18:どうしたって、流れるままに その2
予め瞼を閉じていろと言われていた凪が、再び瞼を開けたときにはもう見慣れた宿屋の一室に移動していた。
塵一つない室内は、暫く留守にしていたとは思えぬほど何も変わってないように見える。
いや、塵一つないというなら室内の清掃はされているのかもしれないが、どうなのだろう。
どうせ盗まれても困るものは何もないし、勝手に触れられて嫌な私物もない。
敢えて言うなら下着は嫌だが、まあ凪の下着を盗むよりも、普通に服を盗ったほうが需要はありそうなので考える必要もないだろうが。
「うぉー、目が、目がぁー!!」
「・・・・・・」
ごろごろと床を転がりながら、どこか聞き覚えのある台詞を漏らした相手に視線を向ける。
赤い髪が眼にも鮮やかな龍は、太い尻尾を下敷きにしても気にせずに悶えていた。
そう言えば移動の瞬間に景色が急に変わるので目を閉じろと凪はウィルから聞いていたが、ラルゴには何も注意していなかった。
苦しむ様が自分の伝言忘れだと思うと───初めからウィルには期待してない───なけなしの良心も疼くというものだ。
思わず手を伸ばして上体をそちらに向けたら、バランスを崩して視界が反転した。
しっかりと下半身を押さえ込まれているので落ちることはないが、ウィルの腕に腰掛けていたのを忘れるなんて大したうっかりだ。
それだけラルゴに意識を奪われたということでもあるけど、頭に血が上りそうだ。しかも無理な体勢で腰が痛い。
この状況で腕もぶらりと万歳の状態になっているのに、床へ届くことはなかった。
スタイルがいい異国の神の一種独特な白い服から覗くすらりとした長い足を見てしまい、こんなとこにスリットが入ってたのかとどうでもいい発見をしてう。
そしてそのまま視線を右にずらして、一瞬本気で息が止まった。
「っ!?」
「目が、目がぁ!!滅茶苦茶痛い!」
こちらもラルゴと同じように、しかも似た台詞を放ちながら転がっている『狼』の姿に逆さまになったまま目を丸くした。
そしてウィルの服を手で掴んで引っ張ると、懸命に彼の意識を引く。
どうせラルゴを気に掛けたからだろうが、不機嫌そうに頬を膨らませて子供のように拗ねている異界の神は、ちらりと視線だけで凪を見た。
そんな彼に疑問をぶつけるべく口を開きかけ閉じると、代わりに両腕をそっと差し出す。
綺麗なピジョンブラッドの瞳を僅かに見開いた彼は、きょとんと一つ瞬きしてから何を求めているかを察すると上機嫌な猫のようにすいっと細めた。
片手でしっかりと凪の両足を掴んだまま空いた手を差し伸べれば、どんな力を使ったのか目の前に掌があるにも拘らず背中から押し上げられた。
無理のない態勢だったので痛みもなくすとんと再びウィルの腕に収まり、当然の権利を施行する様に、眼前まで持ち上げた凪に頬を摺り寄せてくる。
相手が相手ならセクハラで訴えていい場面だが、神様相手に凪の常識も通用しないし、誰に訴えればいいかも判らない。
完全勝訴の裁判でも裁判官がいなければ意味がなかった。
暫く彼の機嫌が落ち着くまで好きにさせ、酷薄な唇が頬に当たりそうになったところをさり気無く身を引いて口を開く。
「ウィル」
「何だ?」
「どうしてガーヴがここに居るの?」
目を押さえたまま、銀に近い灰色の毛並みの三角のふさふさな耳をぴんと立てて床を転がっているのは、遠い大陸にいるはずの恩人の一人だ。
年よりも大人びた見た目をしてるにも拘らず、限りなく子供に近い無邪気さを備えた『狼』は、ここにいるべきじゃない異物のはず。
感謝しているが、彼も含めてさよならを告げたつもりだったのにどうして、と眉間に眉を寄せれば、凪にだけ甘い異界の神はにかっと笑った。
「ああ、あの駄犬か」
「『犬』じゃなくて『狼』です」
「あいつは転移の瞬間、お前の服に捕まったから連れてきた」
「はぁ?」
思わず尻上がりに言葉が跳ねる。
今の自分はさぞかし訝しげな顔で異界の神を見ているだろう。
「本当は許可もなくお前の服に触ったんだから腕を切り落とそうかと思ったんだが、そうすると折角綺麗にした服がまた汚れるだろ?お前が誰かの血で汚れるなんて嫌だし、部屋も血まみれになったら気分が悪いしな。あいつは一応お前を助けた功績もあるから、腕を切るのは止めておいた」
「いやいやいや、それなら連れてくるのも止めておきましょうよ。ナナンはダウスフォートと一番遠い大陸なんですよね?」
「なら消すか?」
「いやいやいやいや、おかしいですから。さっき私を助けた功績があるって言ってたのに、何で消すって言葉が出るんですか。どう考えてもおかしいでしょ」
「そうか?」
「そうですよ」
心底不思議だと首を傾げるウィルには、凪の言葉の真意は伝わらないらしい。
もうここは神様スケールとして諦めるしかない気がする。
文字通り彼の『愛し子』である凪はともかく、その他はこの世界の住民でも十把一欠だ。
世界に『命』が溢れすぎていて、一人や二人の価値が違っている。
凪とて別に人類博愛宣言をしているわけではないが、大切な相手は一人だけじゃない。
価値観の相違という表現が一番ぴったり来るだろう相手に、言葉を尽くしてどうこうする熱意はなかった。
自棄になる訳じゃないが、この世界はウィルのものだ。凪が大事にする相手に害がない限りは好きにすればいい。
目の前で暴挙に出られれば流石に止めるけどそうでないなら管轄外だ。
今この瞬間でも世界で寿命が尽きる相手は数え切れないほどいるだろうし、それを一々悲しむ感性を持っていれば、それこそ平静でいられない。
神のキャパシティがどれほどのものか知らないが、全てを受け止めろと願うほど、ウィルに対して薄情になれないのは、穴が空いた器でも『情』を注がれ続ければ何も感じないわけじゃないからだろう。
これ見よがしに軽く嘆息するが、上機嫌なウィルは頬へのキスを諦めた代わりに、勝手に伸ばした髪を指に絡めてそれに口付けを落としていた。
まったく、神様の好みは理解できない。
「───五体満足で移動しただけ、マシって思ってもらうしかないね・・・。一応お聞きしますけど、ガーヴだけ戻してくれるなんてことは」
「ないな。別に大した手間じゃないが、どうして俺がそんなことしなきゃいけないんだ?」
意味が判らないと、綺麗に整った眉の間に皺を寄せたウィルに、もう一度ため息を吐き出す。
これはもしかして大陸移動した迷子(?)の狼を送らなければいけないパターンだろうか。
慣れぬ土地で面倒を見てもらった身としては、ここで恩を返さず放置プレイは出来ない。
幼馴染二人を脳裏に描きながらも、今度は諦めのため息を吐き出そうとしたところで、落ち込んだ凪に気づいたウィルが慰めるように頭を撫でてきた。
「こいつを連れてきちまってどうしようかって悩んでるのか?」
「・・・はい。でも消去とか放置とか、そういう方向は考えてませんから。こうなれば責任持って元居た村に送り届けます」
「ああ、それなら気にすることないぞ」
凪の落ち込む理由を知って、晴れやかな笑顔を浮かべたウィルに、いい予感はしない。
彼の基準はあくまで『凪』だ。『神の愛し子』しか見てない、相当一点集中型の神様だ。
期待してはいけないと思いつつ、話が続かないので仕方なしにどうしてか問うと、麗しい顔に目も潰れんばかりの輝く笑顔を浮かべたウィルは、機嫌よくあっさりと言い放った。
「こいつはもう村から追放されてる。だから気にするな」
全然気にしないわけにいかない理由をさらりと告げられ、本気で脱力した凪は、痛むこめかみを指先で押さえてぐっと眉間に皺を寄せた。
どうやら物事は斜め上の方向に展開されているらしく、ため息ばかり吐いてるから運が逃げるのだろうかと、若干本気で悩んでしまった。