逃げないと決めた夜
処分が執行される日が、近づいていた。
道場の窓から、夕陽が差し込む。
外から聞こえる部員たちの声は遠く、空気は澱んで重い。
私は、一人でストレッチをしながら深呼吸を繰り返していた。
だけど、どれだけ息を吐いても、胸の奥の震えは止まらなかった。
「……怖いなぁ」
小さく呟くと、誰もいない空間に声が吸い込まれていく。
犯した罪と釣り合うだけの、十分に大きなダメージを腹に負うこと。
それが私の処分であり、私が選んだ償い。
どれだけ痛いのか想像すると、身体の芯が冷える。
あの時私が蒼真くんに与えた痛み以上の痛みが、自分の腹に叩き込まれるのだと考えるだけで、足が震える。
でも、
それでも私は――
「逃げない」
決めたのだ。
**
本当は。
本当は私、蒼真くんのことが好きで。
好きであると言っても過言じゃないくらい、ずっとずっと目で追ってきた。
あの人の背中が、組手の時の構えが、練習後に笑う顔が、全部全部、私にとって大切で。
でもそれは 私だけの秘密だ。
私と、これを読んでくれている人だけが知っている秘密。
絶対に、誰にも言わない。
告白なんかしない。
バレたりなんか、絶対にしない。
私の中だけにしまっておく。
だからこそ、大丈夫。
**
罪を犯した私が、その罪の重さを体で受け止めることで、
好きな人を 怒りという地獄から解放できるなら。
私のせいで傷ついた蒼真くんが、私を殴ることで楽になるのなら。
私は、どれだけ痛くても耐える。
蒼真くんが私を殴る姿なんて、見たくない。
だけど、それが必要だって思うから。
それが、私が奪ったものへの償いだから。
**
「……絶対に泣かない」
小さく拳を握りしめる。
「……でも、ちょっとだけ泣いちゃうかもしれない……」
涙が滲む。
ダメだ、泣いちゃ。
今泣くんじゃない。泣くなら、全部終わった後だ。
蒼真くんの拳を、
私の腹で受け止めるその瞬間までは、泣かない。
私は空手部の一ノ瀬紗月だ。
私はこの処分から、逃げない。
**
それが、私の“ケジメ”であり、
私だけの秘密の恋の、唯一の戦い方だった。