初めてのあれこれ
薄暗い部屋の中で天井のシミをじっと眺める。
オレンジ色にぼんやりと光る照明が眠気を誘った。
僕たちの呼吸する音が重なって聞こえた。
手や腹部や首元から百合さんの匂いがする。
「初めてだったんでしょ? どうだった?」
「……よくわからなかったです」
ベッドの中で百合さんの手を強く握る。
汗ばんだ肩と肩を密着させて大きく息を吸った。
されるがままにことは進んでいき、気がつけば疲れ果てていて今に至る。
記憶も途切れ途切れで百合さんの声もおぼろげにしか覚えていない。
ただただ夢心地だった。
恋人ごっこを初めて三日。
生活に大きな変化はなかったが、百合さんが家にいるだけですべてが楽しく感じられた。
サボりがちだった風呂掃除や洗濯も話しながらなら苦なくできる。
恋人がいるだけでこれほど世界の色が変わって見えるなんて思いもしなかった。
「今度どこかいきませんか?」
「言ったでしょ。私はこの家から出られないの」
「そうでしたね」
百合さんが地縛霊だとわかったのは一昨日の夜、二人でコンビニへ行こうとした時だ。
靴を履いて玄関の扉を開いた瞬間、百合さんに異変が起こった。
玄関から先に出ると足取りが不安定になった。
目眩や吐き気があったらしい。
「ごめんね。その代わり家で恋人らしいことしようね」
「……はい」
百合さんの手を強く握る。声を聞くだけで耳が熱くなった。
「本当に成仏できるんですか?」
「どうだろうね」
「そうですか」
左腕を枕にして横を向く。
百合さんとのこの関係もいずれ終わってしまう。
最初は感じなかった寂しさは日を追うごとに肥大化していった。
「成仏してほしくないの?」
僕の気持ちを見透かしたかのように悪戯に笑って百合さんが言った。
「……君次第では長いことここにいるかもよ?」
突然耳元で囁かれて、僕は飛び跳ねるように上体を起こした。
戸惑う僕を見て百合さんは楽しそうに笑っている。
「今、喜んだでしょ」
図星を突かれ、恥ずかしくなって顔を背けた。
「本当にいい反応するね、君は。前に付き合ってた人に似てる」
「彼氏いたんですか」
「そりゃね。カッコよかったよ」
百合さんの隣で歩く男の姿を想像する。
鼻筋の通った美形だろうか、それとも目の大きな可愛い顔をしていたのだろうか。
顔も声も知らない男に嫉妬する。
その男は僕とは違い、惹かれ合って百合さんと付き合った。
そんな事実が羨ましく思えた。
「まあひどい別れ方だったけどね」
天井を眺めたまま額に右腕を当てて百合さんが呟く。
「……最後は相手の浮気だった。私のことは飽きちゃったみたいでさ」
百合さんが自嘲して大きくため息を吐いた。
幽霊になる前の百合さんを僕は知らない。
過ごした時間も短く、自分以外の誰かと会話を交わす姿だって見たことはなかった。
それでも僕の人生や価値観に大きな変化をもたらせてくれた百合さんを幸せにしたいと思った。
消えてしまうことは寂しかったが、百合さんがそれを望んでいるならば彼氏として可能な限り行動するべきだ。
今の僕にできることは素敵な彼氏を精一杯演じることだった。
「ちゃんと百合さんが成仏できるように頑張りますね」
微かに震える手を強く握る。
「そっか。ありがとうね。信じてるよ」
すると百合さんは手を握り返し、小さな笑みを浮かべてそう言った。