20:自由の中で不自由な獣 その5
『・・・なーぎちゃん』
照れくさそうにはにかんだ笑みを浮かべて掌を差し出した少年は、少しだけ茶色がかった黒の瞳をすっと眇めた。
『なぎ!』
鴉の濡れ羽色の艶やかな髪を肩口で切りそろえた日本人形のような美少女が、快活な笑顔で手を差し出した。
迷いがなくどこまでも真っ直ぐな眼差しは、心の深いところまで当たり前に入り込んでくる。
『ほら、行っておいで凪』
『二人が待っているわ』
振り向けば太陽を背にした二人の大人。
陽に透けるきらきらとした真っ直ぐな髪を耳に掛けた華奢で背の低い女性と、彼女の肩を抱く栗色の癖毛を風に揺らした中肉中背の男性の姿。
仲睦まじく肩を寄せ合って手を振る彼らの表情は見えないが、辛うじて判別できる口元は緩く孤を描いていた。
おっとりとしていてどこまでもマイペースな母と、同じく穏やかでありながら意外としっかり者の父。
国を超えて反対する身内を振り切って、全てを捨てて駆け落ちをした両親は、近所でも有名なおしどり夫婦で子供の凪が見ても絵に描いたような万年熱々で愛し合い、恋し合う二人だった。
彼らにとって特別だったのは、生涯において互いだけ。
けれど幼い頃から漠然と気付いていた事実を寂しいと思うことはなかった。
凪は幸せそうに父を見つめる母の優しい眼差しが好きだった。
常に慈しみを持って母を包み込む父の暖かな雰囲気が好きだった。
決して自分の価値が双方の価値観を覆すほどのものでないと知りつつも、『魂の片割れ』である人たちの姿を『傍観者』として一番近くで見れるのは幸せだった。
それに二人が凪を邪魔者扱いしたことは一度もない。いつだって大切にして、目に入れても痛くないくらいに可愛がってくれていた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、親戚も誰もいない代わりに、その全員を集める以上に愛してあげるからと笑って告げるのが癖だった両親。
その言葉に嘘偽りなく、いつだって凪は溢れんばかりの両親の愛に包まれて育ってきた自覚がある。
だから逆光に遮られてちゃんと見えない表情だってどんなものか覚えていた。二人がどんな顔で自分を見ていてくれたか。
『いってきます』
小さな背を精一杯伸ばしてひらひらと手を振れば、二人が笑みを深めたような気がした。
勿論表情は見えないのだが、それでも凪にはちゃんとわかった。
だから前を見て振り返らずに駆けていく。こちらに手を差し伸べて、待っていてくれる大切な幼馴染の元へ。
世界のどこかには絶対に自分の魂の片割れ、ベターハーフが存在するらしい。
天国で一つの魂が二つに分かれて生まれてきて、そして現世でめぐり合う。
両親曰くベターハーフは会った瞬間にわかるらしい。引き寄せられる心は必然で、求め合うのは運命で、愛し合うのは宿命で、添い遂げるのは当然なのだそうだ。
けれど凪は知っている。自分にとって世界のどこにもベターハーフなど存在しないと。
何故なら、凪の魂は二分割ではなく三分割されていて、片割れではなく両手を強く引き寄せる二人がいるのだから。
一度走り出した身体は止まらない。
前に前にと進んで、伸ばされた二つの掌をしっかりと握り締める。
両親の視線を背中に感じながらも、振り返る気は僅かにも沸いて来なかった。
右手と左手を掴んでくれた二人こそ、両親にとっての互いの存在と同じと凪はもう知っていたから。
彼らこそが凪の運命。彼らこそが凪の宿命。彼らこそが凪の魂の欠片を持っている。
自分たちの魂は、三つ揃って始めて一つだ。彼らがいれば寂しくないし、大丈夫。
『いってきます』
もう一度だけ、ぽつりと呟く。
風が吹けば消えてしまうような小さな声は、きっと両脇を固める幼馴染たちにも届かない。
頬を伝う生温い感触に気付かぬふりをするために瞼を硬く閉じ、胸に溜まった息をゆるゆると吐き出す。
凪が泣いていればすぐに反応するはずの幼馴染たちは、こちらを見て絶えず笑顔を浮かべていた。
だからこそ、気付いてしまう。これは懐かしくも暖かくて幸せだった頃の懐かしい夢なのだと。
炭酸が弾けて気が抜けていくように、目が覚めれば覚えていないか、ゆっくりと忘れていってしまうのだろう。
それでも懐かしい二人を夢に見たことだけは心に留めて置けたらいいと、最後の一粒が目尻から零れて顎を伝って地面へ消えた。
ぱちり、と異常なまでに冴え渡った感覚で目が覚めた。
瞼を開けて一番に見たのは木で出来た和風の天井で、背中に当たるのは幼馴染の家に止まりに行くたびに利用していた懐かしい布団だ。
綿がしっかりと入っていて硬くも柔らかくもなくお日さまの香りがする。掛け布団も同じように柔らかで心地よく、枕は適度な硬さのある井草で作られたものだった。
瞬きすら惜しんで木目を数えつつ、そう言えば幼い頃もこうして眠れない日に木目を数えていたなと思い出す。
根本が地味で根暗な部分は変わっていない。三つ子の魂百までというが、本当にその通りだ。
小さく喉を震わせて身体を起こすと、布団がするりと捲れて落ちかけたので慌てて押さえた。
琉球畳のような正方形の畳を、色が薄いもの、濃いものと混ぜ合わせて並べられた室内はとても広々としていて品がいい。
外から見たら寝殿造のようだと思ったが、内面は桜子の家とよく似た書院造のようだ。
床柱の方角が頭に来るように布団を敷いてある布団から抜け出して、朝のひんやりした空気の僅かに肌寒く感じながら改めて室内を見渡した。
違い棚の下にはいかにも歴史が深そうな凪一人がすっぽり入り込めるであろう幅の壷と艶がある格子の飾り棚が並んでおり、その上にはいかにも高そうな皿や小物が並んでいる。
その横の一段高い床の間には鶴首形の一輪挿しが飾られているが、まるで江戸切子のような色味をしていて何となく少し現代風だ。
クリスタルグラスに差し込まれた澄んだ空の濃い青と、何をモチーフにしているのかわからないが凪には稲穂のように見える繊細な切子細工が素晴らしく鮮やかだ。
すぐ後ろには二色の墨で描かれた掛け軸が飾られている。黒の墨で波紋が描かれた泉に咲く、酷く薄い赤を使われた蓮の花。
咲き誇る寸前の蕾の状態は、今まさに花開かんとする情景を鮮やかに映し出していた。
床の間に日が入るように作られた出書院の部分は組子障子になっており、その下には思わず牡丹餅などの和菓子をこっそり隠したくなるような引き戸の地袋がある。
組子障子の上の書院欄間には見事な鳥の透かしが入っており、鴨居の上の欄間は書院欄間と違い細い木をいくつも連ねて模様を作った筬欄間だ。
じっくりと見物し、どこか懐かしいと感じた理由を漸く悟る。
この部屋は桜子の部屋と似ていた。桜子の部屋は家で一番日当たりのいい縁側に面した出書院がある和室で、幼馴染で集まったりするときは縁側から縁側から出入りしていた。
三人でこっそりと親や桜子の兄たちに隠れて桜子の祖父に買ってもらったおやつを、この部屋にはない床脇の下にあった床脇地袋に仕舞いこみ、梅雨時にカビが生えてしまったそれを見て嘆いたのも今ではいい思い出だ。
確かあれは───まだ自分たちが幼稚園だった頃だろうか。
そこまで考えてふと気付く。
だから、なのだろうか。
あの懐かし過ぎる、眩いとすら思える夢に見たのは。弾けて消えてしまうかと思ったが、うっすらと夢の内容は残っていた。
あれはまだ凪の心が充実していた日々の記憶。あの頃の自分が成長していたら、多分ウィルは凪に目もくれなかっただろう。
ほんの少しだけぼんやりしてるとこがあると言われていたけれど、喜怒哀楽も周りに対して普通に出していた。
今の自分にとって感情は薄いガラスに遮られた向こう側にある気がして、自らが特別と思う相手以外に振り切れることはない。
そうなるように凪は粉々になる寸前まで心にひびを入れられた。
壊れる直前で正気を保ち、壊れたいと願う前に思いとどまらされた、優しくも哀しい、幸せだったあの日常を、忘れることもないのだろう。
挙句に歪に壊れかけた魂と、両親から受け継いだこの容姿を見てウィルに見初められたというのだから自分の運命も数奇なものだ。
面倒で厄介で子供で大人な神様に見初められた凪は、不幸ではないが地味に不運であるという主張に反論できる相手がいるなら見てみたい。
ああ、ちなみに何故か清廉潔白でもないすの姿を見せつけられても神様崇拝が激しいあのおっかない『鷹』は除いて。
「・・・ナギ、さま?」
いつの間にか思考の波に飲み込まれていた凪は、とろりとした声に弾けるように顔を上げた。
声がした方向を振り返れば、実にしどけなくもあどけない姿の美麗な白狐が眠そうに目を瞬いている。
節目がちの瞳は婀娜っぽく、もしかして彼女は寝起きが悪いのではないかと意外な発見に無表情のまま驚いた。
寝るときは薄手の襦袢と決めているらしいリュールは、最初こそ凪と同じ布団で眠ることを拒否したものの、それならば自分は布団を使えないと主張すれば最後には折れて同じ布団に入って眠った。
誰かと一つの布団で寝るのは、嫌らしい意味はまったくないと改めて主張した上で訴えさせてもらうがラルゴのお陰で慣れている。
性別が男じゃなく、抱きしめようとしてこないだけましだ。しかもリュールは女の凪から見てもうっとりするような美人の女性。
綺麗なお姉さんは好きですかと問われれば、嫌いと言うものは少ないだろう。勿論凪だってそうだ。
自分から望めば触れられるが、別にスキンシップが好きなわけでもないのでお互いに不干渉を貫いた。
一応目障りなら見えないように姿を消すと申し出たけれど、それはリュール本人から断られている。
触れられない上に見えなくなれば存在自身を信じきれなくなるから不安だと訴える瞳の強さに負けてそこは譲ったが、触れ合うこともないので結果広々と眠れた。
しかし意識的に触れれなくとも自分の身体の中を他人の手が通る図は見たくないので、一人用にしては大きい───と言うかベッドで表現すればキングサイズよりも大きな布団の端を借りて久し振りの日本人の心を堪能させてもらえたのは幸せだ。
「おはようございます」
寝起きの彼女と違い、すっきりと目覚めていた凪は深々と頭を下げて挨拶をする。
するとその仕草に顔をほにゃりと綻ばせたリュールは、布団から身体を起こすときっちりと正座して頭を下げた。
「おはようございます、ナギ様」
布団の上に三つ指ついて行われた予想外に丁寧な挨拶に、内心でどこの新妻かと突っ込んだものの、やっぱり表情には出なかった。