20:自由の中で不自由な獣 その6
風呂はいい。
源泉かけ流しらしい檜───かどうかわからないがそれっぽい香りがする───の浴槽の中、ほうっと長くて深いため息を吐く。
凪が軽く十人は入れそうな広々とした風呂場は、流れた湯がきっちりと真四角に整形された石のタイルに零れて、そのまま排水溝に落ちていた。
どちらかと言えば平熱が高いほうの凪が、少し熱いと感じる程度だ。桜子なら余裕で、秀介だと厳しい。
「気持ちいい・・・」
ぐずぐずと身体が崩れ落ちそうになる心地よさに、タオルを頭に乗せてまたもため息を吐く。
本来銭湯などでしたらマナー違反になる行為も、桜子の家の風呂と似た雰囲気のこの場所では、つい気が緩んでしまっていた。
広々とした風呂場に一人で浸かっているのも理由の一つだろう。はっきり言って気が緩む。
ダランで借りている宿屋にも隣接した風呂があるけれど、あれは猫足タイプの西洋風で、見た目は兎も角中身は完全に日本人の凪にとっては少し落ち着かない。
そこにきてこの心地よさ。やはり日本人はお風呂だ。
足と腕を全力で伸ばすが届かないほど広い場所で寛いでいると、不意に脱衣所から声を掛けられた。
「あの・・・ナギ様?そろそろ朝餉の時間です」
「朝餉・・・」
朝餉、つまりは朝食。心地よさに解けかけていた脳みそが文字を変換すると、現金にもさくっとお湯から立ち上がった。
ざばり、ざばりと七歩程度歩いて漸く浴槽の縁にたどり着く。そこに手を置いて『よっこらせ』と年寄り臭い掛け声を出し木の枠を跨ぐと、いつの間にか渇いている頭の上に置いたままのタオルで身体を拭った。
ここに来て早一週間。毎度のことだが、本当にありがたい。
このタオル、と言うか手ぬぐいは初日に風呂に入る際に頂戴した一品なのだが、身体を洗ってすすいで頭の上に乗っけておくと、風呂上りには勝手に乾いていて再び使用できる状態になっている。その後すすげば、着替えが終わった後にまた乾燥しきっていた。
着替えはどうしているかと言えば、これも初日に貰った手ぬぐいに靴までセットで風呂場に持ち込んでいるのだが、凪が風呂の湯を堪能している間に毎日勝手にすり替わっている。
昨日は白いシャツに黒のパンツ、一昨日は薄紅色のワンピースとストール、今日は七分丈のフリルがついた小花柄のチュニックとレギンスにサンダルのセットだ。
ほくほくとした気分で服を着替えて、脱衣所に続く引き戸を引けば、色白の肌をほんのりと染め上げたリュールが視線を俯かせて待っていた。
相変わらず朝から色気が炸裂している。
肩で切りそろえられた白い髪が表情を隠すようにさらりと流れ、節目がちの瞳を長い睫毛が縁取っていて僅かに熱を持っていた。
入れ替わりで風呂に入る彼女は、いつも出てくるまでに襦袢を着てくる。しかも肌の色が透けないようにきっちりと。
女同士でも恥ずかしがる手合いはいるし、初日に一緒に風呂にはいるのを断られたているので、凪もリュールに併せて服を風呂場で着替えている。
一度脱衣所まで裸で出てきたら物凄く叫ばれたので、少しばかり騒動になりかけた。
一応タオルで前を隠すよくあるスタイルのはずだったけれど、あれだけ絶叫されて使用人も集まるような騒動は二度目はごめんだ。
リュール以外の視線には曝されないとは言え、何人かの使用人らしき狐たちがリュールを真ん中に騒いでいるのを、真っ裸で見物する羽目になった。
特に露出癖があるわけでも、スタイルに自信があるわけでもない凪は、暫くの間その騒動を見詰めていたが、すすすすっと引き戸を閉めてもう一度風呂場に戻った。
その後やることもなくもう一度風呂に浸かっていたけれど、騒動が収まる頃にはすっかりと湯あたりしていて結構苦い思い出だ。
「ご飯・・・今日はなんでしょうか?」
「今日はおそらく魚の干物でしょう。昨日、ミイとキイが騒いでおりましたから」
「干物が彼女たちの好物なのですか?」
「干物が、と言うよりは魚がと言う方が正しいでしょう。あの二人は広域の意味で魚が好きなのです。鑑賞するもよし、釣るもよし、捌くもよし、食べるもよし、だそうですよ」
「・・・そうですか」
廊下に出て視線を真っ直ぐ前に向けたリュールは、今日も今日とて艶やかな着物の裾で口元を隠してくすくすと笑った。
会話をする際もほとんど唇は動かないし、凪に聞こえる程度の音量ぎりぎりで交わされる言葉は、まるで腹話術師のようで少しだけ面白い。
興味を持ったものにだけ関心を示す凪は、彼女の口元を見て真似したりもしたけれど、結構難しくて諦めた。
どうやら自分はリュールほど器用にはなれないらしい。
どうせウィルの加護があるんだからいいかと、日本人らしく一時的なブームは熱しやすく冷めやすいを地で進んだ。
けど見ているのは面白いので口の動きだけ観察していたら、いつの間にか声を発さなくてもなんとなくリュールの言葉を読み取れるようになった。
読唇術とまで行かないけれど、第三者がいるとき小さく唇を動かすリュールの瞳が悪戯っぽく光るので、ついつい目で追ってしまう。
ちなみに言葉を合わせて凪と同時に会話をする場合もあるけれど、彼女もそんなのを気にしないほうが楽らしい。
庭に生えた草を眺めて『青々とした美しい新緑より、それを見詰めるあなたの瞳のほうが、眩い太陽のように輝いています』だの、『鮮やかで健気な道端の花ですが、あなたの手に触れられればどのように華美な花より麗しい』だの、『世界を包む青空よりも、あなたの蒼い瞳が一番印象的で吸い込まれそうな心持ちです』とか、詩集を読んでいるようだ。
凪の感性から掛け離れすぎて、笑うどころかいっそ感心してしまう。よくまあここまで即席で思い至るものだ。
ラルゴが誑しと言っていたのは、ポエムのような言葉の羅列と、インパクトのある麗しすぎる笑顔のお陰だろう。
一週間も共に生活すれば、なんとなく人となりもわかってくる。彼女に悪気はなくても、勝手に期待したくなる相手の気持ちも判らなくない。
「朝ご飯、楽しみです」
「ええ、そうですね。ナギ様が麗しくも愛らしい顔を花が咲き綻ぶようにして喜んでくださるのが、私もとても楽しみですよ」
それは言外に凪は食いしん坊だと言っているのだろうか。
心の中で疑問符を浮かべながらも、決して否定できない内容だとわざとらしく難しい顔で一つ頷いた。
外にある廊下から見渡せる庭は今日も太陽に照らされて穏やかな雰囲気を出していて、ちゅんちゅんと雀らしき鳥のさえずりも聞こえてくる。
そう言えば『雀の人』もこの世界にはいるのだろうか。『鷲』がいて『鸚鵡』がいるくらいだから、『鳩』や『鶏』もいてもおかしくない気もする。
ウィルから与えられた知識がその存在はいないと否定するけれど、もしかしたら異分子くらいあるのかもしれない。
どちらにせよ、ダランにいた頃と比べれば静か過ぎる平和な日常に、平和だなとうっそりと瞳を眇めて笑った。