20:自由の中で不自由な獣 その2
目にも鮮やかな着物が汚れるのも気にせず草の上にしゃがみ込んだ『狐』は、編みこんだ結い紐ごとしゃらりと髪を揺らして儚い笑みを口元に浮かべる。
諱とは、確か記憶違いでなければ、もしくはこの世界の常識が凪の世界と被るなら、その者の持つ『本名』を示すものだったと思う。
桜子と秀介の部活が終わるまで図書館で時間を潰していた凪は、図書館の主と異名を取るくらい───ちなみにこれは幼馴染からの情報───図書館に居座っていた。
お陰さまで読書量はとても多く、基本的にえり好みしなかったので学校内の図書館に置いてある本はその日の気分で読んでいた。
秀介には使えない雑学ばかり増えていると呆れられたが、脳に引っかかる知識を掘り起こしてみると、『諱』とは実名敬避俗の産物だ。
実名敬避俗とは名前を親やこの人と決めた唯一の主以外に呼ばれるのを良しとしない思想であり、確か身分が高くなればなるほどその傾向が強くなっていく。
もしも───自分の地味な運のなさを考慮して嫌でも脳裏に描いたもしもを仮定するのなら、凪はただでさえ面倒なところで更に面倒ごとを引き寄せてしまったのではないだろうか。
自らの顔をすり抜ける桜子と似た肌色の手すら無視をして、顎に手を当てて考え込む。
この際掌が自分を通り抜けているなんて気にしていられない。凪が目の前の『狐』からの干渉を拒絶する限り、ウィルがダランに戻してくれるまで同じ行為が繰り返されるのだし、一々気にしていたらミジンコ並みに小さな心臓が更に縮まる。
「・・・どうしてお声を聞かせていただけないのですか?先ほどは小鳥が囀るような声でお返事をくださったのに」
「・・・・・・」
「やはりあなたは私が作り出した泡沫の夢、淡雪のように触れれば消えてしまう幻想なのですね・・・」
今にも消え入りそうな声に引かれて、考える前に伏せていた顔を上げてしまう。
切なげに瞳を揺らした『狐』は、どうしてこんな目で凪を見つめるのだろうか。
見知らぬ人の中に一人取り残された幼子のように、悲しく哀しく瞳を揺らし、触れれない凪を抱きしめるようにそっと腕を囲うのだろうか。
わからない。ここはこの『狐』の住む家ではないのだろうか。それとも人里離れた場所で一人きりで暮らしているから寂しいのだろうか。
わからない。名前以外の情報をほとんど与えられていない凪は目の前の『狐』に対してわからないことばかりなのに、どうしてだろう。
『狐』が浮かべている表情は酷く覚えがある気がして、はんなりと眉尻を下げた。
今にも泣き出しそうで、涙を堪えて微笑む姿。
口には出さないけれど、『どうして』と何かを訴える心の内の響き。
何かを喉から手が出るくらいに必死に求めているのに、それを口に出すことを恐れて出来ないでいる姿。
どこかで見た。───けれどどこで。
思い出せない。
つくり、と頭の奥に釘を突っ込まれたような痛みが走り、思わず瞼を硬く閉じる。
奥歯を噛み締めて草に顔を埋めて痛みに上がりそうな呻き声を必死に噛み殺していると、心配げな声が頭上から降ってきた。
だがそれに応える余裕はなく、どんどんと強くなる痛みについに声が漏れそうになった瞬間、遠くから第三者の声が聞こえた。
「イリア様」
「っ」
ひゅっと息を呑む音。そしてがさがさと草が擦れる音が続いて耳に届き、意識がぱちりと弾けて痛みがすっと引く。
脂汗まで滲んでいる強さの痛みだったのに、それこそ幻のように呆気なく消えた。
頭を緩く振りながら、考えるのは『イリア』と呼ばれた人物と、そして名前を呼んだ人物について。
声は背後から聞こえたので、おそらく『狐』の姿が壁となり凪は見えなかったはずだが、一応意識して干渉を拒否することを望む。
ゆっくりと振り返れば、目の前には随分と深い位置までスリットが入った着物と、ふっこりした白い尻尾。
位置関係から考えてこの持ち主は『リュール』と呼んだ相手のはずだが、では『イリア』とは誰なのか。
「素足で庭に下りるなど、なんてはしたない真似をなさっているのですか。『女性』でありながらまるで男のような振る舞いはお止めくださいませ」
「・・・申し訳ありません」
つんとした響きを含んだ高い声は、どこか上から目線で『イリア』とやらに命令だか懇願だか注意だかをしている。
このヒステリックさは女性特有のものだと偏見を持ちつつ接客経験からの判断を下し、ならばその女性に注意されている『リュール』の字もしくは号が『イリア』で、彼か彼女か判断し難かった『狐』は『女』なのか。
字であれば一応成人した存在であろうし、号ならば文人などと凪の世界では分けられていたけれど、この目の前の『狐』はどちらなのだろう。
新たに沸いた疑問に小首を傾げて居る間にも、彼女たちの間で話はどんどんと進んでいった。
「ともかく、おみ足の汚れをふき取るための水と布をすぐに準備させます。あと、お召し物も新たにご用意いたしますので、すぐにこちらに」
「・・・・・・」
「聞いているのですか、イリア様」
どこまでも高圧的な物言いに、思わず好奇心がちらりと覗く。
立場的には彼女が下で、一応命令ではなく嘆願になるのだろうが、小説に出てきそうな勢いで上から目線だ。
スリットが深々と入った着物の間から、襦袢にしては派手で厚手な地の布が目に入って、これは別に痴漢行為ではないと誰ともなく心の中で言い訳した。
どうやら構造的に尻尾を出すためにスリットが深く入っていて、そのままだと素肌が露になるので、おそらく尻尾の周りを紐で結び合わせるタイプの地が厚い襦袢(?)を羽織っているのだろう。
好奇心から来た観察と推測を脳裏でまとめて結論を出すと、地面に手を付いて立ち上がった。
そのままスカートなどに付いた草や埃をぱんぱんと払えば、ぴくりと目の前の身体が揺れる。
そして日本人らしく空気を読むスキルを発動した凪は、彼女の心配に思い至るとあっさりとした態度で言葉を発した。
「大丈夫ですよ」
「・・・・・・」
凪の声に反応し、『彼女』が視線だけでこちらを振り返る。その拍子に髪に結われた紐が揺れて、白に映える色合いだと思わず感心した。
その間もキーキーと猿のように喚いているお小言は感心するほどに溢れているが、右から左へ受け流す。
見てみたいと思っても、話を聞きたいとは思ってない。どうせ凪には関係がない小言ばかりだ。
衣服から大凡の汚れが落ちたのを確認し、ほてほてと無造作に歩き出す。
咄嗟に考える前に動きそうになった彼女の腕を押し留め、そのまま身を前に乗り出した。
勿論反射で押さえ込めたわけではなく、動きが予想できたからこそその腕の動きを留められただけだ。
運動音痴と自信を持っていえる凪でも予想が立っていればこの程度なら出来る。
もっとも、これは『狐』の彼女の腕にさして力が入っていなかったから出来たことだ。
彼女が『女性』ではなく『男性』で、尚且つもっと力を篭めていたら後ろに押されてたたらを踏んだ挙句に転んだだろうと自信があった。
「ああ、なんでしょう。いかにも予想していた雰囲気で、でも種族は違いますね。あまりにキーキーと喚くものなのでてっきり『猿』かと思いました」
「ふっ」
思わず零れてしまった、とばかりに、小さく笑い声を漏らした『白狐』に、見慣れた狐色の『狐』は、凪の思い描く狐らしい一筆書きしたような細目を益々吊り上げて、細い顎をつんと天に向けた。
折れそうな細い身体で胸を張るものだから、庭と呼ばれるこの場所よりも高い位置にある室内から転げ落ちないか余計なお世話だが心配になる。
あまりにお約束な人物なので、そこまでお約束だったらある意味美味しいけれど、どうなのか。
まるで日本の時代劇に出てきそうな屋敷の造りをしている。
例えて言うなら、寝殿造の武家屋敷だろうか。この世界に来て初めて見る和風建築だ。
よくよく観察すれば、松に似た木や、朱色に塗られた太鼓橋の掛かった池も見受けられるし、随分と広い敷地だ。
しかしそれにしても景色がおかしい。すぐ目の前───と言っても距離的には結構あるけれど───には壁があるし、池だって視界の隅に漸く移る程度のもの。
『様』付けで呼ばれるなら身分としては相当なものであろうに、彼女の立場はなんなのだろうか。
だが凪の関心が深い場所に落ちる前に、再び目の前の『狐』らしい『狐』の女性に考えを切られた。
「・・・何がおかしいのです、イリア様」
「───いえ、なんでもありません。すぐに移ります」
「結構です。それでは召使を呼びますので、腰掛けてお待ちくださいませ」
自身の主張が通れば満足らしい『狐』の女性は、背中をしゃんと伸ばしてそのまま行ってしまった。
彼女の前では能面のように表情を浮かべなかった『リュール』は、胸に手を当ててゆっくりと息を吐き出す。
そして全身の力が抜けてしまったように腰から砕けて再び地面に座り込んでしまった。
これではまたあの『狐』が戻ってきたときに怒られてしまうのではないだろうか。
再び草塗れになった着物を眺めて小首を傾げると、そうっと掌が伸ばされる。
立ち上がりたいのかと思い彼女の手を掴めば、心底嬉しそうにへにゃりと眉尻を下げて、緊張感のない笑顔を綺麗に嬉しげに浮かべた。
「ああ、やはり触れれるのですね。あなたは夢でも幻でもなく、私の前に存在し、私の真名をご存知でいらっしゃる」
「・・・やっぱり『リュール』が本名なんですね。でも諱と言うからには『イリア』とお呼びしたほうがいいんですか?」
「あなたの姿は彼女には認識出来ていなかった。そしてあなたの声も彼女には届いていなかった。あなたは私以外の誰にも見つけられない存在なのですか?」
淡い微笑みを浮かべた彼女は、握ったままの凪の掌にそっと力を篭めてきた。
痛みは感じない。おそるおそる、存在を確かめるような強さに、思わずこちらが苦笑してしまう。
つい先ほどまでラルゴたちとの荒事の最中にいた身としては、彼女の扱いは過分にいたみいるもので、どうせ帰れないなら協力者が必要だと打算も働きこくりと一つ頷いた。
するとまるで蕾が花開いたように輝かしくも艶やかな笑みを浮かべた彼女は、握ったままの凪の手に己の掌を重ねようとして、それが通り抜けて自分の手と重なったのに目を伏せる。
あくまで干渉は凪から行ったものでなくてはならない。これはこの世界にウィルが植えつけた不文律の一つで、『神の愛し子』である限り破られない約束事。
残念そうに耳を伏せた彼女には悪いが、そこまで心を許していないので仕方ない。
暫く俯いて沈黙を通していた彼女は、顔を上げると健気にも微笑んだ。
「私のことは真名でお呼びください。あなたの声が私以外に届かぬなら、どうかそれをお許しください」
もって回った言い回しだ。凪が許しを請うなら兎も角、どうして彼女が名前を呼ばれるための許しを請うのだろう。
意味は判らない。けれど切実な想いは伝わってきたし、特に異論もないので頷いた。
「私の名前は凪です」
「・・・私に名前をお許しくださるのですか?それとも諱でしょうか?」
「諱ではなく本名です。暫くの間私は帰れないみたいなので、どうぞ親しくしてください」
そう告げて深々と頭を下げる。
そのままの反動を利用して顔を上げると、何故か先ほどまでよりも遥かに輝いた笑みとがっちりと視線が絡んだ。
こうしてまた、新しい縁が一つ結ばれた。