閑話【ものっそいお腹すきました】
*ガーヴ視点です。
きゅるきゅるきゅると切なく鳴く腹を抱えて、早朝の街を散策する。
懐に入ったお金はいよいよ乏しくなり、最近はただで飲める宿の風呂用の水を飲んでいた。
村では近所の家に行けば水くらい快く出してくれたけど、ここらではどこぞのレストランやギルドで食事を頼まなければ水はない。
水路の水を飲もうとしたら、凶暴な龍に背中を蹴られて水の中に落ちた。
ろ過してない水なので飲んだら腹を壊すか、最悪変な病気が移るかもしれないと忠告されたけど、転げ落ちた拍子にしっかりと飲んでしまった。
そこが駄目なら子供が遊ぶ噴水の水はどうかと、溢れる水に口を近づけたら、膝立ちになっていた分地面についていた尻尾を踏まれて悲鳴を上げた。
噴水の水は子供の口に入るかもしれないのでろ過されてるらしいけど、みっともないからやるなら宿屋の風呂水にしろと怒られた。
それなら最初からそう言ってくれればいいのにと腹の底で苛立ちがとぐろを巻いたが、ここ最近ですっかり上下関係も板について口に出せなかった。
最近思うが恐怖政治とはああいう暴君によるものに違いない。
龍のラルゴは凪と一緒にいる時は表情がでろでろに蕩けて、砂糖を吐きそうなくらい甘ったるい声と笑顔を撒き散らすくせに、一歩離れれば本気でおっかないのだ。
子供には甘いが、男には厳しい。
ガーヴは男と認められてるのを喜んでいいのか、哀しんでいいのか最近では判らなくなっている。
拳骨の制裁は痛いし、尻尾を無造作に掴まれると抜けるんじゃないかと思うこともしばしばだ。
そして彼の悪友だか腐れ縁だかわからない男たちは、ラルゴ以上に性質が悪い。
初対面でいきなり乱闘を繰り広げて実力差を見せ付けられた彼らにいい印象なんて何一つないし、その後も親しくなんてしてないはずなのに、ラルゴに引き摺られてギルドに連れて行かれる都度、何故か彼らの分まで食事を奢らされる。
賭けてもいいが、凪に生活金としてお金を前借してる自分より、彼らのほうが絶対に金持ちなのにも関わらず、だ。
お陰で今のガーヴは早くもジリ貧生活を味わっている。
水路の水で腹を満たそうとしたのも、噴水の水で腹を満たそうとしたのも、風呂場の水で腹を満たしてるのも、全部全部他人の負債が重なった結果であった。
それなのに原因となる張本人たちはいつでももどんな時でもマイペースで、ついに耐えかねたガーヴは言ってやったのだ。
『家出してやる!』と。
だが思えば少し、早計だったかもしれない。
ガーヴの本来の住居より大陸すら隔てたこの地には、知り合いなんて勿論いない。
腹を空かせていても、近所のおばさんの家に飛び込んでご飯頂戴と強請れないし、家に泊めてくれるほど親しい獣人もいない。
何だかんだで最低限の食事は用意してくれていたし、洞窟がないこの街で家がなくなるのはとても困る。
街を出たら凪にもう二度と会えないかもしれないから、怖くて実行できない。
それでも昨日の朝啖呵を切ったばかりで、もう宿に戻るのは男の矜持が許さなかった。
何より今ここで戻れば、ラルゴがどんな顔をするかわからない。
戻ってきた凪にだって、あることないこと吹き込みそうな気がしてならなかった。
ぐるぐるるーと先刻より派手な音を立てて腹が鳴る。
気がつけば一夜が明けていて、朝の市場の用意が着々と進んでいた。
腹を急激に刺激する香りが、色々なところからむんむんと漂う。
これだけは龍よりも自信がある嗅覚が、八方からの匂いを嗅ぎ分けていった。
「魚、肉、果物、焼いた肉、蒸した肉、焼いた肉、切った果物、飲む果物。魚、フライの魚、似た魚、焼いた魚のタレ」
くんくんと一心不乱に匂いを嗅ぎながら、よろよろよたよたと足を進める。
匂いだけで腹が満たされることはないのに、それでも歩みを止められなかった。
口の端から絶え間なくよだれが流れ続ける。
優秀な嗅覚は、特に匂いの強い、食欲に訴えかけるものを重点的に集めているらしい。
自分の身体なので自分好みの香りに釣られるのは理解できるけど、お陰でどんどん腹が減る。
ぐるぐるぐると鳴っていたお腹のレベルが、ぐごろろろろろろ~とあるまじき音を立て始めたところで、かくんと力が抜けた。
そう言えば家出したのは昨日の朝でも、一昨日の昼にラルゴと喧嘩してから意地を張ってずっとご飯を食べていなかった。
成長期の身体は栄養を欲し、何か食べ物を食べたいと物凄く主張している。
こんなことなら動けるうちに街を出て、近隣の森で食べ物を物色すればよかった。
港もあるというし、ゴミ場を漁って釣竿でも作って魚を釣って食べればよかった。
ああ、だが釣竿を作っても釣り針がないから魚は釣れないか。
かと言って初めての海で泳いだら沈むとラルゴにきつく言い聞かされていたし、他に魚を得る手段も見出せない。
どちらにしても全て遅い話だと、空回りしがちな脳みそが空腹だけを享受する。
まさか短い人生をこんな形で終えるとは思えなかった。最後にもう一目だけ、会いたい。
瞼を閉じれば脳裏に描かれる、凪の柔らかで整った容姿。
ふわふわの髪をもっと撫でて、華奢な身体に抱きついて匂い付けして、自分の印を首筋に刻んで置けばよかった。
ごごごごるごろぐおぉ~。ついに腹の音が聞いたこともない音を立ててきたと遠い意識で考えていると、不意に肩をポンと叩かれる。
咄嗟に地面に手を付いて身体を持ち上げ、その場から飛びのいて身を屈めた。
低い姿勢のまま周囲を見渡すと、二本の太い足が視界に入る。
「・・・なんだ、元気そうじゃないか」
「───誰だお前」
喉が勝手に警戒音を出した。
自分でも考えていたよりいい動きが出来たのに驚いてるが、他人に指摘されたくない。
視線の先には、酷く物騒な雰囲気の男が眉尻を下げて笑っている。
右目に大きな傷が走っている隻眼の男は、見たことがない種族だった。左手の人差し指が千切れたように短くて、耳も片一方が欠けている。
最近知り合った虎よりももっと落ち着いた色合いの金髪は、少し襟足を超えていた。
太目の眉はもともと怖い彼の顔つきを一層迫力あるものに変えているけれど、笑った顔は意外と優しいかもしれない。
敵意は感じられないものの、最近富みに鍛えられたガーヴの警戒心は緩まなかった。
喉奥で低く唸り声を上げていたら、まいったなと眉を持ち上げて空を見上げる。
日が昇り始めたばかりの空はどんどんと色を変化させて、太陽の目覚めを教えてくれた。
暫くの無言が二人の間を通り抜ける。
そして次の瞬間、いかにも強面の種族不明な男がくるりと踵を返した。
何をする気かわからなくて、更に動きを見守っていたらすぐ近くにあった露店の前で足を止める。
くるりと振り返った彼の手には、ほかほかと湯気を立てる白い柔らかそうなものが乗っていた。
「食べるか?」
「食う!」
一瞬でガーヴの高く築かれたはずの警戒心は瓦解する。
むしゃむしゃと腹いっぱい満足するまでパンをかき込んだガーヴは、そのままの勢いで新しい住処と働き場を手に入れた。
人生行き当たりばったりでも、何とかなる時は存外に何とかなるものだと、凪が去ってから二週間目のガーヴはまた一つ学んだ。