3:一人目の彼
さあさあと雨の音がする。
激しく叩きつけるような強さは無く、学校の図書室で一人本を読んでいた放課後を髣髴とさせるような、優しくて静かな雨。
桜子と秀介が部活の間、彼らを待つ凪は所蔵が多いのに人がほとんどいない図書室で時間を潰していた。
一番奥の窓際の席。
凪は特に雨の日の特等席がお気に入りだった。
図書室に居る司書は湿気が続くと本がしけるとぼやいていたが、強く叩きつけるような雨も、霧が生まれる細かい雨も、読書のBGMとしては丁度よかったから。
晴れの日のグランドから聞こえる部活中の生徒の声より、余程好んでいた。
「・・・い」
「・・・・・・」
「おい、起きろ。起きろよ」
ぼんやりと定まらなかった意識が徐々に一つに絞られる。
聞いたことが無い声だが、凪に対して嫌悪感や悪意はなさそうだった。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、最初に目に入ったのは黒い空。
夜なのかと瞬きを繰り返し、雨の音がするのにちっとも濡れないのに小首を傾げる。
しかし肌はしっとりと湿っており、肌寒さに一つくしゃみをした。
「あんた、『人間の女』か?」
黒い空から声が降ってくる。
違和感を感じて手を伸ばしたら、ぼすりと空に手が埋まった。
「っ、マントに触れるのか?」
「マント?」
バリトンの声に首を傾げつつ、触れたそれを握って引っ張る。
そうすると黒い空は取り払われ、代わりに緑が茂る木々と一対の金色に輝く瞳が目に入った。
冴え冴えと輝く月の色ではなく、朧月夜のようにけぶる金目は深みのある色に熟成され、眇めるようにして凪を見詰める。
顔を覗きこむようにしているので背中を屈めているが、それでも随分と長身なのは判った。
秀介がプレイしていたRPGに出てきそうな格好をした彼は、割りと露出の多い服から覗く浅黒い肌には幾つも傷が走っている。
むき出しの二の腕は凪の太腿と同じくらい、否、もしかしたらそれよりも太くしっかりした筋肉がついている。
太目の眉がきゅっと顰められ随分と強面に見えるが、人によっては精悍だと好まれそうに整っていた。
簡素な鎧のようなものをつけた腰には、槍にも斧にも見える武器を下げている。
ちらり、と観察して瞼を閉じた。
全く知らない相手だ。
そして凪が異性と接近していると必ず聞こえる怒声もない。
「・・・やられた」
額に手を当てて大きく息を吐く。
凪は秀介や桜子と違い武道の心得は無い。
それでも自分の傍に慣れ親しんだ気配が無いくらいはわかった。
つまり、一緒に飛ばされたはずの桜子は、誰とも知れぬ相手に凪が接触されても威嚇できない場所に居るということだ。
確かに同じ場所に飛ばすという条件付けはしなかったが、まさかしょっぱなから離されると思ってなかった。
あの異界の神は矛盾に満ちている。
一人で残されたら何も防衛できない凪は、どんな危険があるか判らない異世界で生存確率がぐんと減る。
それなのにあえて桜子と離すとは、一体何を考えているのか。
「おい、聞いてるのか?あんた『神の愛し子』なんだろ?」
物思いに耽っていた凪に、また頭上の男性から声が掛けられる。
訝しげに首を傾げながら問う彼について、じんわりと知識が浮かんできた。
疑問に対する回答が、まるで和紙を水に落としたようにゆっくりと滲み出る。
これが異界の神が与えてくれたオプションの一つかと、男性をじっと見詰めて意識を集中した。
目の前の男性は龍だ。
異界の神が作り出したこの世界は、様々な種族に溢れている。
凪の知識にあわせると、一番近い回答は人の代わりに獣人が支配する世界だというもの。
それぞれ獣とは異なり特徴的な力のみを受け継いでいる。
金色の瞳に縦に瞳孔が開いている彼は、『龍の一族』だが純然なる『龍』ではない。
人型でありつつ龍の力を強く継いだ獣人。
特徴的な蜥蜴を思い起こさせる太い尻尾は赤く、赤龍の系統と推測できた。
どうやら『神の愛し子』はこの世界には伝説上の生き物として伝わってるらしい。
数千年に一度世界のバランスが崩れたときに人知れず神が召喚する、『人間』。
いつどこで誰が召喚されたか判らないのに、この世界の生きとし生けるものは例外なく『神の愛し子』を見ればすぐに判るという本能が刻まれている。
異界の神が何を考えてこの世界の住民にそんなオプションをつけたのか判らないが、少し話しただけでも彼を理解するのは無理だと諦めているので問題ない。
「おい、あんた。聞いてるのか?俺の言葉理解できないか?いや、だがさっきはちゃんと俺と同じ言葉を話してたよな?」
痺れを切らしたように顔を近づける男性に、眉間の皺を深くする。
秀介以外の異性がこれほど至近距離に接近したこともない上に、パーソナルスペースはそこそこ広いと自覚する凪にとってこの距離は本意ではない。
ついに我慢できなくなったのか凪に手を伸ばした男性の手は、だがしかしするりと突き抜けた。
自分の身体の中に腕を突っ込まれた凪は固まり、男性は鋭く舌打ちする。
驚きがないことから、もしかしたらもう何度か繰り返した行為なのかと推測できたが、己の身体を他人の腕が突き抜けるなどという人生初体験をした凪は衝撃が去るまで暫く動けなかった。
「チッ、やっぱ駄目か。マントには触れれるみたいなのに、なんでだ。けどさっき俺がマントを掛けようとした時はそのまま地面に落ちちまった。そのくせ雨にも濡れてるから実体が無いわけじゃないはずだし、事実自分から手を伸ばして掴んでた。なぁ、あんた。『神の愛し子』って奴は全員触れれねえのか?」
「多分、私は特別製だと思います。神の祝福(と言う名の呪い)に掛かってますので」
「ちゃんと話せるのか。『神の愛し子』は異世界人だと聞くが」
「知識は与えられました。だからあなたが『龍の人』だというのも判ります」
「そうか、俺が龍だってのは判るんだな」
「はい」
頷けば漸く目の前の男性は凪に突っ込んでいた手を引いてくれた。
ついでに身を起こし離れていく。
お陰で漸く身動き取れるスペースを確保した凪は、地面に手をついて上半身を起こした。
短い草の上に直に寝転んでいたので、背中が少しちくちくする。
雨が降っているのできっと服は盛大に汚れているだろう。
身につけているのはこちらに来る前に来ていた学校の制服だが、男性が口にしたように雨に濡れていたらしくしっとりと身体にへばりつく。
あまり気持ちの良いものではない感触に嘆息したが、着替えは持っていない。
確かこの世界には異界の神がくれた屋敷があるはずだが、そこには着替えもあるのだろうか。
そんなことを考えていると、再び目の前の男性が口を開いた。
「なあ、あんた。どうして俺はあんたに触れねえんだ?特別製って言ってたけど、その色違いの瞳もそうなのか?」
「色違いの瞳?」
覚えの無い言葉に思わず首を傾げると、目の前の男性も釣られたように同じ仕草を取った。
見た目は厳つい彼の幼く見える動作を不思議に思いながら、段々と沸く嫌な予感にまさかと小さく息を呑んだ。