第3話 わがままな神様
——パキッ。
ひび割れる音が、はっきり聞こえた。
倉庫の壁の、すぐ手前。
透明な何かの“表面”に、パズルのピースみたいな形の亀裂が走っていく。
それは本当に、世界の“皮膚”だけが剥がれ始めているように見えた。
「……嘘だろ」
思わず、声が漏れる。
体育倉庫の中は、昼下がりの光でぼんやりと明るかった。
棚にはボールやラケット、コーン、マットがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
その真ん中に、森山蒼葉が立っている。
白い体操着に紺の短パン。
ほっそりした左腕を伸ばし、目の前の“世界の表面”に、そっと手の平を当てていた。
——パラ、パラパラ。
亀裂の内側から、薄い破片が剥がれ落ちていく。
それは、壁の塗装でもコンクリートでもなかった。
剥がれた瞬間は、ガラス片みたいにかすかな光を反射しているのに——床に落ちた途端、透明になって消えてしまう。
「なんだよ、これ……」
足が、床に張り付いたみたいに動かない。
剥がれ落ちていく“空間の皮”の下から、黒い影がのぞいた。
うにょうにょと、気持ち悪い動きをする細い脚。
見るだけで鳥肌が立つフォルム。
(……ゲジゲジ……!)
昨夜、俺の家の壁に張り付いていた、あの虫だ。
間違いない。
さっきまで忘れようとしていた、その姿が、鮮明な悪夢みたいに蘇る。
最後の破片が、ぱらりと落ちた。
“穴”の中にいたゲジゲジは、世界に放り出されたように床へ落ちると、すばやく体勢を立て直し、壁を走って窓枠へ駆け上がった。
そのまま、ひょいっと窓の外へ消える。
「…………」
体育倉庫の中には、元の静けさが戻った。
さっきまで世界が剥がれていたなんて、誰も信じないだろう。
でも、俺は見た。
空間のひびも、剥がれ落ちる破片も、中から出てきた虫も。
全部、この目で。
蒼葉は、逃げていったゲジゲジを視線で追うと、ゆっくりと手を下ろした。
そして、くるりと体の向きを変える。
必然的に——入り口のドアの前で固まっている俺と、目が合った。
「あら」
蒼葉は、ほんの少し眉を上げた。
「なにしてるの、神空くん」
声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
さっきまで“世界を剥がしていた人間”とは思えないくらいに。
「お、俺は、その……」
喉が乾いて、うまく声が出ない。
「トイレ、行く途中で……ここ、通っただけで」
自分でも何を言っているのかわからない。
さすがに「今の見た」とは、いきなり言えなかった。
蒼葉は、じっと俺を見つめていた。
黒目の大きな瞳は、体育館の隅にいるときと同じなのに、さっき見せた光景を知っていると、別物に思える。
「……そう」
蒼葉は短く答えた。
数秒の沈黙が落ちる。
このまま黙っていたら、本当に何もなかったことにされそうだ。
それが、妙に悔しかった。
「お前こそ、何やってたんだよ」
思いきって、口を開く。
「今の、なんだ。壁、みたいなの……剥がしてたよな」
蒼葉は、ふっと視線を逸らした。
ちょっとだけ困ったような、それでいてどこか楽しそうな顔。
「そうね……」
顎に指を当てて、わざとらしく考える仕草をする。
少しだけ考えるふりをしてから、こくりと頷いた。
「強いて言うなら、後始末かな」
「後始末?」
「——わがままな破壊神様の、後始末」
その言葉は、体育倉庫の空気と混じり合って、やけに鮮明に耳に残った。
破壊神様。
さっき、諭が話していた神様の話が、頭の中で重なる。
「なにそれ。さっき諭が言ってた神様か?」
思わず、聞き返していた。
「諭くん?」
「昼に言ってただろ。番いの神様がどうとか、千年後に誰かに力が宿るとか。破壊神様って呼ばれてたって」
蒼葉のまつ毛が、かすかに震えた。
「……柏くんの、おばあちゃんの話?」
「知ってるのか?」
「名前だけね」
蒼葉は、くすっと小さく笑った。
「三叉村で知らない人の方が少ないんじゃない? 元巫女様だもの」
たしかに、それはそうだ。
だが、俺が聞きたいのはそこじゃない。
「じゃあ、お前がさっきやってたのは、その……神様関係ってことか?」
自分で言っていても、すごく胡散臭い質問だ。
でも、あんな現象を見せられたら、そういう言葉しか出てこない。
蒼葉は、一瞬だけ考えるようなそぶりを見せた。
「んー……“関係ある”と言えばあるし、“関係ない”と言えばないかな」
「どっちだよ」
「どっちも」
きっぱりと言われてしまった。
「さっきの虫、見覚えあったでしょ?」
「……まぁな」
つい、目を逸らす。
「昨日、あなたの家で見たゲジゲジ。あれと同じ子だよ」
「やっぱり……」
思わず、声が低くなる。
「昨日は、途中で“穴”を閉じちゃったの。だから、居場所が少しずれちゃって……さっきの体育館に繋がってた」
「穴?」
「そう。世界が、ちょっとだけ破けるの」
蒼葉は、さっきまで自分の手を当てていたあたりを見つめた。
「わがままな破壊神様は、気分で壁を壊すの。あっちの世界とこっちの世界を、適当につないだり切ったりする」
「……」
「虫が突然消えたり、どこにもいないはずの場所からひょっこり出てきたりするのは、そのせい」
サラッと言うには、内容が重すぎた。
「じゃあ、昨日の……俺の部屋で消えたやつも」
「うん。あれも、破壊神様の“いたずら”のひとつ」
蒼葉は、あくまでも淡々としている。
「放っておくと、少しずつ世界の形が変わっちゃうからね。だから——」
そこで一呼吸置いて、俺の方を見た。
「私が後始末をしてるの」
言葉そのものは軽いのに、「後始末」という響きだけが妙に重く胸に残った。
「ちょ、待て」
情報の量についていけなくて、思わず手を上げる。
「破壊神様ってのは、本当にいるのか? 神話とか昔話じゃなくて?」
「いるわよ」
即答だった。
「ただ、人間の前に姿を出したがらないだけ。わがままだから」
「いる、って……」
「ここ、三叉村にね」
さらっと、とんでもないことを言われた気がする。
「そんな顔しないで」
蒼葉は、小さく笑った。
「別に、今すぐ村が滅ぶとか、そういう話じゃないから」
「いや、そういう問題か?」
俺のツッコミを無視して、蒼葉は続ける。
「神様って、思ってるほど立派じゃないのよ。面倒くさがりで、すぐ拗ねて、寝てばっかりで。
でも、たまに起きて“あー、退屈だなー”って思うと、壁に穴開けたり、人間をおもちゃにしたりするの」
「性格悪っ!」
思わず、素で言ってしまった。
「で、その“退屈しのぎ”の後片付けをしてるのが、お前?」
「そう」
「なんで、お前がそんなことを……」
そこまで言いかけたとき、体育館から笛の音が聞こえた。
ピーッ!
「おーい! 神空ー! いつまでトイレに行ってるつもりだー!」
体育教師の怒鳴り声が、薄い扉越しにもはっきり聞こえる。
「やっべ」
現実が、一気に押し寄せてきた。
「俺、戻らねぇと殺される」
「大変ね」
蒼葉は、どこか他人事のように言った。
「でも、神空くん」
「な、なんだよ」
ドアに手をかけかけたところで呼び止められる。
振り向くと、蒼葉はさっきまでよりほんの少しだけ真剣な顔をしていた。
「さっきの話、諭くんがしてた『千年後に誰かに宿る力』って、覚えてる?」
「……ああ。一応」
「忘れないでおいた方がいいよ」
蒼葉は、まっすぐ俺を見据えた。
「多分だけど——」
そこまで言って、ふっと表情を緩める。
「……ううん、やっぱり、今言うのはやめておく」
「おい、気になる言い方すんなよ」
「大丈夫。神空くんなら、すぐにわかるから」
何がどう“大丈夫”なのか、まったくわからない。
「それじゃ、後でね」
蒼葉は手をひらひらと振り、何事もなかったかのように倉庫の奥に歩いていった。
俺は半分パニックのまま、体育館へと駆け戻る。
◇
その日の午後の授業は、正直ほとんど頭に入らなかった。
「神様」「破壊神」「世界の穴」「後始末」——。
さっき蒼葉が言った単語が、ずっと頭の中でぐるぐる回り続ける。
「お前、どうした。さっきからボーっとして」
放課後、帰り支度をしていると、諭が不思議そうに覗き込んできた。
「体育でバテて、酸素足りなくなったか?」
「うるせぇ」
「ナタ、今日寄り道どうする? コンビニないけどさ」
今村も背後からひょっこり顔を出す。
「悪い。今日は真っ直ぐ帰るわ」
俺はカバンを背負いながら言った。
「珍しいな。勉強?」
「……まぁ、そんなとこ」
本当のこと——体育倉庫で見たもの——を言うつもりはなかった。
言ったところで、絶対信じてもらえない。
「お前も神様に選ばれて飛んでるんじゃね?」とか、いつものノリで笑われるのがオチだ。
「じゃ、また明日な」
諭と今村に手を振って教室を出る。
廊下を歩きながら、ふと窓際の教室を覗いた。
二年三組の教室の中は、もうほとんど誰もいなかった。
ただ、窓際の一番後ろ——俺の席の隣だけが、ぽっかりと空いている。
蒼葉の姿は、もうどこにもなかった。
(……帰ったのか)
少しだけホッとしている自分と、少しだけ残念がっている自分がいる。
「神空くん」
校舎を出ようとしたとき、背中から名前を呼ばれた。
振り返ると、昇降口の柱の影から、蒼葉がひょいと顔を出した。
制服姿に着替えた彼女は、さっきの体育倉庫のときと同じ、けれどどこか印象の違う雰囲気をまとっていた。
「……森山」
「ちょうどよかった」
蒼葉は、真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「今日、このあと時間ある?」
「え?」
予想していなかった言葉に、間抜けな声が出た。
「少しだけでいいから。一緒に来てほしい場所があるの」
「場所?」
「うん」
蒼葉は、校舎の裏手に広がる山の方を、ちらりと見た。
「神空くんにも、ちゃんと見ておいてほしいから」
その目は、冗談を言っているときのそれではなかった。
「——この村の“神様”の、いまの姿を」
喉の奥が、かすかに鳴った。
俺は、知らないふりを続けるべきか、一瞬だけ迷った。
でも、世界の皮が剥がれていく光景を見たあとで、「関係ない」と切り捨てられるほど、器用な人間でもなかった。
「……行く」
気づけば、そう答えていた。
「そう。よかった」
蒼葉は、ほっとしたように笑った。
「じゃあ、さっさと行こう。日が暮れる前に着きたいから」
そう言って、くるりと背を向ける。
その先には、村の外れへと続く、山道の入り口があった。
俺は、靴紐を一度きつく結び直す。
そして——今まで一度も本気で登ろうと思ったことのない、その道を、初めて踏み出した。
その先で、本当に“神様”なんてものに会うことになるのかどうか。
このときの俺は、まだ半分くらいは「嘘だろ」と思っていた。
——もう半分は、胸の奥でやけにうるさくなっていた心臓のせいにしておくことにした。




