婚約破棄されたので、静かに死ぬことにした ~伯爵令嬢エルナの、静かな幕引き~
婚約破棄の言葉は、思ったよりも軽かった。
「エルナ・ヴァレン。君との婚約を、今日をもって解消する」
王太子レイン・アルスタードは、謁見の間の中央に立ったまま、まっすぐ私を見た。背後には廷臣たちが居並び、隅には男爵令嬢のアリアが、俯いて佇んでいた。新しい婚約者として既に呼ばれていたらしかった。彼女の頬が赤かった。泣いているのか、羞恥なのか、私には判断がつかなかった。
私はゆっくりと膝を折った。
「……わかりました」
それだけ言った。
場が、凍った。
レインの眉がかすかに動いた。廷臣の誰かが咳払いをした。アリアが顔を上げ、こちらを見た。誰もが何かを待っていた。涙か、叫びか、あるいは許しを乞う声か。
私は何も言わなかった。
立ち上がり、ドレスの裾を払い、一礼した。それから踵を返して、謁見の間を出た。誰も止めなかった。
*
死ぬ、と決めたのは、自室に戻る廊下の途中だった。
正確に言えば、「死ぬ」は少し大げさな表現だ。この王都で、この社交界で、エルナ・ヴァレンという女として生きることをやめる、という意味だった。幸い、実家の伯爵家には辺境に別邸がある。そこへ行けばいい。王都の人間には、遠くて陰気で、冬は雪に閉ざされる土地だと思われている場所だが、私は子供の頃に一度だけ訪れたことがあった。
静かだった、と覚えている。
それで十分だと思った。
部屋に戻ると、侍女のメイが心配そうな顔で飛んできた。
「エルナ様、お顔の色が——」
「荷造りを手伝ってちょうだい」と私は言った。「辺境の別邸へ発つわ。三日後には出たい」
メイは口を開いたまま、何も言えなかった。
*
荷物を整理しながら、私はずっと静かだった。
ドレスを畳みながら、去年の春のことを思い出した。レインが初めて私の手を取ったのは、王宮の庭園の東屋だった。日が傾きかけた時間で、薔薇の影が石畳に長く伸びていた。彼は何も言わなかった。ただ、私の手の甲を一度だけ撫でて、離した。
私はそのとき、笑いたかった。
でも笑わなかった。令嬢として感情を見せることに慣れていなかったし、何より、この人の隣に立ち続けるためには、揺れない女でなければならないと思っていた。王太子妃は強くなければならない。弱さを見せてはいけない。そう育てられた。
だから私は笑わなかった。泣かなかった。怒らなかった。
それが間違いだったのか、あるいはそうでなかったのか、今となってはどちらでもよかった。
宝石箱を木箱に仕舞いながら、涙が一度だけ落ちた。メイには見せなかった。見せる必要がなかった。
*
三日が過ぎた。
出発の朝、霧が出ていた。
馬車に荷を積み終えたころ、石畳を踏む足音が近づいてきた。振り向くと、レインがいた。護衛を門外に残してきたらしく、供の姿はなかった。それが意外で、私は少し目を細めた。
「エルナ」
彼は私の名前だけを言って、止まった。三歩ほど手前で。
「見送りに来てくださったのですか」と私は言った。
「……違う」レインは眉を寄せた。「何か、言い残したことがあるかと思って」
私は少し考えた。言い残したこと。
「何もありません」
そう答えたとき、自分の口元が動いたのに気づいた。笑っていた。
レインが固まった。
不思議な顔だった。見たことのない表情だった。何かを探すように、私の顔を見ていた。
「……なぜ」彼はゆっくりと言った。「今まで、笑わなかったんだ」
私は少し首を傾げた。
「笑う理由がなかったわけではありません」
霧の中、馬が静かに息を吐いた。
「ただ、もうここには、理由がなくなりました」
レインの表情が、初めて崩れた。硬く保たれていた何かが、音もなく割れるような顔だった。彼が一歩前に出た。
「婚約を、撤回する」
私は彼を見た。
「アリアへの申し訳が——」
「アリアへの件は俺が責任を持つ。それより——」
「殿下」
静かに遮った。
レインが止まった。
「殿下が今欲しいのは、私ではありません」
彼の目が揺れた。
「失ったものです」と私は続けた。責めるつもりはなかった。ただ事実として、そう見えた。「殿下が気づかれたのは、私が去るからです。そうでなければ、今も気づかないままでいた」
「それは——」
「違いますか」
レインは何も言えなかった。
私はまた笑った。今度は少し、胸が痛かった。
「……悪くありませんでした」と私は言った。「三年間」
それだけ言えば、十分だった。
馬車のステップに足をかけた。メイが手を貸してくれた。扉が閉まる前に、一度だけ振り返った。
レインは動いていなかった。霧の中に立ったまま、こちらを見ていた。
私は何も言わなかった。
扉を閉めた。馬車が動き出した。石畳の音が、遠くなっていった。
窓の外、霧がゆっくりと流れていた。
私はもう、泣かなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
タイトルの「死ぬ」は少し大げさな表現でした。去る、ですね。
要らない、としながらも、失ったら取り戻したくなる。
誰にでも少なからずある経験かと思います。
ただ、簡単には取り戻せないですよね。




