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20:自由の中で不自由な獣 その9

「私と姉上は魂吾たまわれなのです」



もくもくと、『姉上』が退場してくれたことによって漸く口に運べる食事を堪能する。

口の中でほろりと解ける魚の白身は絶品で、脂の乗りも丁度よく、ご飯につい手が伸びた。

お新香もしっかりと味がついていて、味噌汁が恋しくなる塩分の濃さだ。

腹に入る量が少ない分、しっかりと吟味しようと、味蕾に意識を集中させて五十回は嚙み続ける。

美味しい。やはり日本人は和食だ。洋食も中華も大好きだけど、口に馴染んだ味が一番だと、最近はしみじみそう思う。

遠く離れて初めて自覚する愛おしさ。美味しいものは何でも好きだけど、ダランでもつい、どことなく懐かしい照り焼き風味の串焼きを好むのも無意識の郷愁の一種かもしれない。



「姉上はこの国の時期国主です。見た目がどれほど酷似していようと、血が濃い関係であろうとも、尊きお方との身分の格差は埋められません。姉上はとても気さくな方ですが自らの立場も自覚されていらっしゃる」

「へぇ」



箸を伸ばして出汁巻き卵を口に運ぶ。昆布の出汁とほんのりとした甘味が口に広がり、思わず口元が緩んだ。

卵焼きは砂糖派だが、この出汁もまた良し。すし屋の分厚い卵焼きみたいに、冷めても美味しい卵焼きだった。

頬に手を当てて幸せを満喫する。たった一切れの幸福でも、噛み締めるには十分だ。


空きっ腹に食事を詰め込んでいく凪の斜め前では、箸を止めたリュールが淡々と語る。

特に返事は期待していなさそうなので、ただ話を聞いて欲しいのだろう。

凪を見詰めるときは無邪気な子供みたいにきらきら輝いていた瞳は、作り物の安いガラス玉みたいに濁っている。

不純物が沢山混じりこんだガラスも独特の美しさを持つけれど、彼女の瞳は澄んでいるほうがいいな、なんて勝手に感じた。


魂吾たまわれ

聞き覚えのない言葉に、脳内で検索をかける。

ウィルから与えられた知識の中に、単語はきちんと登録されていた。

五大陸の中の一つ、サーヴェル。『魂吾』とは、この大陸を統率する王族の中の隠語らしい。

魂の片割れ、もう一つの自分。簡単に言えば、双子。つまり、想像通りリュールと先ほどの狐は双子の姉妹・・・・・なのだろう。

何故『双子』を隠語にしていたのか。部外者の凪でも、いや、部外者だからこそ、むんむんと薫る厄介ごとの気配に気付けるくらい怪しい。

どうしてリュールは凪に向かって『魂吾』などという単語を発したのか、理由が判らず出汁巻き卵の最後の一口を口に含みながら、ちらりと視線を上げる。

相変わらず正座したまま背筋を伸ばす佳人は、ぼんやりとした表情で膳の料理を眺めていた。

魂吾というより魂が口から出てそうな様子に、こくりと卵を飲み下す。

そして暫く様子を見ても動かぬままのリュールに小首を傾げ、彼女に貰った箸を伸ばした。

黄金色の卵焼きを一口大に切って掴むと、そのまま彼女の薄い唇にすっと押し付ける。

ぴくりと身体を震わし、不思議そうに瞬きを繰り返しながらこちらを見詰める綺麗な目を真っ直ぐと見返した。



「卵焼き、美味しいですよ」

「え?」

「美味しいものは心を解してくれます。食事は人生における重要な生命線です。どうぞ」



差し出した卵をもう一度押し付けると、おずおずと紅も引いてないのに赤い唇が持ち上げられる。

そこにすかさず卵を入れて、もくもくと動く頬を見詰めた。

行儀が悪いのは承知の上だが、文句も言わずに食べてくれてるのだから、おそらく大丈夫だったのだろう。

リュールが一本の缶ジュースを回し飲みできないタイプだったら、もうとっくに箸を叩き落されてるだろうから。

以前秀介が桜子の下の兄に拒絶されてるのを見たことがあるが、凄かった。

目にも止まらぬ早業でシュバっと桜子の唇に触れそうになった、秀介がなけなしのお小遣いで買ったあの夏の日のオレンジジュース。

放物線を描いて飛び去った姿を、三人で見送ったのは懐かしい思い出だ。

ちなみに結構幼いと呼ばれる年齢でそのトラウマを経験した秀介は、以降人前で三人で回し飲みしなくなった。

する場合は三人のときだけで、人目があればいつ情報が漏れるかと戦々恐々としたものだ。

凪と桜子は相手が秀介なら回し飲みも全然気にならなかったのだけど、どうしても生理的に受け付けない人物もいるのだから仕方ないだろう。

見つかって痛い目を見るのは『不埒者めが!』とビシバシ厳しく指導される秀介だけだったので、恨めしそうに喉を潤す姿を指を咥えて睨まれたのも結構な頻度だった。

まあ、お金だけは三等分してたので、彼の怨みも嫉みももっともなものだろう。全て過去の話だけど。


ともかく、美味しいものが心を解すという理論は凪の絶対的不文律だ。

本能三大欲求は食欲、睡眠欲、性欲と言われている。獣人ではどうかわからないが、少なくとも人間の初期段階の欲求として上げられるものは、この三つが一番ポピュラーだろう。

性欲は我慢出来ても、食欲と睡眠欲は我慢すればいずれ発狂し、飢え、死に至る。

つまり食欲は欲求を叶える上に美味しさを加味される、幸福に満たされる時間だ。

睡眠も大好きだけど、食事も大好き。だらりんと暮らせる飼い猫のような今の状況は、至れり尽くせりでとても楽だ。

飼い主代わりの女性はとても優しく甘く、食事も風呂も寝床も提供してくれる。

だからその彼女の顔が曇るなら、厄介ごとに嵌らない程度に心を返すのは最低限の礼儀だろう。



「美味しい・・・」

「はい、美味しいです」



ふんわりと口元を緩ませたリュールに、にこりと微笑みを浮かべた。やはり美味しいものの威力は偉大だ。

笑顔は伝染することがある。蕾が花開くように、ほろりとした笑顔を浮かべたリュールに釣られて、思わず凪も笑顔になった。

すると切れ長の瞳をまん丸に見開いた彼女は、呼吸してるかすら怪しい勢いで硬直する。

顔の前で掌を振ってみたが反応はなく、人差し指をにょきっと伸ばして四・五回突いたら、正気を取り戻したらしいリュールは、意外と大きな掌で唇を覆って俯いた。

一体何事だと目を瞬いて注視していると、彼女の首が徐々に赤く染まっていく。

もしかして料理の中に何か入っていたんだろうか。ロシアンルーレット的な卵焼きなんて物凄くいやだ。

辛いのは嫌いじゃなくても不意打ちは嫌だ。カプサイシンに美肌効果があっても、卵焼きは甘いほうが好きと断言できる。

渋い顔で顔を赤くしたリュールを眺めていたら、ふと俯けていた視線が持ち上がり、かち合った。



「・・・あの、差し支えなければ教えて頂きたいのですが」

「はい?」

「どうしてそのように渋いお顔を?」

「仕様です」

「仕様・・・ですか?」

「はい」



眉間に皺を寄せて考え込むように小首を傾げた狐は、意味が判らないと言葉ではなく伝えてくる。

さり気無く視線を逸らした凪は、我ながら咄嗟とはいえ本当に意味がない言葉ですと言えず無言で通した。

よくよく考えてみれば、いかにもいいとこの家で育っているリュールの食事がロシアンルーレットのはずがない。

いや、実際にロシアンルーレットがあるとすれば、辛味成分なんて可愛らしいものではなく、痺れるだけじゃすまない『何か』が入ってそうだ。

先ほどの『姉上』やらとの関係や、ぽつぽつと零した言葉を柱に組み立てると、時代劇で見たことしかない展開になりそうで、無理やり頭から押し出した。

深く考えてはいけない。嫌な予感ほどよく当たるものだ。しかも自分が地味に運が悪いと気付いてるなら尚、予想と言う名で運を引き寄せてはいけない。

リュールは嫌いじゃないし、色々と便宜を図ってもらっているけれど、命に関わるような厄介ごとに進んで頭を突っ込むほど正義漢にはなれない。



「申し訳ありません、ナギ様。仰るお言葉の意味を悟るには私の知恵は足りぬようです」

「いえいえいえ、どうぞなにとぞお気になさらず」

「ですが」

「本当に、本当に大した意味はないですから」



疚しい気持ちを散らすように両手を振った凪を見て、室内の明かりの影響か、茜色に近くなった瞳が僅かに見開かる。

眩いまでに悪意がない眼差しは、流石になけなしの良心を刺激した。チクチクとまでいかずとも、ざわざわとする心が、『やめて、そんなに濁りのない瞳で私を見ないで』と訴える。

ここにいるのがラルゴであればさくっとボケるなりなんなりして流せるのに、見た目の違いだろうか。

リュールもそれなりに冗談を解し、ユニークな部分があるのだけれど、ラルゴにするほど遠慮なくは接せない。

なんだろう、漂う雰囲気が違い過ぎる。

見た目妖艶美人のどこか儚げな空気を纏うリュールと粗野で豪快で大木で殴られても傷一つつかなそうなラルゴとでは扱いに差が出るのも致し方ない───ような気がする。

この場にいない異世界での保護者について結構辛辣な評価を勝手に下していると、不意に視界が翳った。

目の前には焦点が合わなくなるほど、と言うか顔を突き抜ける勢いで近づいた掌。

付き合いは浅くても一週間あれば触れれないことくらい目の前の聡い『狐』はちゃんと頭に入ってるはずなのに、まるでぬくもりを求めるように頬に沿って手が滑る。

見えても触れぬ、自分以外の誰も認識できない不条理な存在に対し、彼女は幸せそうに目を眇めた。



「ねぇ、ナギ様。ご存知ですか?ナギ様の花のかんばせが優しい春の木漏れ日のように心に射しこむ都度、胸に柔らかく仄かでありながら消えない灯火が燈るのです。寒さ厳しい冬の中で焚き火に手を翳したように、じんわりとゆっくり、熱が全身に広がるのです」

「・・・・・・」

「私の前に現れてくださって、ありがとうございます。───私、幸せです」



頬を淡く染めたリュールは、最後はとても簡潔にまとめてくださった。

飾られてない言葉だけど、その分だけ率直に想いを伝えてくる気がして益々気まずい。

相手がラルゴであれば『あっそう』の一言で流せるのに、はにかんだ笑みを浮かべるリュールだとどうにも雑な扱いが出来ない。

これ以上傾倒されるのは怖いなと心の片隅で考える自分は、やはり薄情なのかなと眉尻を下げて口角を持ち上げた。

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