忘れられない夢
この物語は、ある一人の女性が「描けない」という恐怖と向き合いながら、自分の中に眠っていた夢をもう一度手に取るまでの記録です。
主人公・矢野幸子は、かつて漫画家を目指していました。けれど、表現の壁にぶつかり、夢を諦め、平凡な日常に身を置くようになります。
それでも、彼女の心の奥には、かつて描こうとしたキャラクターたちが今も生きていました。
この物語は、そんな彼女が「言葉」という新しい手段で、もう一度彼らを生かそうとする挑戦の記録です。
創作に悩んだことがある人、夢を諦めたことがある人、そしてもう一度何かを始めたいと思っている人へ――。
この物語が、あなたの心にそっと寄り添えますように。
朝の電車は、いつもと変わらない混み具合だった。吊り革につかまりながら、矢野幸子はぼんやりと窓の外を眺めていた。
流れる景色に、特別な意味はない。ただ、何も考えずに目を向けられる場所が欲しかった。
スマホを開いても、特に見るものはない。SNSの通知も、友達からのメッセージも、最近はほとんど来ない。
仕事は事務職。定時で帰れるし、職場の人間関係も悪くない。だけど、心が満たされることはなかった。
ふと、頭の中にあの子が現れる。赤い髪に、鋭い目をした少女。昔、自分が描いたキャラクター。
名前は……確か「リュカ」だった。強くて、孤独で、でも誰よりも優しい子。
彼女は、今も幸子の中で生きている。描かれることもなく、語られることもなく、ただ心の片隅で息をしている。
「ごめんね……」
心の中でつぶやく。
あの頃は、漫画家になりたかった。
夢中で描いていた。
学校の帰り道も、休日も、寝る前も。
でも、現実は厳しかった。
絵を描くのは好きだったけど、頭の中の世界を絵にするのが難しかった。
コンテを描いて、下書きをして、ペン入れして、仕上げて……一枚に七時間以上かかることもあった。
気力が尽きて、表現できないことが怖くなって、いつしかペンを持つことすらできなくなった。
実家の部屋には、あの頃のスケッチブックが眠っている。
開くのが怖くて、ずっと押し入れの奥にしまったままだ。
でも、時々思う。あの子たちを、もう一度外に出してあげたい。
誰にも見せなくてもいい。ただ、自分の手で、彼らを生かしてあげたい。
電車が駅に着く。人の波に押されながら、幸子は改札を抜ける。
今日も、何も変わらない一日が始まる。
でも、心の奥では、何かが少しだけ動き始めていた。
午前十時。
オフィスの空調は少し強すぎて、幸子はカーディガンの袖を引き直した。
パソコンの画面には、請求書のデータが並んでいる。数字を確認して、Excelに打ち込む。
単純作業だけど、間違えられない。
でも、ふとした瞬間に、あの子たちが顔を出す。
「リュカ……」
無意識に、口の中で名前をつぶやいてしまう。
隣の席の後輩がこちらを見た気がして、慌てて咳払いでごまかす。
彼女だけじゃない。銀髪の少年、機械の腕を持つ少女、空を飛ぶ猫型の生き物。
全部、昔自分が考えたキャラクターたち。
彼らは、今も幸子の中で生きている。
でも、誰にも見せられない。
描けない。
語れない。
昼休み。コンビニで買ったサラダとパンを食べながら、スマホをいじる。
SNSのタイムラインには、趣味で漫画を描いている人たちの投稿が流れてくる。
「すごいな……」
そう思うと同時に、胸が少し痛む。
自分も、あの場所にいたかった。
でも、もう戻れない気がしていた。
仕事を終えて、帰宅。実家の玄関を開けると、母の「おかえり」の声が聞こえる。
「ただいま」と返しながら、階段を上がる。
自分の部屋は、昔のままだ。
ベッド、机、本棚。
そして、押し入れの奥にある、あのスケッチブック。
夜、部屋の明かりを落とし、ベッドに座る。
何かに導かれるように、押し入れを開ける。
埃をかぶった箱の中から、スケッチブックを取り出す。
表紙は少し色あせていたけれど、手に持つと、あの頃の感覚がよみがえる。
ページをめくる。
そこには、リュカがいた。鋭い目で、こちらを見ている。
「……ごめんね」
涙が出そうになる。
でも、同時に思った。
「この子たちを、もう一度生かしてあげたい」
絵じゃなくてもいい。
言葉でなら、描けるかもしれない。
そんな考えが、心の奥で静かに芽吹いた。