報腹直前
空手部の道場は、夜の静けさに飲まれていた。
冷たい木の床の上で、私は一人立つ。
その正面に立つのは、広瀬蒼真。
蒼真くんの頬の腫れはまだ完全には引いておらず、
私が奪った痛みの痕跡が、はっきりとそこに残っている。
その頬が私に告げてくる。
「お前がやったんだ」
その痛みを見せつけられるたびに、胸の奥が重く苦しくなる。
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「……いよいよだな」
蒼真くんが言った。
その声には迷いも優しさもなかった。
澄んでいて、冷たく、静かで、でも確実に怒りを含んでいた。
「紗月、お前を殴る。俺が受けた痛みと釣り合うだけの、十分に大きな痛みを腹に刻む」
「……」
私は唇を噛んだ。
分かってる。
分かってるよ。
これは私が壊したものを、私自身の体で償うための時間だ。
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蒼真くんは私を睨んだ。
「報復しないと、俺は気が済まない」
「……うん」
「お前は俺に殴られる。逃げるなよ」
「……逃げないよ」
声が震えそうになって、慌てて奥歯を噛み締める。
怖い。
本当に怖い。
蒼真くんの拳は速くて重くて、私がどれだけ力を入れても敵わない。
その拳が私の腹を貫くと思うだけで、膝が笑いそうになる。
だけど、逃げない。
逃げちゃいけない。
**
私が蒼真くんを殴った時、彼は逃げなかった。
だから今度は私の番だ。
「いいか。これは“俺のため”にやるんだ」
蒼真くんが言い切った。
「お前のためじゃない。部のためでもない。俺のためだ」
「……うん」
私の体が震えるのが、自分でも分かる。
けれど、
「それでいいよ」
私は笑った。
**
蒼真くんの怒りを、
地獄のような痛みを、
私はこの腹で受け止める。
好きな人に殴られるなんて、本当は悲しくて苦しくて嫌なのに――
それでもいいと思った。
だって、
私は蒼真くんが好きだから。
――この気持ちは、私だけの秘密。
誰にも言わない。
告白なんて絶対にしない。
バレたりなんか、絶対にしない。
このラノベが完結するその時まで、この想いは私の胸の中だけに隠しておく。
**
だから私は――
逃げない。
どれだけ痛くても、
どれだけ苦しくても、
私は蒼真くんの怒りから、逃げない。
**
蒼真くんの拳が構えられる。
「行くぞ、紗月」
「……うん」
道場の空気が張り詰め、
次の瞬間、私の世界は