20:自由の中で不自由な獣 その10
サーヴェルのお昼はとても午睡に向いている。
縁側でまどろむ猫のように目を細めた凪は、引退したご隠居の如く正座して空を見上げる。
平和ボケした日本人と称されてもまったく気にならない。気分はどんだけ胴が長いんだと突っ込みたくなる状態で腹を見せて寝転ぶ猫だ。
人目──というか獣人目(?)が無ければどべんといい香りをさせる木の床にごろ寝するのだが、流石にこの上ない妖艶佳人がお隣で背筋を伸ばして微笑ましそうな表情を浮かべているところでは出来ない。
今日も今日とて秋色の着物を着こなしたリュールは、袂で口元をそっと覆い隠してころころと声を出した。
「ふふふ、ナギ様。小さなお口から愛らしい歯が覗いてしまっていますよ」
「・・・すみません」
「いいえ。とても可愛らしくて見惚れてしまいそうです。ナギ様は仕草の一つ一つを切り取って絵にしておきたいほど麗しく目にも眩いばかりですね」
「・・・・・・」
絵にとって置いておきたいのは、リュールのほうだ。完全無欠の美貌を持つ彼女にことあるごとに誉められるのはこの二週間と少しで早慣れつつあるが、耳が融けてしまいそうな甘言を良くそこまでと感心してしまう。
美辞麗句は明らかにリュールに向けて告げるべき内容ばかりで、ラルゴとは違う意味でキャラが立っているなとため息を喉奥で殺した。
キューティクルの行き届いた白月の髪を櫛で梳かした瞬間の手触りは、桜子と優劣付けれないくらいさらさらで、癖の強い凪からしたら羨ましい限りのものだ。
緋色の瞳はが細められる様は迫力があり過ぎて近寄り難い気配を醸し出すものの、本人はいたって穏健で温和でいい意味でギャップがある。
黙っていればシャープで怜悧な雰囲気でも、あの金髪碧眼見た目は王子様の虎より全然性格はいい。
二人並べば画家がこぞって並ぶくらいに大層絵になるカップルになりそうだが、どちらかというとおっとりした彼女にゼントを薦めるほど恩知らずにはなれなかった。
見た目重視の獣人もいるだろうけど、リュールはそんな風には見えない。
「お茶のおかわりはいかがですか?お茶菓子もまだございますよ」
「いつもありがとうございます、頂きます」
「ナギ様がお食事されてる姿は本当にいつまでも見ていたいくらいですね。もし触れることが許されるなら、ふっくらと膨らんだ頬に指を埋めたいほどに心がそそられます。目に入れても痛くないとはこんな感覚なんですねぇ」
釣り上がり気味の一重の狐目を心持ちうっとりと潤ませて、頬に軽く手を当てた彼女はほうっと息を吐き出した。
相手がラルゴなら鋭いツッコミを入れるのだが、女性相手だと勝手が違う。
美味しいお菓子を食べさせてもらっているのだし、突き刺さる視線は気にしない方向で行こうとほぼ毎日の決心を再び固めていたら、不意ににょっきり身体に足が生えた。
自分の半身を押し潰すように降って来た足に驚き、食べていた和菓子が喉に詰まる。
柔らかく伸びるもちと包まれていた小豆の強襲は凪に多大なるダメージを与えてきた。これも無差別にもちを貪り食べていた所為だろうか。
個数は胃袋の容量的に入らないから一つ一つを丁寧に租借していたのに、とんだ反撃をされたものだ。
若干涙目になりながら片手で持っていた湯飲みを口にあて、温くなったお茶を必死に飲み下す。特に猫舌ではないけれど、今ばかりは中途半端な温度になっていてくれて良かった。
それでも喉に閊える感触を必死に嚥下してようやく呼吸を取り戻し、生理的に浮かんだ涙を手の甲で拭うと、ようやく自分の身体を芯から貫いて見える足の持ち主を確認しようと顔を上げる。
「・・・このような場所でひとり遊びか」
時代劇に出てきそうな袴だと思いながら足元から視線を辿っていた凪は、聞こえた声にふと視線をとめた。
低く唸る、不機嫌な獣のような声。威厳に満ちた───と言うより、威嚇する力が強い声音にひっそりと眉間に皺が寄る。
このお屋敷で厄介になり始めてから二週間弱、男性の声は始めてだ。
いかにも苛立ちを堪えていますと言わんばかりの、いいや、苛立っているのを堪えていると言外に主張する態度が肌に伝わってきた。
飲食店でバイトをしていた時にもこんなオーラを醸し出す客がいたけれど、正直に白状すれば苦手なタイプである。
「ついに妄言を垂れ流すようになったのか?誰もいない場所で一体誰に語りかけている」
「申し訳ございません」
「謝罪など必要としておらん。自らの立場を自覚し弁えろと申している」
「・・・」
「返事はどうした」
「御意に」
淑やかでありながら凛とした声は、さっきまでのリュールと同一人物のものとは思えないくらいの厳しさを含んでいた。
思わず視線を彼女のいる方角に向ければ、正座したまま深々と木の床に額づいて微動だにしない姿があり眉間の皺が深くなる。
美味しいものを食べて気分よく日光浴をしていたのに、今や嫌悪感に似た感情が全身に走り抜けた。
忠誠を見せるよう首を曝したリュールを眺め、そのまますっと立ち上がる。身体を突き抜けていたのが、足から胸の辺りまで侵食され、そこから逃げるように一歩ずれた。
見上げた『狐』の男の身長は大体凪よりも頭一つ程度高く、おそらく日本人の平均身長程度だろう。
襟足を超える灰色の髪には僅かに白いものが混じり、奥二重の瞳も濃いグレーで、下膨れした柔らかな顔の形に反して睨み付ける眼光はどこまでも鋭い。
相手を突き刺してやりこめるのを僅かにも躊躇しない舌鋒は、頭を垂れたこともないのかと問いたくなるほどだ。
第三者でもリュールの身分の高さを知る凪には彼の正体が薄っすらと察せれて、だからこそ余計に嫌な気分になっているのだろうと臍を噛む。
王族の直系であるリュールに対してここまで高圧的に出てくるのなら、おそらく。
「時期国主であるイリアと比べ、お前は本当に出来が悪い。いいか、他者の目があろうとなかろうと常に油断をするな。気の緩みが公の場で出た際に傷つくのはお前の名誉ではなく、イリアの名誉だ。イリアに虚言や虚妄の癖があると万が一にでも勘違いされたら、お前ごときの魂一つを捧げたくらいでは代えが利かぬぞ」
「はい」
「たとえ性根が狂ったとしても、心の底に叩き込んでおけ。お前の存在は『イリア』としてあるからこそ成立するものだ。イリアが受ける全ての負を依代として従順に享受するがいい。イリアのために全てを捧げろ。それが魂吾として生まれたお前の、最初で最後の役目だ」
聞けば聞くほど胸糞が悪い。まさに今この場に第三者がいる状況なのだが、豊かに蓄えられた顎鬚を片手でなぶる彼には存在も察すれない。
凪自身が望むからこそ出来上がったものなので苛立ちも受け止めるべきだろう。
彼の言葉から察するに、これはこの国の根源に関わるトップシークレットで、凪のような一般市民が耳にしていい内容ではない。そしてついでに庶民の中の庶民である凪が口を出せる問題でもない。
まさか優雅に楽しんでいた午睡を邪魔され上に、こんな爆弾を落とされるとは思っていなかった。もし落とされるとしても、もっと状況があると考えていた。
だがリュールが面倒ごとを抱えているのも、凪に見せる甘ったるい表情とは別に、どこか物悲しげな表現し難い寂寥を湛える眼差しをするのも気付いていて見て見ぬフリをしてたのは、卑怯なのは凪だ。
彼女の優しさに付け込んで、何かを求めるように瞳を揺らす姿を、掌で目を覆って視界を塞いでいた。
『魂吾』とは魂の片割れ、もう一つの自分。簡単に言えば、双子。そして時期国主にもっとも近い何もかもを持つ、負の請負人。
意識して紐ほどかなかった知識を開放して新しい情報を脳裏に描く。
秋を象徴する大陸にあるこの国は、代々女性に王位継承権の優先権があった。
それは何故か。理由は単純にして明快だ。
国を作り上げた初代の国主、『九尾の白虎』が女性だったから。
遥か昔、サーヴェルでその知恵を利用し一大勢力を誇った『狐の一族』は、その強大さから頭を幾つも持つ組織と相成った。
同族で相打ちをするのは数知れず、弊害で他の部族が傷を負うことも、時には土地を追われ迫害されることも少なくなかった。
そんな状況を憂慮して立ち上がったのが、後に初代国主になる『少女』。
金毛に近い黄色の毛を持つ彼女は、勇猛果敢にして文武両道に長け、容姿端麗にして知勇を兼ね備えた名将だった。
そう。少女は凪が常識として知る毛色の、キイやミイと同じ普通の『狐』だったのだ。
ならば何故彼女が伝説に『九尾の白狐』として残ったのか疑問が残る。
王家にも正しく伝わっていない歴史は、凪に甘い神の手助けにより本を捲るように追加された。
───少女はどこにでも居る『狐』から、『九尾の白狐』へと変容したのだ。
理由は戦いにおける著しい体力と精神の消耗と、信頼していた双子の弟からの裏切り。
血に塗られた覇道の道を歩むと決めた少女には、誰よりも近しい存在である『双子の弟』がいた。
まるで一つの魂を二つに分けたように二人の心は通じ合い、思い描くだけで互いの行動も把握できた。
戦場にあり少女が凛と立ち続けることが出来たのは、彼の存在があってこそのもの。いつ、いかなるときも、生れ落ちた瞬間から傍に居てくれる彼がいたから、少女は前を見て走り続けることが出来た。
しかしそんな二人にも、道が分かたれる時が来る。
あと一歩で統率が終わり平和が訪れる。あと一歩で仲間と笑って暮らせる日常が戻ってくる。
そんなあと一歩のところまで来ていた頃に、少年は『姉』よりも大切な存在が出来てしまった。
彼は恋をしたのだ。よりにもよって、敵対勢力の頭領の娘に、一生に一度の恋をした。
誰が悪いわけではない。少年は恋した娘を守りたかった。少女は仲間と将来の平和を求めていた。
彼女たちの想いは普通のもので、時代が悪かったとしか言いようがない。
凪は彼らではないから、彼らの本当の想いは共有できない。それでも互いをもう一つの己の魂と呼んでいた二人には、血反吐を吐くより辛かっただろうと想像がついた。
激闘の末、勝利したのは『姉』である少女だった。涙を流し、苦しみを叫び、悲痛を堪え、それでも少女は未来を取った。
実力が拮抗していた二人の戦いは少女にも多大なダメージを与え、豊かで毛並みがいい尻尾を九つに引き裂く。
そして十日間眠りから覚めず、傷が僅かに癒えて目覚める頃には、金に近い毛色が色を失くして白く変化していた。
その後少女は弟の屍を超えて新たに作った国に国主として立ち、王家に隠れた絶対の不文律を打ち立てる。
それこそが『魂吾』の制度。
王家に双子の───それも姉と弟の男女の双子が生まれた場合にのみ、弟は人柱として姉の身代わりを勤め全ての負を受け止めること。
つまり時期国主とされるイリアと、目の前で女物の着物を纏い床に額づくリュールは、生物学上珍しい異性一卵双生児で、『彼』は生れ落ちた瞬間から存在を隠して影武者として生きることを義務付けられた『青年』だったのだ。
歴史上『始祖』と呼ばれる少女が作った、心の歪みを表に出した負の法律は、彼らと同じ異性一卵双生児の子孫を未だに縛っている。
リュールが教えてくれた諱とは、呼んではいけない忌むべき名、忌み名だった。
美しく飾り立てられた伝説の中に見え隠れする狂気に、狐たちはどうして疑問を持たないのだろうか。
緩やかに唇を噛み締めて、胸に渦巻く感情と共にゆっくりと吐き出した。