表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約破棄されたので、静かに死ぬことにした ~伯爵令嬢エルナの、静かな幕引き~

作者: 霧原 澪
掲載日:2026/04/17

 婚約破棄の言葉は、思ったよりも軽かった。


「エルナ・ヴァレン。君との婚約を、今日をもって解消する」


 王太子レイン・アルスタードは、謁見の間の中央に立ったまま、まっすぐ私を見た。背後には廷臣たちが居並び、隅には男爵令嬢のアリアが、俯いて佇んでいた。新しい婚約者として既に呼ばれていたらしかった。彼女の頬が赤かった。泣いているのか、羞恥なのか、私には判断がつかなかった。


 私はゆっくりと膝を折った。


「……わかりました」


 それだけ言った。


 場が、凍った。


 レインの眉がかすかに動いた。廷臣の誰かが咳払いをした。アリアが顔を上げ、こちらを見た。誰もが何かを待っていた。涙か、叫びか、あるいは許しを乞う声か。


 私は何も言わなかった。


 立ち上がり、ドレスの裾を払い、一礼した。それから踵を返して、謁見の間を出た。誰も止めなかった。



 死ぬ、と決めたのは、自室に戻る廊下の途中だった。


 正確に言えば、「死ぬ」は少し大げさな表現だ。この王都で、この社交界で、エルナ・ヴァレンという女として生きることをやめる、という意味だった。幸い、実家の伯爵家には辺境に別邸がある。そこへ行けばいい。王都の人間には、遠くて陰気で、冬は雪に閉ざされる土地だと思われている場所だが、私は子供の頃に一度だけ訪れたことがあった。


 静かだった、と覚えている。


 それで十分だと思った。


 部屋に戻ると、侍女のメイが心配そうな顔で飛んできた。


「エルナ様、お顔の色が——」


「荷造りを手伝ってちょうだい」と私は言った。「辺境の別邸へ発つわ。三日後には出たい」


 メイは口を開いたまま、何も言えなかった。



 荷物を整理しながら、私はずっと静かだった。


 ドレスを畳みながら、去年の春のことを思い出した。レインが初めて私の手を取ったのは、王宮の庭園の東屋だった。日が傾きかけた時間で、薔薇の影が石畳に長く伸びていた。彼は何も言わなかった。ただ、私の手の甲を一度だけ撫でて、離した。


 私はそのとき、笑いたかった。


 でも笑わなかった。令嬢として感情を見せることに慣れていなかったし、何より、この人の隣に立ち続けるためには、揺れない女でなければならないと思っていた。王太子妃は強くなければならない。弱さを見せてはいけない。そう育てられた。


 だから私は笑わなかった。泣かなかった。怒らなかった。


 それが間違いだったのか、あるいはそうでなかったのか、今となってはどちらでもよかった。


 宝石箱を木箱に仕舞いながら、涙が一度だけ落ちた。メイには見せなかった。見せる必要がなかった。



 三日が過ぎた。


 出発の朝、霧が出ていた。


 馬車に荷を積み終えたころ、石畳を踏む足音が近づいてきた。振り向くと、レインがいた。護衛を門外に残してきたらしく、供の姿はなかった。それが意外で、私は少し目を細めた。


「エルナ」


 彼は私の名前だけを言って、止まった。三歩ほど手前で。


「見送りに来てくださったのですか」と私は言った。


「……違う」レインは眉を寄せた。「何か、言い残したことがあるかと思って」


 私は少し考えた。言い残したこと。


「何もありません」


 そう答えたとき、自分の口元が動いたのに気づいた。笑っていた。


 レインが固まった。


 不思議な顔だった。見たことのない表情だった。何かを探すように、私の顔を見ていた。


「……なぜ」彼はゆっくりと言った。「今まで、笑わなかったんだ」


 私は少し首を傾げた。


「笑う理由がなかったわけではありません」


 霧の中、馬が静かに息を吐いた。


「ただ、もうここには、理由がなくなりました」


 レインの表情が、初めて崩れた。硬く保たれていた何かが、音もなく割れるような顔だった。彼が一歩前に出た。


「婚約を、撤回する」


 私は彼を見た。


「アリアへの申し訳が——」


「アリアへの件は俺が責任を持つ。それより——」


「殿下」


 静かに遮った。


 レインが止まった。


「殿下が今欲しいのは、私ではありません」


 彼の目が揺れた。


「失ったものです」と私は続けた。責めるつもりはなかった。ただ事実として、そう見えた。「殿下が気づかれたのは、私が去るからです。そうでなければ、今も気づかないままでいた」


「それは——」


「違いますか」


 レインは何も言えなかった。


 私はまた笑った。今度は少し、胸が痛かった。


「……悪くありませんでした」と私は言った。「三年間」


 それだけ言えば、十分だった。


 馬車のステップに足をかけた。メイが手を貸してくれた。扉が閉まる前に、一度だけ振り返った。


 レインは動いていなかった。霧の中に立ったまま、こちらを見ていた。


 私は何も言わなかった。


 扉を閉めた。馬車が動き出した。石畳の音が、遠くなっていった。


 窓の外、霧がゆっくりと流れていた。


 私はもう、泣かなかった。

最後までお読みいただきありがとうございます。


タイトルの「死ぬ」は少し大げさな表現でした。去る、ですね。


要らない、としながらも、失ったら取り戻したくなる。

誰にでも少なからずある経験かと思います。


ただ、簡単には取り戻せないですよね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
立場的に死ぬと言う事ですかね。 笑顔が必要なら王妃教育と言うものを一から考え直した方がよいかもしれませんね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ