2:今岡凪という人 その7
驚きに息を飲み込んだのは、果たして凪か桜子か。
信じられない、否、信じたくない言葉に、知らず彼の服を握った手が力の篭めすぎで白くなる。
あからさまに動揺した凪が面白かったのか、まるで猫の子を宥めるように指先で喉を擽った異界の神は、何をそんなに驚くと優しげに微笑みながら問う。
「お前はあれを幼馴染だと言うが、あれは俺には男に見える。気に入ったお前が傅かれるのは気分がいいが、誤魔化されるのは嫌いだ」
「ですが嘘はついてません」
「そうだな。だから俺もお前の望みは叶えてやると言ってる。たかが千年。たかが千年のときを一人で過ごせばお前と共に暮らさせてやると言っているんだ」
「人の身の千年とあなたの千年は感じ方が違うのでしょう?」
「そうだろうな。けど俺は約束は違えていない。状況をきちんと説明した上で確認してるだろ?それにその方があいつにとってもいいんじゃないか?お前ら二人には基礎知識を与えてやると言ったが、あいつに何かをくれてやる気はねえぞ」
にいっと口角を持ち上げた異界の神様は、そうして凪の頬に手を当てた。
赤い瞳が眇められ、楽しそうにしているのにどこか怖い。
『向こうに連れて行って』と言うだけだと放されると思って敢えて『一緒に暮らしたい』と願ったのに、その裏をかかれた。
どちらも似て非なる言葉だと理解していたのなら、もう少し上手い言葉を考えるべきだった。
ちらり、と桜子に視線を向ければ、厳しい表情でほっそりした手を顎に当てて鏡の向こうの秀介を見ている。
眉間に刻まれた皺が深刻さを表していて、つられてきゅっと眉根を寄せた。
『千年。千年我慢すれば、俺はこいつらと一緒に暮らせるのか?』
「ああ、簡単だろう?俺は優しい神だからな、一度口にしたことは守ってやる」
気分によっては約束を破ると口にしたくせに、あっさりと告げた彼はどこまでも傲慢だ。
世界を育てる力を持つ故に、弱者の感情など気にならないのだろう。
これでもう、秀介の生きる道が確定してしまったというのに、彼の顔には欠片も罪悪感はない。
どうすると問いながら、その問いかけは疑問ではなく、秀介が掌の上まで落ちてくるのを待っているだけだ。
「秀介、止めて。百年にも満たない時間さえ堪えれば、私たちのことは忘れられる」
「───千年は人には長すぎる、狂うぞ」
『それでも!・・・それでも、そうしなきゃお前らと暮らせねえだろうが!お前なら手段があるのに凪と離れて生きられるのか!!?』
「秀、それは」
『自分にできねえことを、人に偉そうに言うな』
ぎらぎらとした血走った目で桜子を睨み付けた秀介は、泣きそうな顔で凪を見詰めた。
腕が伸ばされたので掴もうと鏡に手を伸ばしたのに、一回り以上大きな掌に握りこまれて届かない。
邪魔をした異界の神を睨めば、くすり、と場に似合わぬ優しい顔で微笑まれた。
「そう睨むな。どうせあいつもお前と同じで魂が歪んでる。千年くらいなら壊れても砕けやしねえよ」
「・・・それの何処に安心しろと?」
「苛立つお前も可愛いな。蒼い瞳が一層濃くなってきらきらしてる。そうだ!いいことを考えた」
「何を思いついたのですか」
「それは向こうについてからのお楽しみだ。きっとお前も気に入る」
にこにことまるで子供のように機嫌よくなった彼に、緩く首を振った。
そもそもが神様などと対等に話をしようとしたのが間違いだったのだ。
凪を気に入る相手はいつだってひと癖もふた癖もある変人ばかりだったが、彼は神の中では正常なのだろうか。
他に比較対象がいないので判らないが、判りたくもない気がする。
判るときは、他に比較対象、つまり別の神様と知り合いになっているというのと同意だし、厄介ごとが好きな人間でもない。
『そろそろいいか?俺の答えは決まった』
「ああ、どうぞ。さあ、お前は俺の世界で暮らしたいか?」
『当然だ。凪がいて、桜がいて、俺がいる。ずっと死ぬまで変わらねえ』
「そうか」
頭の天辺に顎を置いた異界の神は、どうやら頷いたらしい。
地味な感触が旋毛から伝わり、そっと瞳を伏せる。
『凪との約束で俺の願いを二つ叶えてくれるんだったな』
「そうだ。もう決まったか?」
『一つ、俺を転生させるならお前の世界で最強種の人型になれる生き物にすること』
「ほう、それでもう一つは?」
『俺の記憶を受け継がせること。お前なら一緒に暮らす条件は満たしてるだろうといいながら、俺の記憶を全部消してしまいそうだからな』
「親切だと思うがな。記憶を持って生まれ変わっても、千年は辛いだけだぞ」
『こいつらと共有する記憶を失くすのなら、生きる意味がねえ』
「ははははは!!傑作だな、それは。面白い、流石俺のお気に入りの幼馴染だけある。聞き届けた」
異界の神が囁いた瞬間、秀介の姿は消えた。
瞬きするより短い時間の出来事に、凪は瞳を見開き桜子は秀介の名を叫ぶ。
どくどくと心臓が強く脈打ち、彼が先に旅立ったことを知らされた。
じんわりと指の先が冷たくなるので、広げて閉じてを幾度か繰り返す。
そうして漸く感覚が戻った手の指先を持ち上げられ、異界の神に口付けられた。
「さあ、時間が近づいている。お前の三つ目の願いを言え」
「私は───私の三つ目の願いは、桜子と秀介と寿命を共有すること。私たちのうち誰かの存在が損なわれれば、残りの二人もその瞬間に終わりたい」
「本気か?俺はお前に加護を与えるつもりだが、残りの二人には手を加える気はねえ。それでもお前はこいつらと一緒がいいのか」
「はい」
「・・・しまったな、お前が目覚める前にこの女を消しておけばよかった。痕跡が無ければお前は一人であちらの世界に渡っただろうに」
「後悔先に立たずと言いますね」
「俺は自分のものを大切に扱われるのは嫌いじゃない。けど、今初めて気がついたんだがな、自分のものを他の誰かと共有するのはあんま好きじゃねえな」
「そうですか」
「だがまあ、どうせお前の器は壊れてるし、仕方ねえか。穴が開いている器に水を注ぎたがる変人など数が知れてる」
「そうですね」
気に入ってるという割りに貶されてばかりな気もするが、これで譲歩してくれるなら安いものだ。
秀介と桜子は凪にとっても特別な相手で、依存は一方通行ではない。
がりがりと短い髪を掻き毟った彼は諦めたように嘆息すると、仕方ねえなと微笑んだ。
「さっきも言ったが、もう時間がない。お前の願いは叶えてやろう。あとは俺からの加護だな」
額に掛かる前髪を丁寧に退けると、またそこに口付けを落とす。
どうにもスキンシップが激しい異界の神様は、今までより長めに口付けて満足したのか離れて行った。
そして凪の耳たぶに触れると満足げに頷く。
ごろりとした違和感に小首を傾げると首筋に何かが触れ、手を伸ばせばリング状のピアスのようなものが嵌められていた。
「俺からの祝福だ。お前はお前自身が望まぬ限り、いかなる生き物からも干渉を受け付けない。相手がどれだけ望もうと、害意があろうとなかろうとお前に触れることは出来ない」
「・・・それって、祝福ですか?」
「ああ、祝福だ。色々な意味でお前を危険から守れるし、変な輩にべたべたと触れられずに済むだろ」
「・・・・・・」
もしかすると、この異界の神は予想以上に狭量なのかもしれない。
否、絶対に狭量だ。確かに誰にも触れられなければ安全かもしれないが、それにしても行きすぎな気がする。
つまり、先ほど桜子が彼に触れようとして全力ですり抜けたのと同じ現象が自分にも起きるということなのだろう。
生身の人間がすり抜けられる瞬間は、想像しても気持ちが悪い。
「そしてこのピアスもやる。俺に会いたくなったらこれに触れて望めばいい。このピアスにはお前しか触れねえから覚えておけよ。ついでに寿命もぐんと伸ばしてやるから楽しみにしておけ」
どう考えてもこれは祝福とか加護とかそんな類のものじゃない。
明らかに呪いだ。しかも怨念が篭ったほうの。
悪気が無い善意ほど性質が悪いものは無く、目の前の彼は無駄に力があるからこそ余計に最悪だった。
「じゃ、あっちの世界に行くとするか。目が覚めたらもうお前は別世界の住民だ。また会える日を楽しみにしてる」
ぱちり、とウィンクされたのと同時に、徐々に意識が暗くなる。
何かに引き込まれるような、強烈な吸引力に誘われるような、抗いようが無い力で落ちる意識に、異界の神様の声が聞こえた。
「あっちの世界じゃ人間はお前だけだ。俺の世界を楽しめ!」
ブラックアウトする意識の片隅で考える。
色々とおまけを貰ったけれど、やっぱり自分は地味に運がないのだろうと。
それを最後に、凪は永遠に母なる地球との縁は断ち切れた。