿い音を立ててラルゴは再び壁に叩きつけられた。
あの巨体をほっそりとした片腕で持ち上げたリュールは、自らよりも背の高い彼を吊り上げるようにして首を押さえ込む。
三角の耳がぴんと咎って立ち上がり、一本一本が白く輝くような尻尾の毛もぶわりと毛羽立っていた。
そして初めてリュールが『男』なのだと、凪は実感する羽目になる。
「愛らしくも可憐で無防備なご婦人の前で見るに耐えない汚物を曝すなど、この、痴れ者が!」
常日頃の穏やかでいかにも大和撫子と称したくなる、淑やかな麗人はそこに居ない。
腹の底まで響く雷鳴のように轟いた恫喝に、美人が怒ると夜叉になるって本当なんだと、自分が怒られたわけでもないのに小さくなって震え上がった。