19:人は慣れる生き物である その8
唐突に現れた異界の神は、いつも通りに凪を抱いて上機嫌である。
先ほどから足の下で『むぐう、むぐぐ』と呻くラルゴを空気の如く無視するさまは、幼稚園の子供の喧嘩のようだ。
そう言えばずっと小さな頃、桜子と秀介が本気で喧嘩したとき、凪を挟んで互いを無視しあいながら器用に遣り合っていたのを思い出す。
人間というのは───獣人もだろうが───不思議なことに、喧嘩をしてる最中の相手との意思疎通は半端ない。
例えば視線一つ絡んだだけで互いの言いたいことを察知して即座に発展したり、左右から握る手を片方が引っ張ったのを皮切りにガンの付け合いが始まったりと、気が立ってるだけに通常の何倍も敏感でエスパー並だ。
「んぅん!んー!ふごう!」
「ふ、ははは!聞いたか、凪。『ふご』とか言ったぞ、こいつ」
「・・・ドン引きです。人の頭思い切り踏み躙って高笑いって、どんだけどSですか。やめてくれませんか?ラルゴを無意味に虐げるのは」
「無意味じゃねえし。俺の『愛し子』を無断で抱いていた。それだけで、存在ごと消してもいい罪だと思わねえか?」
ゆるりと持ち上がった口角から真珠色に輝く犬歯が覗く。酷薄な唇は残忍な笑みの形に歪んでいた。
しかしこの異界の神にはこんな表情が良く似合う。女性的ではないが綺麗で繊細な顔立ちは精悍でありながら男臭さがない。中性的というには格好良すぎる顔で、彼は鮮やかに冷笑した。
この世界で頂点に近い位置に居る『龍』。そしてその中でどの程度のランクか知らないが、確実に実力があるラルゴ。
ウィル自身も長身だけれど、ラルゴはそれを優に上回る巨漢だ。細さで行けばウィルはラルゴより遥かに細い。
それでも押さえ込まれているのは倍以上筋力が付いているように見える『龍』のラルゴで、存在と格の違いをまざまざと見せ付けられた。
唐突に現れた『存在』に腹黒コンビは息を呑み、悪い夢を見ているように瞬きを繰り返す。
唸るような声を出し眉間に深く皺を刻み込んだのは『虎』のゼントで、顔から血の気が失せた状態で机の上で握り締めた拳を震わせるのは今までクールに振舞っていた『鷹』。
彼らの顔には明らかな恐怖が浮かび、自らが敵わないと言外に敗北宣言をした相手を易々と足蹴にする『存在』を瞳に焼き付けていた。
ちなみに凪の服の裾を掴んでいたガーヴは何気なく視線を逸らしながらそそくさと椅子を移動させている。実に賢い選択だ。
そう言えば昨日の夜ウィルに最初の躾が肝心とばかりに電撃を喰らっていた。
いつも元気な彼がギルド内に足を踏み入れてから静か過ぎるのは少し心配だけれど、話を進めるには丁度いい。
割り切って軽く嘆息して今日も唯我独尊を絵に描いた神様を頭の上から退ける。
首を直角に近い角度で曲げて自分とお揃いのピジョンブラッドを、半眼になって睨んだ。
「思うわけ無いでしょう、下らない」
「そうか?お前は俺の『愛し子』なのに?」
「あなた、私が傅かれるのは好きだと仰ってませんでしたか?それにラルゴは私を守るために懐に抱いていただけです。この世界で私の存在は異質であると同時に虚弱。元の世界でも運動神経の無い上に筋力も体力も人並み以下の私が、庇護なしで生きていけるわけないとご存知でしょう?それなのに護衛として私を守ってくれる最高の保護者を失えば、私の存在そのものが脅かされます」
「・・・だから俺はお前に加護を与えてやっただろうが」
「どこででも扱えるものではないでしょう?ウィルからの加護は私にとっては諸刃の剣です。ともかく、今すぐラルゴから足を退けないなら、金輪際私に触れないでください」
腕を組んでつんと顎を逸らせば、凪抱きしめていた腕の力が僅かに緩む。
この世界でも実力では最下層に位置する凪だが、目の前の虎や鷹に怯えても、最上位の更に上を行く神には何故か恐怖を感じない。
何故なら凪を腕に抱くこの神が自分を傷つけるはずがないと、不思議なくらいに無条件に信じれるからだ。
彼は桜子や秀介じゃない。心を許すわけじゃないけれど、ウィルが抱く凪への執着心は自分が二人の幼馴染に対して持つものと酷似しているので理解できた。
一目惚れなんて眉唾物でも、この骨の上の薄皮一枚を気に入られ、壊れかけの歪な魂を眺めて哂いながらでも優遇してくれるなら助かる。
この異世界で幼馴染たちと合流するまで凪が生きる術を確立できるなら、それはとても重要なものなのだから。
さてこれでラルゴを踏み躙る足を退けられると内心で算段を立てていると、意外なところから横槍が入った。
「───先ほどから聞いておれば、主は一体何様のつもりだ」
「・・・・・・」
「目の前のお方をどなたと心得る。このお方は地に額づいて崇め奉っても足りない至高の存在。主がなんと呼ばれておろうと、加護を受けるものであれば敬うのが当然ではないのか。この愚鈍なる」
「黙れ」
「っ」
ただの一言。何かをしたように感じないのに、ウィルの言葉で座っていた鷹は吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。しかし不思議と衝撃音はしない。
強風に押されて壁に貼り付けられるような状態で動けずに居るのに、明らかな圧が掛かっていくのが目で見えていても、壁にも傷一つ入っていなかった。
恐らくウィルがなんらかの力を働かせているのだろう。そうじゃなければ状況がおかし過ぎる。
「ラビウスさん!」
咄嗟に声を上げたゼントが椅子をなぎ倒して立ち上がると、そのまま助けに走った。
短い距離だ。凪が数度瞬きするかどうかの間に鷹に駆け寄った彼は、貼り付けになった仲間を助けようとその腕を掴んだ。
だが壁に足をついて顔が赤くなるほど力を篭めても、壁に縫い付けられたように鷹は剥がれない。
幾度も目にしているが、やはりウィルの力は別格だ。神だから当たり前なのだろうけれど、恐るべき実力に圧倒される。
何をしても自分の力ではどうすることも出来ないと悟ったのか、色白の肌を青褪めさせたゼントはこちらを振り返りウィルに向かって叫んだ。
「ラビウスさんはあなたを擁護しようとしたはずだ!何故その彼をこんな目に合わせるのですか!?」
「その鷹が俺の『愛し子』を愚弄したからに決まっているだろう。感謝しろ。凪が嫌がるから『存在』は維持してやったし五体満足で生きてるだろう?」
「ですが、ラビウスさんは───ラビウスさんの一族は、世界でも有数の神を信仰する種族です。あなたがもし俺たちの想像通りの存在であるなら、彼の気持ちも汲んでくださってもいいのではありませんか!?」
日頃の冷静さをかなぐり捨てたゼントの焦り具合で、ウィルが彼らにとってどれだけ桁違いの位置に居るのか改めて心に刻まれた。
ウィルは凪に対しては飼い犬をどうしようもなく溺愛する親馬鹿と同じ態度だけど、その他には自分の世界の住民にでも大した思い入れがないのではと思うくらい淡白だ。
一人が消えたところで世界のバランスは崩れない。言葉ではなく態度で示す彼は、感情のあり方が人とは違う。
人間である凪とも、獣人であるラルゴたちとも、価値観も何もかもが違い過ぎるのだ。
世界と凪を天秤に掛ければどうするかわからないが、目の前で自分を敬う自身の世界の獣人よりも凪を優先させる感性の持ち主は、鮮やかな笑みを浮かべて鷹に掛けた圧を更に強めたらしい。
メキメキと骨が軋む音がして、苦痛に歪んだ顔からは冷や汗が滲み出ている。
このまま放っておけば明らかに骨折どころか骨の粉砕は免れないし、最悪内臓破裂などもありえるかもしれない。
「そんなの知るか。お前らが俺に対してどんな妄想を抱いていようが自由だが、俺が特別と思うのは世界の中でも『凪』だけだ。これは俺のもの。俺の『愛し子』。凪は俺の唯一の『愛し子』。この娘を愚弄するなら、俺を愚弄するのと等しい。引いては俺の作った世界を愚弄するも同意だ。───それにお前なんだろう?俺の可愛い凪に向かって攻撃魔法を仕掛けたのは」
凪を片手に抱き上げた神は、残忍な色を瞳に宿したまま足蹴にしていたラルゴから足を持ち上げる。
そしてそのまま貼り付けにしたまま呻き声すら漏らせず身体のあちこちから嫌な音をさせる『鷹』と、顔面蒼白になり立ち尽くすゼントに向かい歩を進めようとしたが、ふと動きを止めた。
「俺に楯突く気か、駄龍。お前が俺に勝てるとでも?」
「阿呆、勝つどころか一矢報いれる気もしねぇよ。それでも目の前で悪友がやられるのを見て見ぬふりするわけにいくか、ボケ」
先ほどまで頭を踏み躙られていたラルゴは、いつの間にか自身の武器を持って貼り付け状態の鷹と、不肖の弟子と称したゼントの前に立ち塞がっていた。
額から滲み出るのは明らかに冷や汗だろう。以前ラルゴは徹底的にウィルとの実力差を身体に教え込まれている。
それでも尚且つ立ち上がり、『悪友』を庇おうとする姿は勇ましくも格好いい。
さすが凪が選んだ保護者だ。包容力は並以上に溢れていて、無謀にも近い勇気は自分にないものだからこそ尊敬する。
だがここでラルゴが立ち塞がれば、今度こそウィルがどんな行動に出るかわからない。
凪としては自分がウィルにとってどのような立場かを目の前の腹黒コンビに理解してもらいたかっただけで、口で説明するより早いと思ったから普段を見せたのだが、このまま無責任に放置して惨状を生み出すつもりは無かった。
いくら腹黒コンビに地味に精神的に追い詰められたとしても、虎の威ではなく神様の威を借りて十分に自分と彼らの立場の違いを明確化で来たから十分だ。
だから。
「ウィル」
「・・・なんだ、凪?心配しなくてもすぐ終わらせる。大丈夫、消さなければいいんだろう?」
つん、と服を引っ張って意識をこちらに向ければ、蜂蜜とメイプルシロップを目一杯掛けたような甘ったるい微笑みを浮かべたウィルは、指先で凪の髪を一房を持ち上げるとリップ音を立てて口付ける。
そんな彼の頬に手を当てて、彼が好む僅かに小首を傾げた仕草で上目遣いにピジョンブラッドの瞳を見上げた。
「私、人が痛がるのを見て愉しむ趣味はありませんと昨日伝えたばかりでしょう?もう止めてください」
「だが」
「だがはなしです。止めてくれるのなら、私はウィルに感謝します」
「───感謝して俺を敬いつつ一番に特別扱いするか?」
昨日と同じ要求をした神様に軽く嘆息すると、腕に腰掛けているために少し背を伸ばせば届く髪をゆっくりと梳いて苦笑した。
「そうですね、善処します」
「よし。それなら仕方ないから俺も我慢してやる」
にこにこにっこりとついさっきまでの殺気すらない純粋な想い故の『消滅』宣言を撤回してくれた神に、やれやれと首を振る。
瞬く間に最初と同じ位置に転移したらしい彼は、また膝に凪を抱き上げると頭の天辺に顎を置いて機嫌を上昇させた。
『善処する』とは日本人独特の曖昧な拒否の言い回しであることに、ありがたくも異界の神は気づかないでいてくれた。