20:自由の中で不自由な獣 その3
とりあえず自己紹介を済ませたあと、リュールに誘われるままに縁側に掛かる階を見る。
縁側までは腰ほどの高さがあり、以前修学旅行で見た寺院はこれほど高かっただろうかと脳裏をよぎった。
しかし考えて比較したところで意味もないとさくりと結論を出し、促されるまま上りかけ、不意に足を止めた。
「どうかなさったのですか?」
切れ長の瞳を向けて小首を傾げたリュールに不思議そうに見詰められる。
磨きぬかれた縁側の板にもう足を置いている彼女は、どうして凪が足を踏み出さないのかわからないらしい。
着物の袂というより、どちらかと言えばチャイナ服の袍を髣髴とさせる幅広の部分で口元を隠した姿はとても上品で似合っているが、高い位置に居られると身長差が更に出来て視線を合わせるのに首が痛む。
「・・・靴を履いたままなのでどうしようかと思いまして」
「くつ?・・・ああ、そうですね、可愛らしいおみ足にとてもお似合いのお靴を履いていらっしゃいますね。ですがどうしてそれで困られるのですか?」
「・・・・・・」
至極当然の質問だ。
だが一応の拠点としていたダウスフォートのダランでは基本的に室内でも靴を履いていたし、強制転移させられたナナンの村では場所によって履いたり脱いだりと忙しなかった。
そして目の前の寝殿造りとそっくりな和風建築は、おそらく室内には靴を脱いで上がるのが普通だろう。
そうじゃなければ先ほどの『猿』のようにキーキーと喚いた『狐』の女性が告げた、足の汚れを拭くための水と布の意味がないのだから。
だとすると凪の脳裏に一つの疑問が沸く。現在干渉を拒否している状態で、凪は他者から存在を把握されないようになっている。
しかし自分の身体から一度離れた物はどうなるのだろうか。
僅かな好奇心は確かに存在する。けれどそれを今試す気にはならない。
リュールは凪の格好を珍しいものだと告げた。
『靴』と発音するときも最初に『くつ』とぎこちなく発音したし、確かに彼女の衣服を鑑みれば、おそらく『靴』も下駄や雪駄、草履などの和服と似合うものなのだろう。
ならばこの『靴』を脱いで、万が一に干渉不可というウィルの加護から対象外に置かれてしまった場合、またしても厄介が増える気がする。
リュールが住む屋敷がこの地方の一般的なものとはとても考えられない。少なくとも『様』付けで呼ばれる生活を一般的なものと凪は認めない。
そしてそんな場所で持ち主不明の履物が見つかったらどれだけの騒ぎになるのか。
姿を隠しても目の前の『狐』に迷惑が掛かることは請合いだし、だからと言って土足のままずかずかと上がる気にもなれない。
縁側の奥に覗くのは懐かしい幼馴染の家を髣髴とさせる畳の敷かれた部屋だ。
この世界に井草があるのか判らないけれど、幼い頃からの躾と慣習が凪に土足を許さない。
「ナギ様?どうされたのですか?」
「───いえ、お宅にお邪魔する際の礼儀について少々考察を」
「?」
凪の言葉に、ぱちりと瞬きをしたリュールは、今度は反対側に首を傾げた。
見上げる顔はどこまでも整っていて、桜子という特別容姿の整った幼馴染を持つ凪も、うっかりしと見惚れてしいそうだ。
美人は三日見ていれば厭きると言うが、あれは諸説だと思う。本当の美人は何年見ていてもやはり美しいのだと、和風美少女を幼馴染に持つ凪は知っていた。
ついでのオマケに伝えるなら、和風美少女から、和風美青年に変わっても見飽きない自信はたっぷりとある。
そして目の前の『狐』は、桜子と並んでも見劣りしないだろう美人だった。
彼女レベルの美形の女性は、凪の決して長くはないが、物事の判断が出来る年齢になっている人生の中で二人しかいない。
凪の母と桜子の母だ。生粋のイギリス人だった母と、大和撫子を体現していた桜子の母は国籍は違えども美形という括りで纏めても、文句をいう人間は十人の内一人いるかいないだろう。
身びいきと言うなかれ。
子供の自分から見ても母は軽やかな笑顔が似合うほわほわとした雰囲気の美しい人で、桜子の母は常に凛と背筋を伸ばして着物を着こなす華美な人だった。
「・・・ナギ様?」
「ああ、すみません。思考が少し逸れてしまいました。それよりも私に敬称を付ける必要はありませんよ。特に身分もありませんし」
「ですがナギ様は九尾の白狐。私たちの種族にとっては『始祖』様と呼ばれる特別な存在です。遥か昔、同士討ちする私たち『狐』を統率した偉大なるお方が『始祖』様───つまり私たち『白狐』の祖先とされます」
『つまり』と纏めてくださったが、聞き逃してはいけない文章が入らなかったか。
彼女は『遥か昔に"狐"を統率した存在』こそが『九尾の白狐』と称した。そしてその後、『私たち"白狐"の祖先』とも。
こういう時にだけきりきりと回転する脳みそを少し恨めしく思う。
外れて欲しい。外れて欲しいが、ふつふつと迫り来る嫌な予感が凪を捉えて放してくれない。
「ナギ様はお幾つなのですか?」
「・・・一応、17です」
「でしたら私の『祖先』様ではいらっしゃらないのですね。それでも『白い狐』はこの国の『王族の証』。そして九尾となればおそらく『始祖』様の縁続き───それもごく身内の方の出身とお見受けいたします。九尾の白狐はこの国において誰よりも尊く麗しい伝説の存在です。歴史上確認出来たのは『始祖』様のみと書にはありましたが、私もご尊顔を拝謁させて頂き恐悦至極に存じます」
「・・・・・・」
与えられた設定の重さに、面倒くさいと脳裏でうんざりと呟いた自分は悪くないだろう。
一体凪の何が悪くてこう面倒で厄介な展開にぶち当たるのか。
これでは逃げてきたあの環境と、改めて置かれたこちらの環境とどちらがいいのか秤にかけても選べない。
少なくとも自分という存在はそこまで恭しいものではないと自認するだけの判断力がある凪は、きらきらとした視線を向けてくる佳人を前に、眉間に縦ジワを入れないようにするだけで精一杯だ。
「それでナギ様のお姿は私以外の『王族』にも認識できるのでしょうか?ナギ様以外にも九尾の白狐はいらっしゃるのですか?ナギ様は『始祖』様の分布図に置かれますとどの位置になられるのでしょう?ご兄弟はいらっしゃるのですか?やはりナギ様のように輝かしい顔をされているのですか?」
矢継ぎ早な質問をするリュールの顔は、好奇心を擽る玩具を見つけた子供のように楽し気だ。
凪を見て『輝かしい』と表現したけれど、彼女の方が余程『輝かしい』顔をしている。
それこそもう、色々な意味で。
リュールの顔立ちは瓜実形をしていて、一重の切れ長の瞳やつり上がり気味の眉、白く滑らかな肌や赤く濡れた唇をなど、黙って立っているところを見れば妖艶な美女だが、ころころと変わる表情のお陰で美しすぎる顔からくる近寄り難さが払拭されていた。
しかし質問の一つ一つがどう躱すか迷うもので一々難しい。
さてどうするべきかと考えていると、縁側の向こうから割りと騒がしい足音が聞こえてきた。
「イリア様ー!!わたくし、お水をお持ちしましたぁ!」
「わたくしは布をお持ちしましたぁ!」
耳障りなほど甲高くない、可愛らしい声にぴくりと好奇心が引かれる。
先ほどの『狐』が見たら高血圧で倒れそうな勢いで走ってくる二人の『子狐』の姿を見つけ、口を噤んだリュールに密かにガッツポーズを決めた。
ふさふさの尻尾と大きな黄色の三角耳。『狐』という種族の特徴なのか、やや目じりはつり上がっているものの十分に愛らしい。
双子なのかとても面立ちが似ている子供たちは、片方はコント番組で見たようなたらいを持ち、もう片方は真っ白な手ぬぐいを手に走ってくる。
たらいを持つほうの『狐』の上の水がたっぽんたっぽんと揺れるのが非常に気になるが、今にも零しそうで零さない絶妙のバランスがとても可愛い。
「キイ、ミイ。渡り廊下は走らないよう言っているでしょう」
『ごめんなさい!』
元気よくぺこりと頭を下げた二人には、欠片も反省が見受けられない。
だがタイミングよくリュールの意識を逸らしてくれたことと、それでもたらいの水を零さないバランス感覚に、思わずグッジョブと親指を立てた。