その裁きは、拳の中に
空手部の道場には、緊張と沈黙が張り詰めていた。
中央に設けられた長机。
鬼コーチ・黒澤誠一が腕を組み、その横に副主将・神谷凛と会計の三宅慎が座っている。
向かい側には、打撲で頬を腫らした広瀬蒼真。
その隣に、うつむき震える私――一ノ瀬紗月。
蒼真の顔の湿布が冷気で曇っていくのを、私はまともに見ることすらできなかった。
「事故であろうと、結果的に怪我人を出した以上、処分は避けられん」
黒澤コーチの低く乾いた声が道場に響く。
「大会直前に主力を欠く可能性が出た責任は、軽くはない」
私は顔を上げられなかった。心臓の音だけがやけに響く。
「……一ノ瀬を、一時的な活動停止とし、一定期間の練習参加を制限する。それが妥当だろう」
そう告げようとした瞬間だった。
「待ってください」
静かな、しかし強く通る声で、神谷凛が言った。
黒澤コーチの眉がピクリと動く。
「処分を決定するには、まだ早いと私は思います」
「……どういう意味だ?」
コーチが眉をひそめる中、神谷先輩ははっきりと言葉を続けた。
「今回の事故の“被害者”は広瀬蒼真だ。もし一ノ瀬が代償を負うべきだというなら、それは組織からの処分ではなく――蒼真本人による“報復”という形で下されるのが筋では?」
その言葉に、場の空気が止まった。
「報復……?」
私は顔を上げ、隣の蒼真を見た。
彼は静かに目を伏せていたが、すぐに顔を上げ、視線を神谷に向けた。
「そうか。つまり、俺が決めろってことか」
「そうだ。第三者による裁定ではなく、当事者間の問題として、まずは君自身がどうしたいのか。部の規律も大事だが、これは心の問題だ」
神谷先輩の言葉に、三宅先輩も静かにうなずいた。
「俺は……」
蒼真が口を開く。
その声に、私は全身がこわばる。
「俺は、すぐに処分なんて言葉で終わらせたくない」
「……!」
「正直、腫れて痛いし、イラついたのも事実だ。でも紗月がわざとやったわけじゃないのも、ちゃんと分かってる」
彼は私の方を見た。
「だから――この件は、俺が“決着”をつける」
黒澤コーチは一瞬黙ってから、口元をゆっくりと歪めた。
「……いいだろう。その言葉に、私は同意する」
「コーチ?」
「空手は、技術だけの競技じゃない。信頼と対話の武道だ。蒼真の言葉に責任があるなら、それを見届けるのも私の役目だ」
「では、一ノ瀬の処分は?」
三宅が尋ねると、コーチは静かに答えた。
「保留だ。蒼真が“決着をつける”まではな」
その瞬間、私はようやく息を吐いた。
でも、同時に怖くなった。
処分を免れたわけじゃない。
私の未来は、蒼真の手の中にある――彼が私に何を求めるのか、まだ分からないまま。
**
その夜、私は自宅の鏡の前で拳を握っていた。
これは、ただの拳じゃない。
誰かを傷つけてしまった罪の象徴。
そして、誰かに“裁かれる”覚悟を持たなきゃいけない、私の責任。
――蒼真。
あなたが私に何を求めるのか、私は受け止めるよ。
でもどうか、私の拳が、もう一度あなたの隣に戻れますように。