19:人は慣れる生き物である その9
『かはっ』と声なき声を漏らした鷹は、貼り付けにされていた壁から落ちた。
冷蔵庫にくっついていたマグネットが力を落として床に剝がれる様と少しだけ似ているなんて感想を抱いていると、慌てたようにラルゴとゼントが駆け寄って床と顔面キスする前にギリギリで支える。
「大丈夫か、ラビウス」
「───・・・」
「喉をやられたんですか?吐血していないですし内蔵は大丈夫に見えますけど、骨は折れてませんか?」
大きな翼を重たそうにだらりと下げた鷹の顔色は芳しくない。
しかし言葉を放たなくとも凪に向ける視線の強さだけは変わらず、思わず眉間に皺が寄った。
腹黒で陰険なのだから頭も良いのだろうし、少しは学習して頂きたい。
思わず嘆息する前にラルゴが先に動いていた。ごん、と結構いい音が響いて、こちらを睨んでいた視線が消える。
頭を押さえる気力も無いのか無言で悶絶する鷹に向け、呆れ交じりのため息がこれ見よがしに思い切り響いた。
「お前少しは学習しろよ。お嬢がフォローしなきゃ、お前が心酔する神様とやらに世界の異物として消されてたんだぜ?俺の拳程度ですんで感謝しろってんだ。てか、お前俺のお嬢に攻撃魔法を向けたのかよ。もう一発行っとくか?」
「ラルゴさん止め」
慌てたようにゼントが止めに入る前に、ドガンと拳が入った。動けずに居る友人相手に随分と容赦がない。
ラルゴなら彼の実力と限界を知っているのかもしれないが、それにしても凄い。
強かに床に額を打ち付けて、絶対にたんこぶが出来たなとウィルの膝の上で大人しくセクハラを受けてながら観察していた凪は、視界の端に大人しい狼を捕らえて一つ嘆息した。
気がつけば少しだけ椅子をずらしていただけだったガーヴは、ちゃっかりと部屋の隅っこまで避難を終えている。
その居場所変わって欲しいと心から願いつつ、現実的な心がそれは無理だとセルフツッコミで断言した。
この世界はウィルの世界。異界である凪本来の世界でもなす術も泣く連れ去られたのに、彼の土俵である世界でウィルから逃げるなど無理に決まっている。
自慢じゃないが、子供の頃から鬼ごっこで逃げ切れたためしはない。
凪を捕まえる相手は、鬼じゃない限りフォローに回ってくれる桜子と秀介だけだったが、この場には二人も居ないし、子供の遊びどころか相手は鬼どころか『神』だ。
いくら運動神経抜群の幼馴染相手とはいえ子供相手に逃げ切れなかった凪が、神様相手に勝てるはずがない。
じっとしていればいいかくれんぼなら得意だったけれど、この世界で彼の目が届かない場所などないのだろう。
シースルーのアイマスクで目隠ししつつ、こちらの動きをしっかり確認されているのと同じだ。最初から堂々とイカサマをする相手に真っ向から挑むしかない凪が勝てるはずもない。
もっとも基本的にウィルと勝負をしたいなんて考えるほどアグレッシブな気質でもないので、彼に挑む相手を眺めてその実力を噛み締めるだけだ。
盲目的に神を敬い、それ故に実験対象として『神の愛し子』を観察し、解析しようとした鷹を見詰める。
ふるふると羽が震えているので気絶はしていないようだが、ただでさえ負担を強いられた身体にラルゴの鉄拳制裁が二発。さぞかし痛い思いをしたらしく、彼の様子を窺って脇で控えていたゼントも一緒に痛そうな表情をしていた。
「お嬢」
「何?」
「こいつ───ラビウスはちょっとばかり陰湿で陰険で腹黒で性格悪くて捻じ曲がってるし陰湿だが」
「ラルゴ、二回陰湿って言ったよ」
「おう、そこは重要だからな。・・・じゃなくて、だな。これでも一応俺の古い馴染みなんだ。お嬢の分もやり返しといたから、これで許してやってくれねえか?」
眉尻を下げて苦笑したラルゴは、もしかしたら悶絶する鷹よりも年上なのかもしれない。
落ち着き具合と見た目でてっきり鷹が年長者かと思ったけれど、彼の仕種は兄が弟の悪戯を詫びるときのものと酷似している。
悪戯っ子な双子の弟妹が身近に居て、なんだかんだで長男の幼馴染がその対応で頭を下げていたのを思い出し、微かに口角が持ち上がった。
何故か金色の瞳を丸くしてガン見してくるラルゴに軽く手を振ると、自分を抱きしめて放さないウィルの腕を一応掴む。
まさかないだろうが、凪の返答次第では簡単に力を行使してしまいそうな彼の機嫌を取るにはスキンシップが一番だ。
とりあえず触れただけで機嫌が良くなったらしいウィルが勝手に髪を結い始めたのを放置しつつ、ラルゴに向かって口を開いた。
「いいよ」
「へっ?」
「『へっ?』って・・・許して欲しいって言ったよね?なんで驚くの?」
「そりゃ驚くだろ。普通は初対面の男にいきなり攻撃魔法をぶっ放されて、次に会うときに捕獲され、ついでに罵倒に近い言葉まで並べ立てられれば頭に来るものだろ?なんならお嬢も一発行っとくか?」
未だに悶絶する鷹の襟を掴んだ彼は、海老ぞり状態で上半身を無理やりに持ち上げて指で示す。
『友達』っぽいのに明らかに乱雑な扱いに、男同士の友情とはああなのだろうかと首を傾げた。
凪はクラス内で話しかけられれば返事はするが、学校の外でも親しくしているのは桜子と秀介の二人だけ。
考えてみると親しい友達も碌に居ない根暗な学生生活を送り続けてそれすら疑問に思っていなかったからわからないけれど、もし眼前に広がる光景が男同士の友情の証なら女に生まれてよかったと思う。
「必要ないよ。私は面倒ごとは嫌だから」
「───くくっ、だな。お前はそういう子供だ、凪。他人に興味もなく、感情はあるのに今にも崩れそうなバランスで絶妙に立っている。それでこそ俺の『愛し子』。どこまでも歪んで壊れる前の刹那の美を保つ魂は、愛でる価値がある美しさだ」
「テメェ、お嬢を貶す気か?」
ラルゴの声が低く唸るようなものに変化した。うるうるうるとどこから出すのか、獣のような不思議な鳴き声。
これは彼の警戒音だと短くも地味に濃密な付き合いの中嫌でも悟っているので、またこのパターンかと首を振った。
物怖じしないラルゴは、基本的に『神』であるウィル相手でも態度が変わらない。
あれだけ叩きのめされて、さっきの様子だと確かに恐怖も植えつけられている様子なのに、それでも彼は一歩も引かない。
この姿が無謀なのか、愚かなのか、それとも器の大きさから来るものか、凪にはいかんせん判断が付き難い。
けど、ラルゴのこの率直でありながら大人としての分別も弁えた器の大きさは、純粋に尊敬する。
自慢じゃないが凪の器の大きさはミジンコ並だ。大切なもの以外はどうでもいいし、興味も関心も無い。
自分に害がない限りは目の前で誰が喧嘩してても傍観しているだろうし、子供が相手なら庇うだろうが、状況に寄るけれど大人なら基本的に手出しはしない。
ウィルの言葉は嘘じゃない。
何を持って普通と判断するのか知らないけれど、少なくとも凪の心は『普通』と断言するには、歪んで捻くれているのだろう。
注がれても注がれても満たない心。
暴力を振るわれそうになれば恐怖を感じるし、厄介ごとから逃げたいとも思う。
子供を見れば無条件に可愛くて大切にしたいし、護衛として心を砕いてくれるラルゴも嫌いじゃない。
───けれど、それだけ。
それ以上の価値もなければ、それ以上の想いもない。
いつかウィルは凪の心には穴が開いていると言っていた。
誰からの感情を注がれても満たされることは無く、上辺だけを通り過ぎていく。
こちらの世界で一番親しくしている獣人であるラルゴから受ける感情だってそうだ。
優しくしてもらっている。大切に扱われている。自らの身体を盾にしても庇ってくれているし、出来る限りの心遣いで単なる雇い主として以上に大切にされてるのも本当は理解している。
けれど、それはウィルが言う通りに無意味なのだろう。
凪の心の器には穴が開いている。どれだけ注がれても満ちることはないし、満たされたいとも思っていない。
唯一の例外は二人の特別な幼馴染だけ。凪のために世界を捨ててくれた彼らの『愛情』だけ、凪は受け入れることが出来る。
幼馴染の彼らは唯一心を捧げても惜しくない、欠けた器にも『想い』を留めさせてくれる特別なのだ。
ウィルの発言で剣呑に視線を尖らせたラルゴに、『気にしないで』と淡々と告げた。
だって彼の言葉は嘘じゃない。真実だけしか口にしてないし、嫌になるくらい自覚がある。
凪は───凪が損得なしに迎え入れれるのは、世界を超えて魂を繋いだ二人だけなのだから。
「ラルゴ、怒らなくていいよ。実際にウィルの言葉通りなんだから。私がウィルの『愛し子』に選ばれた理由。それは世界への執着が無く、世界から消えても問題が無く、なんでか判らないけれど私の容姿と壊れた魂が彼の好みだったからなんだよ」
「・・・お嬢?」
「危害を加えられるのなら、全力で逃げる術を探します。私は生きていないといけないから。けれどそうでないなら、あなたに欠片の興味もありません。あなたが私を憎もうと、羨もうと、蔑もうと、妬ましく思おうと、全てがどうでもいいんです。私にとって、あなたは『価値がない』存在です」
ラルゴによって無理やりに頭をこちらに向けられた状態の鷹と視線を合わせ、きっぱりと宣言した。
凪にとって真の意味で無条件に特別なのは、桜子と秀介の二人だけ。
彼らさえ居れば自分の世界は回っていく。ここが異世界であったとしても、彼らが居れば幸せに暮らせる。
もう二度と元の世界に戻れなくとも、嘆く必要も、哀しむ必要もない。
驚いたように息を呑んで展開を見詰めるラルゴとゼント。そしてついでのおまけで、隅っこに椅子を持って行ってこちらの様子を窺うガーヴも、まん丸に瞳を丸めている。
切れ長のこげ茶色の瞳を見詰めてきっぱりと断言すれば、無言のままでありながらも、あからさまに驚愕の表情を浮かべた彼は、初めて『凪』を真っ直ぐに瞳に映した。