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第一部 日本編

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 ネタバレの部分があります。

#朝比奈 煕胤(あさひな・ひろたね)

 陸軍大尉。1912(明治45)年8月8日生まれ。陸士45期。千葉県出身(本籍は広島県)。朝比奈男爵家の若き当主。現在お嫁さん募集中。陸軍少将だった父親の影響で陸軍将校になり、陸大在学中に朝顔会を通じて宇都宮と知り合う。朝比奈本人は無二の親友だと思っているが、宇都宮からは邪険に扱われることが多い。東京陸軍幼年学校・陸軍士官学校を卒業後、陸軍大学校52期を優等な成績で卒業。栗色混じりの黒髪が特徴。人柄は子供っぽくてとにかく明るい。底抜けに明るい。お酒にとても弱く、酔うと人に抱きつく癖がある。


#有田 八郎(ありた・はちろう)

 外交官。新潟県佐渡島出身。実兄は田中義一・犬養両内閣で農林大臣を務めた山本悌次郎。米英協調派に対するアジア派の人物。アジア局長やオーストリア公使、外務次官、ベルギー公使を経て廣田内閣で外務大臣となり、日独防共協定締結や南京国民政府との第二次和平交渉に大きく携わる。近衛改造・平沼・米内の三内閣でも外務大臣を務める。

 戦後、プライバシー侵害で三島由紀夫を訴えたのはこの人。(『宴のあと』裁判)。


#石原 莞爾(いしわら・かんじ)

 陸軍中将。陸士21期。山形県出身。満洲事変では関東軍参謀として板垣征四郎とともに柳条湖事件を起こすが、ソ連軍の侵入を招いて失敗。予備役編入こそ回避できたものの、陸軍の権威を失墜させたとして1935年夏まで閑職に追いやられる。二・二六事件では参謀本部作戦課長兼戒厳司令部参謀として反乱軍鎮圧の先頭に立ち、名を挙げる。基本的には統制派に属しながらも、独自の考え方を持って行動する人物で、永田鉄山の死後に統制派の領袖となった東條英機とは犬猿の仲だが、陸大で同期だった我那覇とは親しく、当人の台湾単身赴任中は夫人や娘の面倒を見ていたこともある。

 幼少の頃からの秀才ぶりと奇才な行動は、数多くのエピソードを残した。


#板倉 光馬(いたくら・みつま)

 海軍大尉。海兵61期。福岡県小倉市(現在の北九州市)出身。


#板垣 征四郎(いたがき・せいしろう)

 陸軍大将。陸士16期。岩手県出身。満洲事変では関東軍高級参謀として石原とともに主導的役割を果たしたが、ソ連軍の侵攻を許して失敗。なんとか予備役編入は免れたが、1930年代半ばまで閑職暮らしだった。支那事変では石原とともに不拡大を唱え、更迭された杉山元に代わって第一次近衛内閣の陸軍大臣となる。海軍の米内光政とは盛岡中学の同窓生で、思想信条は対照的なのに何故かウマが合い、その関係で卯月騒乱においてキーマンのひとりとなる。


#犬養 毅(いぬかい・つよし)

 第二次若槻禮次郎内閣総辞職を受けて内閣総理大臣となる。在任前後に発生した満洲事変や上海事変の収拾に尽力するが、五・一五事件により凶弾に倒れて原敬以来続いた日本の政党政治は終焉を迎える。演説の名人だった。


#井上 成美(いのうえ・しげよし)

 海軍中将。海兵37期。宮城県出身。“最後の海軍大将”といわれる人物。頭脳明晰で“カミソリ”とよばれた。米内海相・山本次官とともに海軍軍務局長として日独伊三国同盟締結に終始反対。史実では、太平洋戦争後半に海軍次官として終戦工作に尽力。戦下手といわれたが、兵学校校長として多くの人材を育てた。


#宇垣 一成(うがき・かずしげ)

 1920年代半ばから30年代初頭にかけて4つの内閣で陸軍大臣を務めた元陸軍大将で、軍人出身でありながら、優れた政治手腕と現実的な思考をもつ人物。通称“政界の惑星”。予備役編入後は朝鮮総督(第6代)を務め、支那事変では外務大臣として南京和平協定(第二次日支和平協定)を締結へと導き、戦局の泥沼化を寸前のところで食い止めた。その後も特使として外交交渉にたびたび駆り出されて実績を残し、その名が何度も後継首班に取り沙汰されるようになるが、ついに候補のままで終わる。


#牛島 満(うしじま・みつる)

 陸軍中将。陸士20期。鹿児島県出身。史実では沖縄戦を指揮した第32軍司令官として有名。教育畑出身で、性格は温厚なことで知られている。卯月騒乱後の寺内内閣成立で教育総監に就任する。


#宇都宮 嘉隆(うつのみや・よしたか)

 海軍大尉。本作の暫定主人公のひとり。1912(明治45)年5月27日生まれ。海兵61期卒。ドイツ・ケーニヒスベルク生まれの京都育ち。母方の祖母がドイツ人のクオーターで、先天性虹彩異色症で右眼がサファイア・ブルーの瞳を持つ。容姿は細身で眉目秀麗。日本に帰国したのは欧州大戦後の1919年春。祖国での暮らしに当初は非常に苦労する。尋常小学校一年生の冬に両親を交通事故で亡し、海軍兵学校入学まで知り合いの西洋人女性によって育てられるという数奇な運命を辿る。母語の他に英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ロシア語を自在に操るマルチリンガル。海軍兵学校を117人中5位で卒業し、恩賜拝領。重巡『妙高』軽巡『那珂』『神通』乗り組みを経て軍令部勤務を経験し、陸軍との研究会お「朝顔会」に参加する。その後、横須賀にある海軍水雷学校高等科を首席・恩賜拝領で卒業し、在イタリア大使館付駐在武官補佐官として戦火に揺れるイタリア・ミラノに赴任。


#江草 隆繁(えぐさ・たかしげ)

 海軍少佐。海兵58期。広島県出身。航空士官として卓越した操縦技術を持つことから“艦上爆撃機の神様”の異名を持つ。


#岡田 啓介(おかだ・けいすけ)

 海軍大将。海兵15期。福井県出身。田中義一・斎藤実両内閣で海軍大臣。その後、斎藤のあとを受けて内閣を組織。二・二六事件では標的となって首相官邸で遭遇するも、義弟が身代わりとなり難を逃れた。「軍人はその在任中に戦争が無かったことをもって至上の誇りとすべきである」というのは、彼の言葉。


#小澤 治三郎(おざわ・じさぶろう)

 海軍少将。海兵37期。宮崎県児湯郡高鍋町出身。第一航空戦隊司令官の時に、航空母艦の集中運用による機動部隊編成を提案する。若い頃はかなりの暴れん坊で、教師を殴って宮崎中学を退学処分になったり、“柔道の神様”三船久蔵十段を橋の上から投げ飛ばしたこともある。


#加藤 友三郎(かとう・ともさぶろう)

 海軍大将。海兵7期。鹿児島県出身。子爵。日本海海戦のときの聯合艦隊参謀長。その後、海軍大臣として周囲の反対を押し切ってワシントン海軍軍縮条約締結に尽力。また、内閣総理大臣として寺内正毅内閣から延々と続いていたシベリア出兵の撤退を決断する。首相在任のまま、関東大震災の直前に病死。痩身の容貌から海外では“ロウソク”と揶揄されたが、後にその功績から“偉大なロウソク”と評された。1920年代前半の海軍条約派における中心的人物だった。


#我那覇 竜二(がなは・りゅうじ)

 暫定主人公のひとり。陸軍中将。1888(明治21)年6月23日生まれ。陸士22期卒。沖縄県首里(現在の那覇市北東部)出身。熊本陸軍幼年学校・陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。シベリア出兵や満洲事変ではアイヌ中心に編成された部隊を指揮して樺太や満洲の各地で勇戦。その経験から陸軍の近代化を強く意識するようになり、その研究に没頭するようになる。1937年2月から陸軍軍務局長に就任して兵站を中心に陸海軍の一部装備の共通化を提唱し、研究組織『朝顔会』を立ち上げる。その後は朝鮮軍参謀副長、朝鮮軍参謀長を歴任。朝鮮軍在任中にはソ連の英雄で逃亡中のトゥハチェフスキーと親交を結ぶ。日独伊三国軍事同盟締結には否定的で、犬猿の海軍とは何とか連携を図ろうと苦心する。外見は身長175cmの長身で筋肉質のナイスガイなのに、どこか小動物を思わせる仕草をすることがある。幼い頃は泳げなかったらしい。


#我那覇 聖良(がなは・せいら)

 我那覇竜二の一人娘。1919(大正8)年9月9日生まれ。樺太・豊原郡豊原町(1937年2月1日から豊原市、現在のユジノサハリンスク)出身。小学校時代は父親の赴任先に付き従っていたが、母親が病床に付してからは看病しながら東京市内で暮らしている。1936(昭和11)年4月より東京女子高等師範学校に通っており、1939年春現在4年生。あるパーティーの席で宇都宮に出会う。


#閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう)

 皇族出身の元帥陸軍大将。陸軍の長老格で、皇族の威光を背景に権勢を振るおうと画策した皇道派に担がれて参謀総長に就任。海軍の伏見宮とともに1930年代の陸軍軍令部門の頂点に君臨する。


#近衛 文麿(このえ・ふみまろ)

 五摂家筆頭・近衛家第30代当主。東京府東京市出身。公爵。廣田内閣退陣を受けて内閣総理大臣に就任。陸軍と海軍、強硬派と協調派との対立に終始翻弄され、なかなか成果をあげられないまま総辞職。そして、平沼内閣総辞職を受けて再び内閣総理大臣となるが、長続きしなかった。

 若い頃から元老西園寺公望に聡明さを高く評価されたが……。


#西園寺 公望(さいおんじ・きんもち)

 摂家に次ぐ名門・清華家出身。公爵。盟友伊藤博文のあとを受けて立憲政友会第2代総裁。日露戦役後、2度にわたって内閣総理大臣を務め、東洋資源開発株式会社設立に深く関与している。大正天皇即位のときに元老のひとりとして国権の重要な役割を担うこととなる。陸軍長州閥の総帥・山県有朋とは終生のライバルで、松方正義逝去(1924年)以降は“最後の元老”として、迷走する日本の行く先に深い憂慮の念を抱く。明治天皇とは幼い頃の遊び相手だった。


#斎藤 実(さいとう・まこと)

 海軍大将。海兵7期。岩手県出身。子爵。山本権兵衛のもとで海軍次官を6年、次いで5つの内閣(第一次西園寺~第一次山本内閣)で連続8年3ヶ月にわたって海軍大臣を務める。在任中は帝國海軍の整備を進め、燃料資源の転換を推進するなど辣腕を振るったが、シーメンス事件で海軍を去る。その後は2度の朝鮮総督、首相、内大臣を歴任して安定した実績を残すが、ニ・二六事件で青年将校に射殺された。

 加藤友三郎らとともに条約派に属し、高橋是清とは親友の間柄。 


#坂野 常善(さかの・つねよし)

 海軍中将。海兵33期。岡山県出身。海大を卒業せずに提督まで進級した人物。対英米協調派のひとりで、第七水雷戦隊司令官として船団護衛・対潜水艦戦術の研究をし、“海上護衛の第一人者”となる。その後、初代第五艦隊司令長官や舞鶴鎮守府司令長官を歴任し、卯月騒乱後の人事刷新では新設の第七艦隊司令長官(しかも聯合艦隊司令長官の次席指揮官兼務)として日本の海上護衛の一切を取り仕切る重責を担う。アメリカのR.Aスプルアンス海軍少将とは駐在武官当時からの仲。

 史実では陸軍強硬派や海軍艦隊派の意向を受けた新聞記者に騙され、大角人事で予備役編入されているので、大東亜戦争には直接関わっていない(批判的な内容の手記を残してはいる)。


#沢中 源蔵(さわなか・げんぞう)

 東洋資源開発株式会社生え抜きの技術者。昭和になってからは理事のち副総裁、1938(昭和13)年4月からは総裁に就任。山梨県出身。「打倒、満鉄」を胸に、石油などの新しい資源の開発及び運用の研究に命を賭けている。長年の付き合いから海軍には好意的で、朝顔会を通じて陸軍との連携にも力を貸す。

 技術者らしくとかく暴走しがちだが、根はいい人。


#重光 葵(しげみつ・まもる)

 外交官。大分県出身。ドイツをはじめとして各国の公使を歴任。満洲事変や第一次上海事変では駐華公使として事態の収拾に奔走するが、交渉中の上海で天長節爆弾事件に遭遇して右脚を切断する重傷を負う。その後は外務次官・駐ソ大使・駐英大使・駐華大使を務める。

 名前は“葵”と書くが、“まもる”と読む。


#幣原 喜重郎(しではら・きじゅうろう)

 外交官。大阪府出身。男爵。外務大臣を通算4度務め、1920年代の自由主義体制下で国際協調路線を展開する(幣原外交)。ちなみに1930年代は目立った活動はしていない。

 史実では戦後、内閣総理大臣や衆議院議長を歴任。部下に当時外務次官だった吉田茂がいる。


#下村 正助(しもむら・しょうすけ)

 海軍中将。海兵35期。山形県出身。英米協調派で、軍令系と海外勤務がその大半を占める。情報収集・処理能力にかけては海軍随一の人物。物事を見極めてから行動に移る合理主義者で、上官にもはっきり言う性格が災いして閑職に追いやられるが、政治情勢の急変で米内光政の要請を受けて返り咲く。卯月騒乱後の人事では軍令部次長に就任。

 史実では大湊要港部司令官を最後に1940年に予備役編入している。ユトランド海戦で轟沈した英巡洋戦艦『クイーン・メリー』と運命をともにした観戦武官の下村忠助中佐は実兄。


#昭和天皇(しょうわてんのう)

 第124代天皇(在位1926~89)。諱(いみな)は裕仁。大日本帝國における最高権力者(国家元首)。極度に右傾化する社会を憂慮し、英米との戦端が避けられることを願っているが……。


#菅波 政治(すがなみ・まさはる)

 海軍中尉。海兵61期。福島県出身。素朴な好青年で髪をオールバックにしているのが特徴。単座戦闘機の単独洋上航法(誘導機なしの飛行)ができる優秀な戦闘機乗り。昭和15年11月から翌年11月まで空母『龍驤』戦闘機隊分隊長、次いで空母『蒼龍』戦闘機分隊長。


#杉山 元(すぎやま・げん)

 陸軍大将。陸士16期。福岡県出身。元帥陸軍大将まで上り詰め、陸軍三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)の全役職を歴任した人物(杉山以外では上原勇作のみ)。日露戦役で顔面を負傷したことがあり、表情がどうしても強面になる。参謀総長在任時、対米開戦について昭和天皇とのやりとりは有名。


#鈴木 貫太郎(すずき・かんたろう)

 海軍大将。海兵15期。千葉県出身(出生地は大阪)。男爵。昭和天皇からの信頼がとても厚い人物で、聯合艦隊兼第一艦隊司令長官・軍令部長を経て二・二六事件当日まで約7年にわたり侍従長を務める。以後、度々とはいえ海軍から侍従長を出す慣習が生まれる(陸軍が侍従武官長を輩出している故のバランス取りともいえる)。その二・二六事件では瀕死の重傷を負って生死の境を彷徨う。水雷戦の名手で、日露戦役ではその勇猛振りから“鬼貫”と呼ばれた。


#瀬田 太一(せた・たいち)

 海軍一等水兵。静岡県出身。宇都宮の身の回りの世話を担当する従兵。大柄で腕っ節が強く、地元の相撲大会で優勝したことがある。実家はお茶を栽培する農家。


#高橋 是清(たかはし・これきよ)

 政治家。武蔵国江戸出身。大勲位子爵。原敬暗殺を受けて第4代立憲政友会総裁・第20代内閣総理大臣になるが、6度務めた大蔵大臣としての功績の方がはるかに知られている戦前屈指の財政家。日露戦役では日銀副総裁として国債販売を通じて戦費の調達に走る。大蔵大臣としては世界恐慌から金本位制の再停止や政府の積極財政などにより経済的に大混乱した日本を救い、のちに財政引き締めで緊縮へと転換するが、軍部に恨まれて二・二六事件の凶弾に倒れる。その風貌から“ダルマ”と呼ばれることも。



#塚原 二四三(つかはら・にしぞう)

 海軍中将。海兵36期。福井県出身。1921(大正10)年2月に横須賀海軍航空隊付として配属されてから一貫して航空畑の要職を歩み、世界初の空母を中心とした機動部隊・第一航空艦隊の初代司令長官に就任する。


#寺内 寿一(てらうち・ひさいち)

 陸軍大将。陸士11期。山口県出身。伯爵。内閣総理大臣や陸軍大臣・朝鮮総督などを務めた寺内正毅の長男。皇族以外で親子2代が元帥になった者は海軍を含めてもこの親子のみ。二・二六事件の後に成立した廣田内閣で陸軍大臣として皇道派の追放を主導するとともに、彼らの復活を阻止するために軍部大臣現役武官制を復活させた。また、傷痍軍人の福利を目的に厚生省創設を提唱した人物でもあり、山陽本線特急列車脱線事故(1926年9月23日未明)やゴーストップ事件(1933年6月17日)でもその名前が登場する。高等師範学校附属尋常中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)時代に同級生だった作家・永井荷風に鉄拳制裁を喰らわせたことがあるらしい。

 卯月騒乱収束後、総辞職した米内に代わって内閣総理大臣の大命降下を受ける。


#東郷 重徳(とうごう・しげのり)

 外交官。鹿児島県出身。1937年から38年にかけて駐ドイツ大使となるが、駐在武官大島浩陸軍中将や独外相リッペンドロップと対立して罷免され、駐ソ大使に。ちなみに奥様はドイツ人で、娘婿も孫も元外務官僚。


#東條 英機(とうじょう・ひでき)

 陸軍中将。陸士17期。東京府東京市出身。永田鉄山亡き後の統制派の中心人物。非常に細かい性格で、天皇に対しての忠誠心は厚い。石原莞爾とはまさに水と油。

 太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣だったことを知らない人はまずいないであろう。


#永田 鉄山(ながた・てつざん)

 陸軍少将。陸士16期。長野県出身。“永田の前に永田なく、永田のあとに永田なし”とまでいわれた帝國陸軍きっての俊英。藩閥が幅を利かせていた欧州大戦集結直後、同期の小畑敏四郎や岡村寧次らとともに陸軍の改革を誓い、その主導的役割を果たす。一時は実権を掌握したかに思えたが、内部対立が先鋭化するに伴ってかつての盟友とも袂を分かち、軍務局長時代の1935(昭和10)年8月に陸軍省内で相沢中佐に斬殺される(相沢事件)。

 もし、彼が生きていたら(多分国内にいる限り二・二六事件で殺されていたと思うが)、日本の歴史は今とはまったく違うものになっていたと言われることの多い人物。


#永野 修身(ながの・おさみ)

 海軍大将。海兵28期。高知県出身。帝國海軍史上唯一、海軍三長官(海軍大臣・軍令部総長・聯合艦隊司令長官)の全役職を務めた人物。廣田内閣で海軍大臣を務め、伏見宮退任後には軍令部総長を務める。会議中の居眠りは日常茶飯事で、良くも悪くも新しいものがとにかく大好き。


#南雲 忠一(なぐも・ちゅういち)

 海軍大佐。海兵36期。山形県出身。水雷畑を歩み、若い時期から頭角を現して水雷戦の第一人者として将来を嘱望される。また、艦隊派の論客として山本五十六や井上成美と対立し、特に1期下の井上とは険悪。

 史実では真珠湾攻撃やミッドウェー海戦において第一航空艦隊司令長官として、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦では第三艦隊司令長官として門外漢ともいえる帝国海軍機動部隊を指揮し、最期はサイパンで戦死する。近年再評価の動きがあるが、最初から第二艦隊のような水上艦隊を指揮していたら……。


#新見 政一(にいみ・まさいち)

 海軍大佐。海兵36期。広島県出身。小柄な体格ながら、分析力に定評のある帝國海軍屈指の知英派。海大で戦史教官を通算5年務めた戦史研究の大家でもある。海大教官兼第七水雷戦隊参謀長として自らの理論の実地検証に携わり、帝國海軍の海上護衛の理論構築に大きく関わる。

 史実では総力戦になること、艦隊決戦は起きないこと、大本営は政策と戦略が一致していなくてはいけないこと、海上交通網防御の対策の必要性を訴えたレポートは当時一笑に付されたが、現実は新見の見解のとおりだった。戦後は海軍の最長老として106歳の天寿(亡くなったのは1993年4月2日)を全うした。


#野中 五郎(のなか・ごろう)

 海軍中尉。東京府出身(本籍は岡山県)。海兵61期卒だが、2度の留年をしているので同期よりも2歳年長。実家は父(少将)とふたりの兄(中佐と大尉)が陸軍将校、次姉が海軍士官へ嫁ぐという軍人家庭で五男二女の末子に生まれる。兵学校留年や飛行学校での逆首席をとってしまうなど勉強は苦手だが、運動神経は抜群のセンスを持っている。当初戦闘機乗りを希望していたが、艦攻攻撃機乗りにさせられ、やがて中攻(陸攻)へ転向する。二・二六事件で実兄(野中四郎陸軍大尉)が首謀者として深く関わったことから色々と気苦労が絶えず、胸にはその遺影を肌身離さず持っている。

 努めて明るく振舞うその裏で非常に細やかな気配りのできる好漢。


#野村 吉三郎(のむら・きちさぶろう)

 海軍大将。海兵26期。和歌山県出身。イギリス、オーストリア、ドイツ、アメリカと海外駐在経験が豊富で、F.ルーズベルトら海外の政治家たちとも親交がある英米協調派。ちなみに海軍大学校は出ていない(海軍大将になった人物で海大を卒業していないのは野村を含めてわずか4人のみ)。第一次上海事変の折には第三艦隊司令長官として陸軍の上海派遣軍を支援するが、上海天長節爆弾事件で右目を失明。岡田内閣では海軍大臣として第七水雷戦隊による船団護衛研究を後押しし、二・二六事件では海軍省から冷静沈着な指揮を執る。1937(昭和12)年4月に予備役に編入されると学習院院長として静かにすごす。第二次近衛内閣では外務大臣。海軍士官時代から国際法を長く研究し、その道の権威でもある。


#長谷川 清(はせがわ・きよし)

 海軍大将。海兵31期。福井県出身。日本海海戦では聯合艦隊旗艦『三笠』乗組。大正年間で通算8年をアメリカで過ごした対米英協調派。野村・永野海相のもとで海軍次官、第二次上海事変では第三艦隊司令長官として国民政府軍と交戦している。温厚で懐が広く、度量の大きい人物。特撮監督・脚本家として著名な実相寺昭雄氏は孫にあたる。


#万城目 文和(ばんじょうめ・ふみかず)

 技術者。1912(大正元)年11月14日生まれ。秋田県出身。生家近くに油井があったことから石油開発に興味を持ち、東北帝国大学を卒業して東洋資源開発株式会社へ。入社後はすぐにアメリカ・オランダへ会社命令で留学させられ、帰国したのは二・二六事件直後だった。“マンジョウメ”や“マキメ”などと苗字を間違えられることが多いのが目下の悩み。


#平沼 騏一郎(ひらぬま・きいちろう)

 法務官僚。岡山県出身。男爵。第二次山本権兵衛内閣での司法大臣や大審院院長(現在の最高裁判所長官に相当)を務めるなど法曹界で絶大な影響力を持ち、右翼勢力伸張に力を貸す。第一次近衛内閣総辞職を受けて内閣総理大臣となる。三権のうちふたつの頂点(司法・行政)に立った数少ない人物。

「欧州ノ天地ハ複雑怪奇」と言ったのはこの人。


#廣田 弘毅(ひろた・こうき)

 外交官。福岡県出身。1920年代に協調外交を展開した幣原喜重郎に代わり1930年代の日本外交をリードした人物。満洲事変の時にはソ連全権大使としてモスクワにいたが、ソ連軍の満洲侵攻を直前までつかめなかったことを激しく後悔する。斎藤・岡田内閣では外務大臣としてリットン報告書受諾やローマ和平協定(第一次日支和平条約)締結、ソ連軍の満洲撤退実現に奔走する。二・二六事件後には首相となり、1920年代の幣原外交を髣髴とさせる協調外交を標榜し、世界一周外遊をおこなうなど精力的に活動する。辞任後は貴族院議員として活動したが、第二次上海事変を発端とする支那事変の事態収拾で再び外務大臣として南京政府との再度和平交渉に臨むが、成果はほとんどあげられなかった。戦後に首相となる吉田茂とは外交官時代の同期。


#伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)

 皇族の元帥海軍大将。海兵16期。日露戦争の黄海海戦では聯合艦隊旗艦『三笠』分隊長を務め、その後は艦長や艦隊司令長官を歴任するなど、皇族出身としては珍しく実戦経験が豊富な方。1932年末に陸軍参謀総長に閑院宮載仁親王が就任したことに対抗して海軍軍令部長(のち軍令部総長に改称)に担がれる。皇族の威光を背景に「艦隊派」寄りの政策を推し進め、軍令部の権限拡大に尽力した。また、軍令部総長退任後も海軍のご意見番としてその影響力は絶大であった。


#松岡 洋右(まつおか・ようすけ)

 外交官。山口県出身。1930年代の日本外交の重要な局面で外交官或いは外務大臣として深く関与。外交官退官後は満鉄理事となり、やがて総裁となる。白鳥敏夫の抜擢や在外公使の大量更迭に代表される人事の強硬をするかと思えば、一方でユダヤ難民を保護するなど、ひとくくりに評価しにくい人物。

 それでも白鳥敏夫と並んで昭和天皇に嫌われていたことは有名。


#山本 五十六(やまもと・いそろく)

 海軍中将。海兵32期。新潟県長岡市出身。大東亜戦争時の日本を代表する提督。日本海海戦では少尉候補生として装甲巡洋艦『日進』に乗り、敵砲弾着弾によって左手人差し指と中指を欠損。早くから航空機に注目し、航空関連の要職を歴任して海軍の航空隊育成に尽力する。駐米武官勤務経験から対米英協調派の中心人物として知られ、海軍次官として最後まで三国同盟に反対。強硬派から命を狙われ続けることを懸念した米内海相により聯合艦隊司令長官へ転出するも、卯月騒乱後の寺内内閣で海軍大臣。


#山本 権兵衛(やまもと・ごんべい)

 海軍大将。海兵2期。鹿児島県出身。伯爵。1890年代初頭より軍務局長・次官・大臣として帝國海軍の近代化に大きく貢献した“海軍省のオーナー”。この人がいなければ日清・日露戦役での結果はどうなっていたかわからない。西郷従道(隆盛の弟)とともに戦艦『三笠』の建造費用をいろいろと工面した(ちょろまかした?)り、東郷平八郎を聯合艦隊司令長官に推挙した時、その意図を問う明治天皇に「東郷は運のいい男だから」と紹介するエピソードが残されている。首相には2度就任しているが、第一次内閣はシーメンス事件で瓦解して予備役編入を余儀なくされ、関東大震災直後に成立した第二次内閣は虎の門事件でいずれも短命で終わる。航空戦力の将来性を早くから注目していた山本英輔海軍大将(海兵24期)は甥にあたる。

 本作では山本が西園寺に送った極秘書簡からすべてが始まった。


#山口 多聞(やまぐち・たもん)

 海軍少将。海兵40期。東京府東京市出身。水雷出身の士官で、そもそもは潜水艦乗り。同期の大西瀧治郎らの勧めもあって航空畑に転向し、次代の帝國海軍を担うエースのひとりと目されるようになる。支那事変では航空隊を指揮して多くの死傷者を出し、“人殺し多聞丸”とあだ名された。現在は第二航空戦隊司令官として、機動部隊主力の一角を担っている。





#吉田 茂(よしだ・しげる)

 外交官。高知県出身。二・二六事件後に駐英大使。かなりのワンマンで、軍隊嫌いは有名(軍の側も吉田を忌避していた)。史実では戦後内閣総理大臣を4度務め、日本の憲政史にその名を残す。漫画好きの某元首相はこの人の孫。


#米内 光政(よない・みつまさ)

 海軍大将。海兵29期。岩手県出身。二・二六事件では横須賀鎮守府司令長官として無策をさらした海軍省に代わり反乱軍の鎮圧に動く。その後、聯合艦隊司令長官を経て1937年2月から廣田・第一次近衛・平沼の3内閣で海軍大臣を務め、山本五十六次官や井上成美軍務局長とともに三国軍事同盟に最後まで反対。加藤友三郎から脈々と続く対英米協調派の中心人物として知られるが、蒋介石率いる南京国民政府には強硬な態度をとった。板垣征四郎とは盛岡中学の同窓生で、思想信条は異なるが、良好な関係を結んでいた。平沼騏一郎に代わり内閣総理大臣として混迷した事態の収拾に期待がかけられ、南シナ海やフィリピンでの危機を乗り切ったが、反対派に怨まれて卯月騒乱の一方の当事者となってしまう。

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