描けない恐怖
スケッチブックを閉じたあと、幸子はしばらく動けなかった。
胸の奥がざわざわして、何かが目覚めたような気がした。
「絵じゃなくても、言葉なら……」
そう思ったのは、ほんの一瞬の希望だった。
でも、現実は甘くない。
パソコンを開いて、Wordを立ち上げる。
白い画面が、まるで自分を試すようにそこにあった。
「何から書けばいいんだろう……」
指がキーボードの上で止まる。
リュカのことを書きたい。
彼女の物語を語りたい。
でも、どうやって?
どこから始めればいい?
頭の中には、断片的なシーンが浮かぶ。
戦う姿、泣いている姿、誰かを守る姿。
でも、それを文章にする方法がわからない。
「やっぱり、無理なのかな……」
そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
絵を描けなくなったときと同じ感覚。
表現できないことへの恐怖。
自分の中にある世界が、外に出せないもどかしさ。
ネットで「小説 初心者 書き方」と検索してみる。
たくさんの情報が出てくるけれど、どれも難しく感じる。
「起承転結」「キャラクターの動機」「読者を引き込む冒頭」――そんなこと、考えたこともなかった。
でも、諦めたくなかった。
リュカたちは、まだ生きている。
彼女たちを、もう一度外に出してあげたい。
その気持ちだけは、確かにあった。
幸子は、深呼吸をして、もう一度画面を見つめた。
そして、震える指で、最初の一文を打ち込んだ。
>「赤い髪の少女は、夜の街をひとり歩いていた。」
それは、たった一行の始まり。
でも、幸子にとっては、長い沈黙を破る一歩だった
最初の一文を打ち込んだあと、幸子はしばらく画面を見つめていた。
「赤い髪の少女は、夜の街をひとり歩いていた。」
それだけで、何かを成し遂げたような気持ちになった。
けれど、すぐに不安が押し寄せてくる。
この先、どうすればいい?
彼女はどこへ向かっているのか。
何を求めているのか。
物語の構造なんて考えたこともない。
ただ、頭の中には断片的なシーンが浮かぶだけ。
それをどう繋げればいいのか、わからなかった。
「やっぱり、私には無理なのかも……」
そう思いながらも、幸子は指を動かし続けた。
リュカの過去、彼女が抱える孤独、誰かとの出会い――思いつくままに書いてみる。
でも、文章はぎこちなく、キャラクターの声が遠く感じる。
何度も書いては消し、書いては消し。
気づけば、1時間以上が過ぎていた。
画面には、たった数百文字しか残っていない。
「こんなに難しいんだ……」
絵を描いていた頃の苦しさが、また蘇る。
表現したいのに、できない。
頭の中には確かに世界があるのに、それを外に出す手段が見つからない。
ベッドに倒れ込む。
天井を見つめながら、幸子は目を閉じた。
リュカが、遠くで立っている気がした。
彼女は何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。
「ごめんね……」
また、そうつぶやいてしまう。
でも、心の奥で、ほんの少しだけ声が聞こえた気がした。
――「まだ、終わってないよ。」
その声が本物かどうかはわからない。
でも、幸子はもう一度パソコンの前に座った。
今度は、少しだけ深く息を吸って。
「描けないことが怖い。でも、描きたい気持ちは、まだある。」
その気持ちだけを頼りに、幸子は再び指を動かし始めた。




